1937年1月29日午後6時8分―同日午後6時49分
「斎藤実内閣も岡田啓介内閣もいずれもまあぐずぐずやっておると言われた。廣田もやはりそう言われるだろうが、自分はもしそういう革新派の連中がかれこれ言うのなら、それなら一つ軍部と喧嘩でもしてやる気がそういう連中にあるかといえば、それだけの気力のある者はない。また喧嘩する気でやる内閣が出なければ結局駄目だろうが、今はそういうものはとても出ない。
だからまあやっぱり廣田のやっておるように持って行くより致し方あるまい。結局喧嘩すれば憲法なんか飛んで行ってしまう。今でも半分ぐらい飛んでいるのだから、何と言われても、まあゆっくりだんだんにやって行くより致し方あるまい」
――西園寺公望
1937年1月29日午後6時8分
神奈川県高座郡藤沢町鵠沼 廣田弘毅別邸周辺
「住所によると……此方のようですが……」
車を東京府内から走らせて1時間と少々。広々とした海岸線と点在する池沼群。どっぷりと日が沈み心許ない街灯の灯りのみでは、その景色はおおよそ闇に包まれてしまっている。
府内の喧噪から打って変わって静かで閑静な地――いっそ、閑散と言ってしまっても良いだろう。
そして海風に煽られて木々が揺れる音。周囲は雑木林のようになっているのだろうか。夜目に慣れれば分かるかもしれぬが、その前に提灯を持った人の姿が顕わとなり、光源から彼の者が歩く道の周囲は松の木の林になっていることがうっすらと分かった。
「――そのお姿は、宇垣閣下と中島中将ですか? 閣下につきましてはお久しぶりですね、朝鮮総督になられる以前以来でしょうか」
「杉山君と、この今朝吾君がお世話になっていたようだね、高宮君」
私がそう告げれば高宮君も今朝吾君も一礼をする。
「……高宮記者。本日はお手間をおかけしてしまい申し訳ございません」
「いや、構いませんよ。それだけ信頼されている証でもありますからね。
前首相である廣田さんと、大命降下を受けた宇垣閣下の対談……それを独占させていただけるのであれば、私も喜んでお繋ぎ致しますとも。
……廣田さんは素晴らしい人物なのですが……とはいえ、この鵠沼の家の場所の分かりにくさだけは如何ともし難いですね、ある意味記者泣かせでもありますよ」
絶対に口には出さまいが、周囲に住宅の類も無くただ松林の中に佇む廣田さんの別荘は、作業小屋か道具小屋かのように見間違える程には質素である。
まさか此処に首相経験者が住んでいるとは夢にも思うまい。というより、その周囲にある警備用の詰所の方が立派に見えてくるくらいだ。
高宮君が玄関の引き戸を叩くと、くたびれた背広姿で登場する人物の姿が。
その姿形だけで見れば、そこらに居る会社員と言われてもそのまま流してしまいかねない佇まいをしているが、この目の前の御仁こそ廣田さんなのである。
「高宮君、ご苦労様。
そして宇垣さん、面と向かって腰を落ち着かせて話すのは初めてですかね?」
「ええ、誠に。廣田さん本日はこうしてお招きいただきありがとうございます」
「ああ、お礼なら僕にではなく高宮君や、この話を持ち掛けたその憲兵司令官の中島さんに言っておくれよ。
まあ、お入りください。家には安酒くらいしかありませんがお出しいたしましょう」
1937年1月29日午後6時15分
神奈川県高座郡藤沢町鵠沼 廣田弘毅別邸
客間に通された私達は、静子夫人を含めた廣田夫妻の歓待を受ける。どうやら簡単な酒の肴まで事前に作っていたようだ。これには流石の私も頭が上がらない。
そして、酒を交えた小さな宴もそこそこ、廣田さんが切り出す。
「しかし、宇垣さんも大変な時期に、僕のところへ呼びつけてしまった形になってしまい申し訳ありませんね。
高宮君から今朝のことは聞きました。怪文書……だそうで? いやはや、恐ろしいことです」
元はと言えば、この目の前の廣田さんが政権を放り出したから私に大命が降下されたという言葉は寸での所で飲み込む。それを言ってしまえば、寺内君と陸軍上層部が癇癪を起こしたからこそ廣田さんの内閣が瓦解したのだから、私の古巣の陸軍のせいと言われれば私としても返す言葉は無いからだ。
「――ですが、怪我の功名というもの。
