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1937年1月25日午前1時40分―同日午後2時36分

 「組閣の場合、軍部政党を如何に取扱ふか。最も重要且つ非常に微妙な関係に立つ。軍備充実庶政革新により軍部の意向を入れ立憲政治の確守尊重により政党の支援を求ざるを得策とす」


 ――今井田清徳

 1937年1月25日午前1時40分

 宮城


 宮中に入ると、湯浅倉平内大臣が居た。

 仕方なきこととはいえ、陛下を待たせていたということもあり、湯浅内大臣の足取りは心持ち早い。


 思えば、この御方が元老である西園寺翁――西園寺公望へ奏薦を伺いに行ったのである。つまり静岡の興津にある西園寺翁の別邸『坐漁荘』まで訪ねているわけで、帰路の途上で使いの者でも出してくれれば余裕をもって上京できたのに、と考えてしまうが、陛下にお伝えする前に誰ぞかに漏らすなど以ての外か、と考え直す。

 そんな私に湯浅内大臣は一言、忠告をする。


「陸軍の反対強烈なるが故、組閣には困難を伴うことを帝にも申し上げておる。慎重に熟慮の上お受けするようにお願い申し上げる」


「はっ」


 ……陸軍のことをお伝えしたのか。まあ、先ほどの今朝吾君の伝言も踏まえれば旗色は確かに良くはない。



 その後は無言で連れられて拝謁つかまつると、型の通り御前に召されて大命を拝した。


 不意に陛下から御言葉を賜る。


「――組閣を命ず。組閣の自信ありや」



 通例、大命降下には命ずる、とただ一言あるのみであったはず。これは極めて異例な事が起こっている。

 先の内大臣の言も踏まえれば大方御真意の程は、不穏なる情勢下にてどのような成算があるのか、と私の組閣について慮っているということであろうか。


 流石に陛下にそこまで言われてしまうと私も二つ返事で請け負う程図々しくもない。感激の念を告げ、ご配慮の通りの事態に自身の非才を詫びるとともに、


「暫らく御猶予を乞い奉り考慮講究をいたし、改めて複奉致したく思います」


 と告げた。かくして大命は降下されたのである。




 1月25日午前2時20分

 東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸


 宮中を辞去した後に、私は四谷内藤にある自宅へと戻ることにした。これから本格的に組閣を行うのに伊豆長岡の松籟荘に戻る理由も無い。多摩にも一応別邸があるが、便宜を考えれば本邸が一番都合が良いのは明らかであった。

 そして家に戻ると門前には、記者とカメラマン、そして私の友人らが大挙して押し寄せていた。まあ家が囲まれることは最早一度や二度のことではないので、家人も慣れたものである。

 ただ、大命降下ということもあり、何処ぞの馬の骨かも分からぬ友人を名乗る輩から、本当の旧来の友人までこぞって私の家にやってきていた。


 なので最低限度の義理として、門前に集う群衆に向かって、大命を拝したことと麻布に組閣本部を設置する予定だと告げ、そのまま家へと入っていった。


 ――というか。そも寝ようと思っていたら侍従長から電話がかかってきて、そこから車と汽車を乗り継いで宮中に馳せ参じたため、結構体力的にしんどい。無論家人にもその素振りは見せぬが。

 それに明日からは難航すると予期される組閣に本格的に取り組むのだ。ここで休まないと身体が持たぬ。




 1月25日午前10時45分

 東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸


「陸相官邸では朝の6時まで閣下への対応協議をなさっていたようで」


 相も変わらず家の前には人だかりが出来ているが、客間まで通したのが3人。まず陸軍の動向を伝えてくれているのが美土路みどろ君――美土路昌一。

 東京朝日新聞社の常務取締役であり、私が頼るブレーンの一人である。


「三長官らが集まったのか?」


「いえ。聞こえてくる情報で目ぼしいものは陸軍三次長が陸相を出さない方針を固めた、と。

 ……というか、教育総監の杉山さんは深夜にこちらに来ていませんでしたか?」


 杉山君がこの家に来ていたのか。夜分遅く私も疲れていた故、気が付かなかった。三次長レベルでは私の内閣に陸軍大臣を出さない積もりであろうが、杉山君自身は大臣をやる気でいるのだろうか。この陸軍内部風向きが不穏な中、それを取り仕切る気概があるということか。


