1937年1月29日午後7時1分―翌30日午後3時52分
「劣悪なる素質の旧東北軍を基礎として改編された満州国軍であってみれば五年や七年で世界第一流の軍隊になれないのは当然であり、匪賊討伐などに相当の成績を挙げていることはむしろ賞賛に値するといってもよい。けれどもこの討匪戦でも背後に日本軍隊がいなければ果たして輝かしき成果を収め得るかどうか。匪群も昨年の秋季以来の大討伐で一時影をひそめていたが草木の芽ぐむころとなれば、また跳梁跋扈するは例年の通りであり、殊に大集団匪が減少した代りに現存匪は政治匪の悪質なるものが多くなり、ひとえにこれらの匪賊をソ連及び藍衣社などが使嗾し武器金品などを給与して支持しているため、これの掃討は容易の業でなく有事の際における大きな悩みの種である故に速かに一掃し粛正工作に有終の美をなさしむるには従来の兵力を以てはどうしても不足である」
――高宮太平
1937年1月29日午後7時1分
神奈川県高座郡藤沢町鵠沼 廣田弘毅別邸周辺
廣田さんの別邸から東京府内に帰ろうとしたところ、どうやら高宮君の帰りの足が無いとのこと。
まだ汽車の終電はあるから駅まで連れて行けば良かったのだが廣田さんから是非に、と頼み込まれたこともあり彼を車に乗せて帰ることにしたのである。
我が家の運転手がハンドルを握り、助手席に今朝吾君、後部座席に私と高宮君が乗る。
「……宇垣閣下。本当に護衛も無しで、此処まで来たのですね。
正直その度胸には驚きの一言です」
「人員を増やせば記者らに悟られるのでね。あの騒動の後では、行動を把握される方が怖い」
正直この話を記者である高宮君にするのもどうかとは思うが、そんな新聞記者の出し抜き方をこの横に座る新聞記者は真面目に聞く。
「廣田さんと宇垣閣下の対談ですが……。表立って記事にするのは止めておきます」
「ほう。それは私としては助かる所だが、どういう風の吹き回しかね?」
「結局、中島中将にお声を掛けられたからこそ、場を取り繕うことが出来た訳ですし。曲がりなりにも主催した私が、それを記事に起こすというのは少々筋違いかと感じたので。
それに宇垣閣下がこれより復権するのであれば、私の陸軍の伝手も使い物にならなくなる可能性がありますからね、ここは1つ恩でも売っておいた方が今後の為というものですよ」
「後半が本音だろう、高宮君」
そう私が思わず反応すれば高宮君は声を挙げて笑う。
だが、口に出した言葉は紛れもなく事実だろうが、私が記者に把握されぬように動いたことを告げた後に、それを話したということはもしかすると彼も私が事件に巻き込まれる可能性を少しでも減らす為に今日の出来事を秘匿する判断をしたのかもしれない。
「……まあ、ですが。重光さんを外務大臣予想するくらいは許してくださいね?」
それくらいは今回の報酬としては十二分過ぎる程だ。正直今日の対談の件をそっくり記事にされることも覚悟していたのだから、それに比べれば微々たるものである。
僅かな沈黙の後に、助手席の今朝吾君が会話に参加してくる。
「高宮記者。この際なのでお聞きしますが、帝都以外での状況はどうなっていますかね? ずっと中央に居るとどうしても外の空気には疎くなってしまうもので……」
「ええと、ごく最近まで新京に居りましたので、近況ですと満州の話になってしまうのですが宜しいですかね?」
今朝吾君は「構いませんよ」と声を掛ける。
成程、満州の状況か。確かに中々手にすることは難しいだろう。外地でも朝鮮軍の様相は小磯君に電話を掛けた際に多少窺い知れたが、満州はほとんど何も分からない。
しかし、今朝吾君は関東軍司令部の出した経済開発要綱を翌日には自身の手元へ送り届ける程度には情報網を構築していたはずであるので、今更彼にとってその情報が必要なのかという疑念はあるが、多角的に収集し分析することは重要なのだろう。
「まずは、中島中将も知っているとは思いますが憲兵関連で1つ。
関東憲兵隊司令官であり関東局警務部長でもある東條さんの手腕は、大きく話題になっていましたよ。特に昨年の二・二六事件の事後処理では疾風迅雷、電光石火といった勢いで皇道派に与する青年将校を拘禁した早業は、関東軍参謀長である板垣征四郎閣下をも唸らせたとか」
その話は、他ならぬ今朝吾君が料亭『幸楽』で話していたな。だが憲兵組織の外である高宮君から見てもそのような評価であるということは、それなりに重要な情報である。