おそらく帝都では今頃『宇垣は組閣本部にも顔を出さずに身体を震わせて自宅に引き籠っている』と思われているでしょう。
よもや、このように廣田さんと密談をしているなどとは思いも依らないでしょうね」
「成程。そういう考え方も出来ますか。
僕なら本当に家に閉じ籠るかもしれませんね」
お互いに軽口を叩きながら和やかに牽制し合う。
「それで本日は、僕に何用で? 高宮君たってのお願いだからお断りはしませんでしたが、今更僕が宇垣さんの為に出来ることなど何一つ無いと思うのですが……」
その言葉には今朝吾君が返す。アポイントを取ったのは彼なのだから、その意図を伝えるのは彼の方が適任であるはずだ。
「まずは軍部大臣現役武官制の件について、一度お礼を申し上げようと思いまして。
寺内伯爵との間で『三長官会議を経ず陸軍大臣を自由に任命できる』という約定を定めたこと……これが無ければ危うく現役武官制が早速効力を発揮するところでした」
今朝吾君の言葉に、廣田さんは少し顔を曇らせて「ああ、そのことか……」と呟く。
何か不都合が……と思ったが、やはり私にそのことを直接話していなかったことは負い目があったのだろうな。
「……次期首班候補である宇垣さんにそのことを伝えなかったのは、僕だって申し訳ないと思っていますよ。
けれど、宇垣さんがまさか優諚という手段を用いてまで組閣を強行するのは僕の想像の埒外であったからね……」
結局のところ廣田さんは、私がここまでの陸軍部内の反対を受けて尚、組閣を強行するとは思いもよらなかったのだろう。そう考えると、廣田さんが私に現役武官制の件を黙っていたのも少し透けて見えてくる。
私がそれを上手く取り扱えないと思ったわけではないだろう。むしろ、逆。私が廣田さんと寺内君の裏取引を奇貨として利用して――失敗するのを恐れたのだ。
陸軍大臣の選定に三長官会議を経る必要があると言う先例は、私が陸軍大臣に就いた折に出来た制度であることくらいは、少し調べれば分かることだ。
そんな私だからこそ、先例を打破することに何ら躊躇をすることない。そこも廣田さんに読まれていたのだろう。
しかし、首相権限でもって陸軍大臣を選任することができたとしても、陸軍部内は帷幄上奏を使って無効化を狙ってくるのは明らかであったし、そもそも私が小磯君に電話したときに小磯君が話していたように、現役武官の人事は現在の陸軍大臣が握っているのだから、私が選んだ人間を片っ端から予備役に編入する荒業を使われれば、やはり優諚しか手段が無くなってしまう。
そこで廣田さんは諦めると思ったのだ。もし廣田さんの懸念通りに私がそのタイミングで諦めたとしたら、残るのは裏取引が行われた事実と慣例を破ろうとして失敗した事実。なれば必ずや陸軍は次の内閣で、陸軍大臣の選定権限が三長官会議に帰属することを首相に認めさせるだろう。そうすれば廣田さんの努力は全て水の泡だ。
だから彼は黙った。私を見殺しにすることで、陸軍に対する強力なカウンターカードを手元に残したのだ。
とはいえ、その裏取引に気付いていた今朝吾君によってご破算にされたのだが。
巷で言われているような陸軍に服従的で言いなりで動いていた人物では決してない。無論、陸軍との決定的な破綻を恐れていたのは事実であり、反陸軍の急先鋒として振る舞った訳でも無いが、それでも無策で無気力であったという言説には私は疑問を抱かずにはいられない。
この廣田さんという人物が、それだけで収まる人間なのか――と。
「私は重要な事をするときは、いつでもそれが最初で最後だという覚悟を持って、今後、こういう事があるなどとは絶対に考えないようにしています。
だから今回退いて、また別の機会ということは、毛頭考えてはいませんでした」
「……僕には、そこまでの覚悟は無いから宇垣さんの強さは眩しく見えますよ。
とはいえ、僕の見立てでは宇垣さんは非常時にこそ輝く御人だ。だからこそ、今の時局よりも、もっとどん詰まったような場面でこそ活躍出来ると考えていたのだけれどもね……」
「……と言いますと?」
確かに私は西園寺翁のような旧来の英米派からすれば切り札であると同時に奇札である自覚はある。