「となると、一先ずは様子見であるか。杉山君の本気度合いを見るために三長官会議までは静観だな。

 西原さんが立てている麻布の組閣本部はどうなっている?」


「ああ。そちらには既に今井田さんと、閣下を支援する陸海の予備役のお歴々方が集まっているそうですよ」


 そう答えるのは、大蔵君――大蔵公望である。組閣と言っても、基本的な部分には大蔵君や西原さん、あるいは今井田君――今井田清徳らと既に昨年中の内にある程度人事は詰めている。だが、陸軍の旗色が怪しい。まずは、陸海の両大臣を確定させた後に、他の閣僚については打診する算段だ。

 その際には大蔵君の力は大いに頼りになるであろう。西原さんが政界の隅々、表も裏も知る清濁併せ呑む人物であるのに対して、この大蔵君には『国策研究同志会』がある。その一員には若手の矢次君――矢次一夫、と言ったか? ……ともかくこの会の面々は現職の陸軍中枢とも結び付いているため、私が政権を担った暁には陸軍との渉外折衷にも取り扱うことが可能だ。


「今井田君と西原さんが居るなら、間違いはないだろうな。まずは組閣本部に向かうとするか。今のうちに何か聞きたいことはあるか?」


 私がそう言うとこの場に居る最後の1人である鶴見君――鶴見祐輔が挙手をする。


「現状の宇垣閣下の取り巻く現状を推察するに、目下の方針は陸軍大臣と海軍大臣の選定、ということでしょうか。

 私から宮中筋への取り成しを進めておきましょうか」


 軍部を抑えるために、まずそれ以外を確たるものとする、ということか。それに宮中には侍従武官も居ることから陸海軍との繋がりも大きい。強硬に反対する中堅将校らに、そうした迂遠なやり方が通用するのかは分からぬが、少なくとも寺内君などには圧力に見えるであろう。


「では宮中は鶴見君に任せる。場合によっては華族の御方々の助力も賜るように」


「はっ」




 1月25日 午後2時15分

 東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部


 鶴見君らとの話が終わった後、家を出る直前に参謀本部に勤める義弟の笠原幸雄がやってきたが、彼が言うにも陸軍の内部状況は相応に悪い、とのことであった。

 組閣本部に着くと、まず昨日から作業を続けている西原さんに激励の言葉をかけつつ強制的に休むように伝える。そして今井田君にも感謝の言葉を告げ、状況を伺う。


「纏め役の林弥三吉さんが良くやってくれていますよ。ああ、その弥三吉さんなのですが……陸軍大臣の候補に香月清司中将を希望に挙げているのですが、宇垣さんは事前に交渉していました?」


「いや。香月君のことは知っているが顔見知り程度でしかないよ、今井田君。

 とても陸軍大臣をお願いするような間柄ではない」


「となると、弥三吉さんの希望ということですね。おそらく誰も交渉しに行っていないでしょうね……」


 そのように今井田君が呟くと、その言葉尻を捕らえる1人の男が居た。


「香月閣下であれば、下志津原で演習中ですよ」


 聞き覚えのある声に振り返れば、つい先日会ったばかりの顔がそこにあった。


「……そういえば、組閣本部に来ると言っていたな。今朝吾けさご君」


「宇垣さん、此方の軍人さんは……?」


 今井田君がそう尋ねると「憲兵司令官の中島今朝吾です。階級は中将です」と答える。


「現役の陸軍中将の方が宇垣さんの応援に駆け付けて頂けるとは」


 今井田君が云う通り、この場に元々居た軍人は皆、退役軍人か予備役のものばかりであった。私自身が高齢だから致し方ない面もあれど、二・二六事件の後の粛軍人事で、皇道派将校以外にも何故か宇垣派も予備役送りにされたからな。