「ええ、そのことについては私の方にも報告は上がっておりますし、しっかりと拝見させて頂きました。
……高宮記者の目には、『東條英機』関東憲兵隊司令官はどう写りましたか?」
「――難しいことを聞きますね。
そうですね。悪党の類では無かろうと思います。正邪を直言する力量と勇気を兼ね備えた方であるとも。
永田鉄山閣下がご存命の頃は、東條さんのことを気にかけていたようですし、決して凡百の将軍で終わる器ではないのでしょうが……」
「……関東憲兵隊の面々を心服させたのは、まずかったかもしれませんね」
「……中島中将は、そうお考えなのですか。成程、そうですね……。
少なくとも、宇垣閣下にとってはあまり好ましくない状態ではないのは、確かですね」
言葉尻だけ捉えれば、高宮君は関東憲兵隊のことを評価しているように思えるが、どうも含むところもあるようだ。そして、私にとって好ましくないとは中々に穏やかではない。続きを促す。
「いえ。東條さんの忠誠は宇垣閣下には向いていない、ただそれだけのことですよ。永田閣下がご存命であればまた違ったでしょうが。今、宇垣閣下が敵対しようとしている陸軍部内の空気感……あれに忠誠を捧げている、とでも言えば分かりやすいでしょうか?
そして、満州は東條さんだけではない」
「……満州派のことですよね?」
「その通りです中島中将。言い換えれば石原大佐の置き土産と言いますか……。
東條さんのおかげで引き締めはされましたが、まだ中央に反感を抱く者も残っている。いや、むしろ東條さんが手綱を握ったことで、逆に東條さんが何か動いた場合の安全弁が無くなってしまったとも言えます。
更に、東條さんも全てを取り締まった訳では無いのですが、あまりにも苛烈に憲兵権力を使い過ぎました。青年将校に与する者や同心していた者が表に出さず潜伏するようになった、と私は考えております」
何と、満州派だけではなく皇道派青年将校の思想的共鳴者が潜伏している可能性があると高宮君は話す。
統制派で固められた東京憲兵隊と関東軍上層部、そして石原氏率いる満州派の根源地、更には青年将校の意思を受け継ぐ者。何が問題かと言えば、いずれの勢力も現時点ではこの私――宇垣一成と敵対しているという点だ。既存勢力を懐柔する余地がなく、介入するには一度私の手の者を送らねばならない。つまり即効性の手立ては無い、ということだ。
「……満州が鬼門となるか」
その私の呟きに、車内から返答が返ってくることは無かった。
1月30日午前9時32分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
「――と、警備体制を麻布警察署の方々と協力頂いて強化致しましたので、本日より再び組閣本部として平常通り使っていこうと思います」
安井君が、怪文書騒動を受けて警備体制の見直しと今後警察と協力していく旨を全体に周知する。記者テント村については据え置きだが、組閣本部内への立ち入りについては一定の制限を設けることとした。特に夜間の便所の貸し出しなどは最早言語道断だ。
記者らも怪文書騒動については充分に承知、というか自社の新聞で記事にしている都合上、不満はあれど已むを得ぬ対策だと考えているようだ。
そのまま話は定例報告へと移っていく。
「――昨日、前首相の廣田さんに会ってきたのだがね。外務大臣の候補として重光さんを紹介して頂いた。そちらの交渉は……そうだな、今井田君にお願いしようか」
「はい。しかし、廣田さんの下に行っていたのですね。
そう言えば昭和会の内田さんにお会いしに行くとも言っていましたが、其方は……」
「ああ、あっさりと済んだので忘れていたよ。
内田君も商工大臣就任には同意してくれた。また法制局長官に池田君、拓務大臣は引き続きで永田秀次郎大臣が就いてくれるのも確約を頂けた。
今井田君は、確か兒玉さんの下に行っていたはずだな」
「ええ、兒玉伯爵は内務大臣を快く引き受けてくださいましたし、万が一大臣職が変更となっても引き受ける所存だとも答えてくれました」
そうか。兒玉さんが内務大臣に就いてくれるか。
ただ、兒玉さんは内務省にコネクションが乏しい。だから補佐役を付ける必要がある。
「……では、船田君に内務政務次官。
後は、内務参与官には私と同郷の松本学君を付けるか。どうだ? 船田君、松本君とは面識があったかね?」
「松本さんと言いますと、ゴーストップ事件で名を挙げた革新官僚の松本さんですよね?