だからこそ非常時に私に話が来るという部分は同意できる。しかし、廣田さんは今のご時世を『非常時』とどうやら考えていないようだ。
二・二六事件のごとき前代未聞の不祥事が起こり、軍部の影響力は日増しに増大し、国外に目を向ければ中華勢力との衝突は最早秒読み状態……これを非常時と評さずに如何に考えているのであろうか。
「確かに様々な情勢が良くなっているとは僕も思っておりませんよ。
……陸軍は言うことを聞かないし、外務省を差し置いて独自の外交を行う有様だ。
でも、それを差し置いても外交的な選択肢は未だ完全に閉ざされては居ないのですよ」
「……廣田さんはその首相任期中に日独防共協定の交渉を再開し、締結に漕ぎ着けましたが」
以前の料亭『幸楽』での対談にて今朝吾君が廣田さんの評価を行っていたが、改めて本人から対独関係についてどう考えていたか伺うためにこの質問をぶつける。
「対ソビエト戦略としてみればドイツは悪くはないと僕は考えていたのだけれどね。それに国民党の軍事的なパートナーであるドイツと手を組めれば、中国とも手が組めると思ったのだけれども。
それに防共協定を軸にして加盟国を増やしていくことは出来ると僕は考えたのだけどなあ。此処に英国さえ巻き込むことさえできれば、反ソをお題目としてまとまった新たな国際組織の誕生という構想ではあったのですよ……まあ、吉田君にこっぴどく振られてしまいましたけれどね」
何食わぬ顔で語っているが、とんでもないことである。
確かに外交には相手が居て、相手の思惑がある。しかしそのようなことは外務省叩き上げで外務大臣はおろか総理の椅子さえも掴んだ廣田さんには十二分に承知のことだろう。
一見すればドイツとの連携強化は陸軍の意向に沿いつつ、外務省の省益を損なわないような動きに見える。しかし、その一手にイギリスとの関係改善という実利と、国民政府との連携という亜細亜派としての意地が介在する妙手であったのだ。
そこを今朝吾君が切り込む。
「……英国と言えば、1934年の廣田さんが外務大臣時代に日英同盟の復活交渉があったと伺っておりますが」
――全く彼は。一体どこまで話題の引き出しがあるのだろうか。
流石に、この発言には陸軍政局のプロで元は政治記者の高宮君も、廣田さんすらも驚きの反応を見せる。
「……へえ、それをどこから知りましたか?
確かにそのような話があったのは、事実です。正確に言えば不可侵条約の提案ですが。イギリスに取ってみればドイツの伸張は本国の脅威ですから、極東は一旦我々に任せても対処すべき、という意見があったのは確かです」
「その手を取らなかったのは何故です?」
「日英の連携はアメリカの脅威となること。だから交渉は三国で同時に進めねばなりませんが、別にアメリカは日本に譲歩する必要は正直薄いですからね。むしろ交渉を破談させた方がアメリカの利益になりますし、何よりこの交渉は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉の側面もありました。成立させるには海軍さんの意見を翻す必要がありました。
それにイギリスの提案も権益の保障と門戸開放が前提となっていました。僕としてはそれを受け入れるのは吝かでは無かったですが、陸軍さんが受け入れるかと言われれば疑問に思わざるを得ませんでした」
「……それは流石に。
第二次ロンドン海軍軍縮条約での海軍の条件と言いますと……」
「ええ。英米との軍備平等の主張と、戦艦・空母・重巡洋艦の全廃……。どう考えても相手が受け入れるものではなく、予備交渉そのものを軍縮条約脱退へのカードとして利用しているものでしたね」
陸軍には満州事変までで手に入れた利益をイギリスに譲渡することを求め、海軍には、履行する気の全く無い軍縮条約の締結を求める必要があったということ。
……これは、廣田さんが気の毒だ。陸海軍を敵に回さねばイギリスとの協調は不可能となれば、交渉は足踏みせざるを得ない。
こうして話を聞いてみれば、廣田さんが世間で言われている程のドイツ贔屓ではないことが分かってくる。むしろ国内問題からアングロサクソンとの協調を断念し続けてきた人物だからこそ、ドイツの影響力を利用してイギリスの交渉の叩き台を作ろうとしているように見受けられる。