 二・二六事件には全く関与していないが故、不服な面も多いが今主導権を握っている陸軍中枢にとって都合が悪かったから追放したのは間違いないだろう。


 そして陸軍中将・・・・であることに反応した今井田君。まあ、無理もない。

 軍部大臣は中将以上でないと駄目だからな。現役軍人からの受けが悪いところに階級だけで言えば適任者が現れたのだから閣僚人事を掌る今井田君には天啓にも見えるだろう。


「いや、私は陸相には為りませんよ」


 そしてその希望を即座に砕く今朝吾君。私もてっきり昨日の出来事が陸軍中枢からの恫喝ではないのであれば、陸軍大臣希望者かと思っていたが。


「ほう、何故?」


「私は憲兵司令官ですからね」


 あっさりと端的に答えた一言には、私も瞬刻頭を悩ませた。

 今井田君などは政界に熟知しているにも関わらず、この憲兵司令官の物言いに対して疑問符を浮かべている。


「もしかして、荒木君のことか」


「ええ、皇道派の荒木貞夫閣下は憲兵のことを熟知しておられました。憲兵が使い方次第では、政治的に非常に有用であることに気付いておられたのでしょう。ですから自身の陸相時代には子飼の人物を憲兵司令官に据えた」


 彼の言う憲兵司令官とは、秦真次君のことであろう。直前に要塞司令官という事実上の閑職に付いていた彼を一本釣りして憲兵司令官に据えたのはまず間違いなく荒木君だ。


 そして目の前に居る今朝吾君のことも多少家人に調べさせたが、前職こそ習志野学校の校長だが、その前は舞鶴要塞司令官であった。おそらく彼をある意味で閑職から救ったのは二・二六事件での強硬的な鎮圧態度であろう。

 そこを親友である梅津次官――梅津美治郎に一本釣りされる形で憲兵司令官に任命。形はまるで違えど、彼が荒木君のことを意識するというのも全く見当外れというわけではない。


 今朝吾君がそのことをどう考えているのか、という問題ではない。今の陸軍において皇道派の首魁であった荒木君を想起させかねない存在が陸相に就任することは決して認められない、ということだ。それこそ現在進行形で現役軍人に烈火のごとく嫌われている私よりも。


「それに、もう1つ。今井田さん、前・廣田内閣が倒閣した理由をお忘れですか?」


「閣内不一致。……あっ、そういうことですか」


 こちらは、今井田君にとっても理解の及びやすい領域の話だ。

 言い方は悪いが、廣田さんと寺内君の一件で大臣の機嫌一つで内閣が吹き飛ぶことが改めて分かった。そして陸軍が易々と次の陸軍大臣を用意しないことも。

 つまり今朝吾君としては、理想は私が陸相兼任となるのが最上で、次点でも私の手足となって動く人物でないといけないと考えており、そこでまともに話したのが昨日である自身が陸相なぞ論外と考えているわけか。

 まあ私が陸相兼任は制度上相当難しいだろうがね。


「……ということは、中島さんは弥三吉さんの言う香月中将の陸相就任には反対になるのでしょうか?」


「流石に先輩である林弥三吉閣下に異は唱えられませぬ。むしろ香月閣下という着眼点は素晴らしいとは愚考致しますが。

 ……ですが。宇垣閣下への反対派が集う陸相官邸でも香月閣下の名は上がっておりました。


 つまり、速度勝負ですね。どちらが先に香月閣下を取り込むか、という……」


 今井田君はその言葉を聞くと自身の秘書官にすぐさま車を手配と、汽車の時刻を調べに出て行ってしまった。


「初対面の今井田君を焚きつけるとは。

 ……わざわざ今井田君を外させて、私に何を言うつもりか」


「――2つ、ですね。

 まず、これから陸相官邸に行き寺内伯爵にお会いするお考えであれば、ご同伴与ろうと」


 ……本当に今朝吾君は私の先手を打つのが上手い。

 別に香月君の勧誘が上手くいかずとも、寺内君が留任すればそれで万事丸く収まるもの。あるいは教育総監の杉山君は、寺内君さえ落としてしまえば、陸軍大臣にでも何でもなるであろう。