少々予想外の名が出ましたが、私は存じ上げております。……宇垣さんの同郷であったのですね。まあ政友会の方にも一報は入れさせていただきますが、おそらく問題ないとは思います」
船田君も今では政党政治家として板がついて来ているが、元々は内務官僚であったため兒玉さんの下でよく働いてくれるだろう。
ただ、船田君だけだと、政友会の党利党略に先行する危惧もあるので、ここに県知事職から警保局長まで務めた内務省エリートの大物貴族院議員を付ける。私と同じ岡山出身ということもあり個人的に親交もある松本君であれば内務省の反発を最小限に抑えつつも、私の内閣へと尽力してくれるだろう。
「あと、宇垣さん。政友会議員の大臣交渉ですが。
砂田さんに引き続いて中島知久平さんも承知してくださいました」
これで鉄道大臣も確定。そして政友会の大臣2枠も確保済み。
「鶴見君、民政党の方はどうなっている?」
「永井さんは文部大臣の就任に承諾してくださっております」
「……よし、結構。となると、残りは……。
大蔵大臣と農林大臣の2職か。
……こうなると状況次第では、民政党に2枠を用意するのは難しくなるかもしれんな。鶴見君、申し訳ないが場合によっては民政党には永井さんだけしか大臣ポストが用意出来ぬかもしれん」
大蔵大臣は大蔵官僚か、大蔵省出身の大物政党政治家に任せるしかないが民政党にそれだけの人物が居ない以上官僚から選抜することになるだろう。
となると枠として渡せそうなのは農林大臣だが。しかし、まだ何が起こるか分からないので調整枠として正直残しておきたい。
何事も無ければ民政党の幹部議員辺りを引き抜いてくれば済むが。
「……お伝えしておきましょう。その分、政務次官や参与官で色を付けることは可能でしょうか?」
「まあ、それしか無いか。
ここから先は、受動的に成らざるを得ないだろう。軍部は、大軍拡の予算案を控えているが為に大蔵大臣には特に注目している。
私としては受け入れる積もりはあるが、一度この辺りで陸軍の動きを見たいと思う。それにどの道、私の現役復帰の特旨がまだだからな、多少時間をかけても委細問題ないと考えているが如何か?」
その私の言葉には、特に反対意見は出なかったことから、大臣候補の選定は一時的に中断し、政務次官や参与官の選定を優先することにして、一旦陸軍部内の出方を見守ることとした。
そしてこの我々が受け身に入った瞬間こそが、陸軍の反宇垣派が策動する最大のチャンスになるのであった。
1月30日午後3時49分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
「――宇垣さん」
「何用か?」
本部の奥で書類の仕分け作業を手伝っていた私の下へ西原さんが来て話しかけられる。声色は真剣であったことから何事かが起きたのであろう。私も心を整えて彼の次の句を待つ。
「――教育総監の杉山さんが再び、この組閣本部を訪れております。
警備の都合で門前で待たせておりますが、お通しますか」
4日ぶりになるか。前回会った時には『私の信任を裏切った』と伝えたはずだが、それでも会いに来るとは思わなかった。
そして前回とは異なり優諚を得た以上、私の方が優勢である。仮にこの状況下でも尚、大命拝辞して欲しいと告げに来るのであれば即座に追い払うが……。
だが、そのように私が考えていることは杉山君も察しているはずだ。もしかすると、別件の用事であるかもしれない。
であれば……。
「応接室に通してくれ。ただし、茶は出さなくて構わん。