「……その時分から考えれば、日本の取り巻く状況は悪化しているように思えますが、それでも廣田さんは今は私が登板するような『非常時』とは考えていなかったということですよね」
「……ええ。状況は日々悪化しております。
しかし悪化したことで外交的に取り得る方策が一時的に増えた、というのも事実です。
ドイツとの関係強化をしても良し。従来通りに英米への連携へと回帰するのは困難を伴うでしょうけれども、どの道ドイツが欧州政治の旋風となりますので上手く時流に乗りさえ出来れば既定路線に戻すことも出来るでしょう。また、民間レベルで数年交渉が続けられていた蘭印との貿易交渉も、まもなく妥結に至るでしょう。
あるいは、ソビエト連邦。陸軍としては論外でしょうが、防共協定などという彼等の神経を逆撫でするかのような条約を表沙汰にしてもなお、漁業協定を何とか妥結することが出来ました。……今ならばソビエトは強硬となっても交渉を白紙にする勇気は無いのですよ」
外交のプロである廣田さんにそう言われると、そうやもしれぬという思いが出てくる。しかし、私の考えは変わらない。
「取り得る手段が増えたところで東亜の安定には、アングロサクソン国家との連携が必須であると私は考えておりますので」
「……そうですか。まあ宇垣さんがそう言うのであれば、そうなのでしょう。
しかし、その道はやはり陸軍とは相容れぬ道で御座いますな」
「元より覚悟の上です。
……それでなのですが。
親英米派で、対華協調のできて、陸軍との対立も覚悟できる胆力のある外交官は居りますかね?」
折角なので前首相で外務大臣経験者である廣田さんに次期外務大臣候補の当てがあるか聞いてみる。
しかし、私の問いに対しての答えは即答であった。
「ならば、駐ソ大使の重光葵君ですね。彼であれば宇垣さんのお眼鏡にも適うことでしょう」
重光さんか。皆に相談する必要はあるが、それでも有りかもしれぬな。
今朝吾君が、次の言葉を告げる。
「――文化勲章制定の功績は、重光さんにお譲りすることになりそうですね」
「……ええ、彼であれば私としても満足ですよ」
このとき初めて廣田さんは本心からの笑みを浮かべたように見えた。
※用語解説
日英不可侵条約交渉(1934年)
満州事変(1931年)後に第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉と並行して生じたイギリスの対日宥和策の一種。当時のイギリスを取り巻く戦略環境は多国間協定に基づく軍備縮小。しかし日本が満州事変の影響で国際連盟を脱退し、ドイツはジュネーブ会議で再軍備を主張、そしてイタリアはドイツとの連携を強めておりイギリス海軍は北海・地中海・極東での戦略前提が崩れ去り再定義が求められていた。
そこで生まれたのが日英不可侵案。イギリスにおける軍事上の最大の脅威はドイツであるからドイツへの対処のため極東方面は日本と連携すれば財政的なコストを軽減できる。それに日英間の通商摩擦の緩和やイギリスの権益拡大、中国で勃興しているナショナリズムの高まりがイギリス権益に波及する前に、日本にその防波堤になってもらう意図もあり、当時のネヴィル・チェンバレン大蔵大臣が主導の下、当時日本の外務大臣であった廣田に提案された。
廣田は、この日英不可侵案が実現すればアメリカを刺激する危険性(日英による太平洋・大西洋対米包囲網)を十分に承知しており、日米英の三国間協定に拡大することを求めた。
しかしこのチェンバレンの提案は中国市場の対英門戸開放が大前提とされ、イギリスの権益の保障が必要条件であったが、同年に成立した『石油業法』における日本勢力圏内での石油販売割当は国内企業優位で門戸開放に対するイギリスの不信感を煽り、その後の天羽声明により東亜モンロー主義を掲げたと解釈され日本は中国における門戸開放に応じるつもりが無いと理解、同提案は白紙とされるのであった。
第二次ロンドン海軍軍縮条約での日本の動向
軍令部の石川真吾中佐の提案した『次期軍縮対策私見』を起案として作成。対米英均衡と戦艦・航空母艦・重巡洋艦の全廃が盛り込まれた交渉案は、平和主義と独立国家間の軍備は平等であるべきとの立場からの提案とされたが、海軍が軍縮条約の再度の履行に全く意欲を出していないのは明確であった。