 そして私が陸相官邸に乗り込むことで、香月君への工作の時間稼ぎとする。


 そう考えていたのをこの今朝吾君は読みおった。……とはいえ、折角今朝吾君という現役将校の駒が期せずして手に入ったので偵察させるがために、私は先に海軍大臣に会って海軍の動向を確認するが。


「まあ、良かろう。してもう1つは?」


「本日の夜半の御予定は空いておりますか?」


「用件次第だ。重要なものであれば空けるのも吝かではない」


「では。実は寺内伯爵との交渉が不首尾に終わった場合の窮余の策をお伝えしたく――」



 ――1937年1月25日午後2時36分。

 東京府麹町区三宅坂にある陸相官邸に宇垣が乗り込むまで、後3時間弱。

※用語解説

 本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。

 解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。


坐漁荘ざぎょそう

 静岡県庵原郡興津町にある最後の元老・西園寺公望の別邸。京風数寄屋造り2階建て。2階の客間兼座敷からは清水港から伊豆半島まで一望できるオーシャンビュー。1929年の増築時には洋室と洋式トイレ、そしてサニタリーが併設されている。

 西園寺自身が政治上の要人であるため、事あるごとに各界の著名人がこの別邸に詰め寄る『坐漁荘詣で』が行われたが、この坐漁荘、絶妙に不便な場所にある。最寄駅である東海道線(1937年当時)の興津駅、横砂駅からは徒歩20分程度。しかし興津も横砂も普通列車しか停まらない。にも関わらず西園寺は1年のうち4分の3程は此処で生活をしていたり。

 ちなみに湯浅内大臣は後継首班奏薦の際に、毎度のように東京から片道3時間以上かけて日帰りで坐漁荘を訪れる羽目になっている。可哀想。


美土路昌一

 ジャーナリストで実業家。朝日新聞の社会部と航空部畑を歩む。第一次世界大戦では青島攻囲戦に従軍記者として参加。1936年5月には緒方竹虎代表取締役専務取締役の下で東京朝日新聞の常務取締役となる。神田の商工会議所で在郷軍人会の退役軍人らと面会した際に社会主義的と警告されたのに対して、明治天皇の御製を読み上げ「朝日新聞はこの御製を編集方針にしている」と反論した。


陸軍三長官

 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三職のこと。将官などの高級人事は三長官全員の承認を必要とすることが慣例として決まっていた(陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定・1913年成立)。三長官本人の人事も三長官の合意が必要とされた。

 規定そのものは成立していたものの、大正期の陸軍の実態としては後継陸軍大臣の選定は現職の陸軍大臣が直接任命することも度々あった。三長官会議の先例が生まれたのは清浦内閣(1924)の宇垣一成の陸軍大臣就任時の人事からと言われている。

 なお1937年1月時点での三長官は、

・陸軍大臣:寺内壽一

・参謀総長:閑院宮載仁親王

・教育総監:杉山元

である。皇族である閑院宮への責任追及は不可なため、実態としては寺内と杉山の2人に決定権があった。


陸軍三次長

 陸軍次官、参謀次長、教育総監部本部長の三職のこと。陸軍省人事局の作成した高級人事の原案を三長官に渡る前に、三次長間でも協議を行う。

 1937年1月時点での三次長は

・陸軍次官:梅津美治郎

・参謀次長:西尾寿造

・教育総監部本部長:中村孝太郎

である。


大蔵公望

 元鉄道官僚で貴族院議員(公正会)。鉄道省他、ミズーリ・パシフィック鉄道、タイドウォーター鉄道、南満州鉄道などでの勤務経験がある。1932年には南満州鉄道理事を務め、鉄道経営から殖産部門、満州移民、対ソ研究などを行った。国策研究同志会を矢次一夫ともに打ち立てる。