それと……今朝吾君は組閣本部内に居たはずだな? 彼も同席させる」
※用語解説
高宮太平の東條英機評
高宮太平自身は記者としての情報源を宇垣派及び統制派から入手していたことから皇道派軍人の評価の辛辣さに比するとやや統制派軍人の評価は甘く見受けられるが、それでも統制派を後に掌握することとなる東條英機については、「東條は実は悪党の仲間入りするだけの資格のない几帳面な小心者だった。もとより戦時宰相の器ではない」「市井の正直な小心者も何かの弾みで逆上すればとんでもないことをする」「恒常心を失った小心者」と中々に辛口な評価を下している。
しかし、それは決して高宮が東條のことを良く知らぬという訳ではなくむしろ私生活まで踏み込め、時には東條の弱音も拾える程に両者は良好な関係を築き上げていた上での評価であった。
(しかしそうした評価は、東條が首相としての在任期間を全て追い、かつ首相を退いた後も自宅に閑居した彼に取材をし続け、果てには東京裁判時には獄中まで訪ね東條の生涯を全て追い終えた後に出した結論である。その上、1937年時点での高宮と東條の仲は首相在任期程には近しい関係ではない。)
松本学
内務官僚。静岡県知事、鹿児島県知事、福岡県知事を歴任。県知事の遍歴は民政党系の内務官僚とみなされ政友会から地方官人事で一時的に中央から遠ざけられたのが原因。1931年には中央に返り咲き社会局長官、1932年には革新右翼系政治団体『国維会』に所属し革新官僚として社会的に認知される。五・一五事件直後に警保局長に任じられ、翌年のゴーストップ事件においては、軍部の圧力に屈さず、陸軍と全面対決。共産主義弾圧と日本主義普及を推進する。1934年に内務省を退官し貴族院勅撰議員となる。宇垣の大命降下後は、その組閣に尽力している。
ゴーストップ事件
1933年6月17日に大阪府の交差点で発生した陸軍兵と巡査の喧嘩。陸軍一等兵が信号無視をしたのを目撃した巡査が注意し派出所まで連行。その際に一等兵が「軍人は憲兵に従うが、警察官の命令に服する義務は無い」と主張。派出所内で殴り合いとなり一等兵は全治3週間、巡査は全治1週間の怪我を負った。
この一等兵の所属連隊の連隊長、そしてこの警察区の警察署長が偶然事件発生当時に両者ともに不在であったために、陸軍・警察の双方で上層部へと報告が至り大事となってしまう。22日に第4師団参謀長が警察に謝罪を要求すれば、大阪府警察部長も態度を硬化させる。24日に当時第4師団長であった寺内と大阪府知事が対談に至るもこれも決裂。
事ここに居たり陸軍大臣であった荒木貞夫は「陸軍の威信にかけて大阪府警察部を謝罪させる」と息巻くが、山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長は「一等兵を逮捕起訴すべき」と真っ向から対立。実際には一等兵側が巡査を、特別公務員暴行陵虐・特別公務員職権濫用等致死傷・傷害罪・名誉毀損罪で大阪地方裁判所検事局に告訴する事態に。大阪地方裁判所検事局は起訴すればどちらが負けても国家の威信が傷つくとして、仲裁に尽くす。
結果、陸軍と警察の対立は延々と収まらず、該当区の警察署長が過労死、そして事件の目撃者が陸軍と警察双方の度重なる事情聴収に耐え切れずに自殺するなど死者が出る事態となってしまう。
最終的には昭和天皇が特命を出す形で寺内の友人である兵庫県知事の仲介で和解が成立。この特命和解までに5ヶ月を要した。