海軍が軍縮の打破に抵抗が無かったのは、そもそもロンドン海軍軍縮条約そのものが1936年までの暫定的なものでしかないと考えていたから、そしてアメリカがヴィンソン・トランメル法によって1940年までの建艦スケジュールを定めており、海軍としては建艦競争となるのは1940年以降だと考えていたからである。
更に、軍縮条約が締結されていれば国家としての面子を保つために条約によって定められた艦艇は上限ギリギリまで建造する必要があるのに対して、無条約になれば国防上必要な艦種のみを求めて適宜建艦すれば良いため、むしろ無条約となった方が財政負担は下がると説明している。
これに加えて軍縮条約の交渉に山本五十六少将を首席代表に任命した点も日本の姿勢を端的に示している。英米ともに海軍大将クラスの軍人を首席交渉担当としていたため、明らかに格落ちである山本の任命は日本側の意欲の薄さを顕著に示していたと言える。
蘭印(オランダ領東インド諸島【インドネシア】)との貿易交渉
日蘭会商とも。世界恐慌を経て日本から蘭印への輸出が大幅に拡大する。1933年には蘭印の対日輸入額が全貿易額の3割を超える事態となり、日本による経済的な浸透を恐れた蘭印は非常時輸入制限令を出し、日本製品の輸入に制限を掛ける。
日本側はそうした蘭印の動きに対して、貿易の拡大・海運協定の締結・日本人の入国制限撤廃などを求めて交渉を開始。既に1936年6月には日蘭海運協定が成立。
また貿易拡大交渉も1933年当時の輸入割当額に戻すこと、そして日本はその対価として蘭印から砂糖を可及的多量に買い付けることでほぼ合意に至っており、協定成立も時間の問題となっていて、日本側の意向が概ね達成される見込みであった。
日ソ漁業協定
1928年成立したオホーツク海における漁業操業に関する日ソ間の協定。北洋漁業に関しては日露戦争後のポーツマス条約(1905年)にてロシア領沿岸地域での日本の漁業権が承認されていたが日露漁業協約(1907年)で日本の操業範囲がカムチャッカ半島沿岸から沿海州沿岸まで拡大した。
ソ連成立後は長らく無条約で日本漁船は操業していたが、1927年の日ソ国交回復とともに日ソ漁業協定が成立。8年毎に改訂とされ、漁業区域は入札制が導入された。するとそれまで日本の独擅場であった同海域に、ソ連の国営企業・労働組合企業が続々と参入して日本の漁業区域と比肩する程に至った。これに焦った日本側は1932年に現状漁区の固定化をソ連に提案し合意に至っている。
そして8年期限の迫った1936年の協定の更新交渉中に、日独防共協定が発覚。明確にソ連を仮想敵とした日独の秘密交渉にソ連は激怒し一時は漁業協定は破談の憂き目に遭い、再び無条約による漁業操業となるところであったが、辛うじて廣田は、1932年漁区の追認とルーブル換算率取極め等を1年間延長する第二次暫定協定を結ぶことに成功した。
重光葵
外交官。1929年上海総領事、1930年より中華公使。満州事変(1931年)勃発時に外交による協調路線によって収めようと奔走。第一次上海事変(1932年)の際には欧米諸国と連携し停戦協定を成立させる。が、上海にてテロ事件に遭い右足を失う。1933年より外務次官としてリットン調査団及び国際連盟交渉に関与。1936年からは駐ソ公使となり、ソ連との国境紛争の調停に尽力した。
文化勲章
廣田が首相在任中、賞勲局に命じて制定に尽力。当初勲章を占有視している軍部からの妨害工作が予想されたが、いち早く参内して昭和天皇に説明し内意を得た上で閣議にかけるという強行手段を取る。
昭和天皇も制定には乗り気であり、「政治上のことではないから自分の意見を述べても良いだろう」として、右近の橘の花を意匠に用いることを提案した。この橘には、従来の勲章で用いられる散りぎわの美しさを示す桜で代表させるべきではないという考えもあった。
そうした思いも込められて文化勲章の制定は確定したが、その発表は1937年2月11日。既に廣田は内閣総辞職したことで自身の手で発表する機会を失っていたのである。