 また宇垣一成の朝鮮総督時代から政治参謀役として近侍する。1936年12月には宇垣とともに政権担当を前提とした具体的な政権運営の話をしていた。


国策研究同志会

 民間から陸海軍・外務省・内務省などの官僚組織に至るまで巻き込んで組織された民間のシンクタンク団体。……なのだが、あまり実情が掴めない謎の組織でもある。当時の民間シンクタンクとしては他に『昭和研究会』があり、そちらは近衛文麿の後援組織として明確であったのに対して、国策研究同志会は一応陸軍省軍務局との関係が強調されるものの個々の政治問題に対して国策研究同志会がどのような役割を果たし、軍務局に還元されたのか不明瞭なのである。そして組織内部も、陸軍中級将校と結び付きの強い矢次一夫や湯沢三千男を中核とするグループと、宇垣派と結び付きの強い大蔵公望を中核とするグループが並存していた可能性があることも指摘されている。


矢次一夫

 労働活動家。一時、北一輝の食客となり労働運動へ身を投じる。1925年に労働事情調査所を創立し同主幹となる。野田醤油労働争議(1922-1928)、浜松日本楽器争議(1926)にて調停者として活躍し、共産主義勢力から陸軍中級将校まで幅広い人脈を形成する。後に、陸軍統制派の中心人物である永田鉄山の実務を補佐した池田純久と結んで国策の策定(陸軍パンフレット)に関与(1933)。横断的な組織の必要性を感じた矢次は国策研究同志会の組織に尽力、以降同組織の中心人物として活動する。


今井田清徳

 元逓信官僚で貴族院議員(研究会)。宇垣一成の朝鮮総督時代に朝鮮総督府政務総監に抜擢される。以後、宇垣派の政治幕僚として一貫して宇垣に仕える。廣田内閣時代に二・二六事件の事後処理の中、宇垣一成の退官に関わる進退問題が浮上すると、廣田首相や宮中と交渉し、次期内閣候補である宇垣の留任に努めた。

 1936年12月24日には、大蔵公望とともに宇垣内閣の閣僚候補者の選定を行っている。


鶴見祐輔

 元鉄道官僚で政治家。立憲民政党青年部長。1924年にはアメリカで日本事情の講演会を200以上行い、排日移民法に反対した。1926年には後藤新平の政治倫理化運動に参加。1928年、代議士として岡山第一区で当選すると新自由主義協会を設立、同時期に再び渡米して講演を行っている。この時期から宇垣と接触し首班工作に携わる。1930年明政会事件にて不正増賄疑惑。以後中国とアメリカを飛び回る。

 1936年12月には徳川義親侯爵に依頼して宇垣内閣実現への協力と資金援助の内約を得ている。


林弥三吉

 予備役陸軍中将。林銑十郎とは同郷・同期(陸士8期)であるが、銑十郎が派閥色の希薄性から統制派の旗頭になったのに対して、林弥三吉は宇垣の腹心と好対照である。楠木正成研究家としての側面も持つ楠公ガチ勢。1922年には支那公使館付武官として中華地域にて諜報活動を行っている。1932年に予備役編入となったが、今回の組閣に伴い宇垣内閣樹立に尽力することとなる。


下志津原射撃演習場

 千葉県千葉市にある演習場。千葉県内の主要な演習場は他に習志野原があるが、近衛師団管轄演習場規程によれば、習志野は基本的に実弾を使用しない演習に用いられた(歩兵1小隊以下であれば、特例として戦闘射撃演習可)のに対して下志津原は一般の演習と歩砲の射撃演習が認められていた。

 1937年1月25日時点で、香月清司が『千葉の演習施設』に居るらしいことは分かっているが、どちらの演習場か同定できなかったため本作では便宜的に下志津原を採用している。


粛軍人事

 二・二六事件の発生に伴い、蹶起将校に近しいとみられた皇道派、並びに二・二六事件時に蹶起将校に利する行動を取ったと見られる将校の退役・予備役編入・引責辞職・人事異動が行われた。この人事刷新による人事異動の対象者(粛軍の穴埋めで昇進した将校含む)は3000名以上とされる。


軍部大臣は中将以上

 軍部大臣は親補職であり在職中は親任官として遇された。親任官そのものは軍階級で言えば大将のみが該当する。が、親補職について階級の規定は勅令では制定されていない。しかし陸海軍の官制下で「親補職には大将もしくは中将を補する」と定められているため、自動的に軍部大臣職には中将以上にしか任命されないシステムになっている。

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