表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/26

1937年1月28日午前10時15分―同日午後2時13分

 「香椎中将(二・二六事件当時の戒厳司令官)が26日、陸軍大臣に会えるのは宮中に於いては午前11時過ぎなるに拘らず、之に先立ち午前10時50分既に警備司令部より近衛師団に下達せられありし事実」


 ――坂本俊馬

 1937年1月28日午前10時15分

 東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸


「――というわけで、新しい人員を確保したので紹介いたします。宇垣閣下」


 朝からのこのことやってきたかと思えば、いきなり見知らぬ人物の紹介を始める目の前の男は、今朝吾君であった。



「東京憲兵隊の上砂勝七であります!」


「同じく林秀澄と申します!」


「上砂君は中佐です。林君……だと組閣参謀の林弥三吉閣下の気を煩わせてしまうかもしれないから秀澄君。彼は少佐です」


「……いや。そんなことは聞いていないのだが。

 いきなり配下の憲兵を引き連れて大名行列の真似事かね? 今朝吾君」


 私が朝の時間を阻害されたことを皮肉交じりで伝えると、今朝吾君はそれを分かった上で流してこう答える。


「正確には、私の部下ではなく、部下の部下といった方が正確でしょうか。一応彼らの上司にあたる坂本東京憲兵隊長には伝えてありますが。

 この2人には、表向きは宇垣閣下の護衛を努めてもらいます」


「ほう、表向きか。では裏があるということか?」


「ええ、まあ。

 2人とも将校格ですので閣下の身辺における有事の際には、初動兵力の現場指揮官として運用を意図しております。

 閣下の周囲に陸軍軍人は多いですが、何かあったときに予備役の身分のまま指示をお出しになると、指揮系統関係で批判が出る可能性がありますので」


 これは今朝吾君の危惧は正当なものであると言わざるを得ない。部内の支持さえ握っていれば、有事の際に詰めている護衛の兵に多少指示を出したところで非常時故に致し方ないと咎められることは無いであろう。

 しかし私に反感を抱く者らからすれば、格好の難詰する材料となる。


「――しかし。対応能力を強化するということは、何か兆候でも掴んだのか?」


 突然……と言うほど突然でもないか。今朝吾君が急に護衛を増員することを決めたのは、まず間違いなく優諚の一件であろう。

 ただ、それ以上に何かを掴んでいる可能性も一考して、聞いておく。が、返答はほぼ予想通りのものであった。


「いえ。特に何も。

 ですが、『ピストルや爆弾の問題』にも対処する必要がありますから。閣下はそれを御覚悟なさっているようですので……」


「であろうな。……まあ、今朝吾君のことは信用しよう。曲がりなりにも今回の組閣で一貫して私の側に付いていたからな。


 しかして、上砂中佐と秀澄少佐と言ったか。

 私の側に付くということは、陸軍の部内に反旗を翻すことに等しいが、君らのことを私は信用して良いのかね」


 少々意地の悪いの言い方だとは思うが、陸軍の最長老にも等しい私と中佐だか少佐だか高々佐官の彼等の間には大きな隔たりがある。

 統制派と呼称される中堅将校の面々のように、私の軍縮により人事が乱れたなどという考えを持っているやもしれぬし、誰しも他人の内面のことなど当て推量するしかないからだ。


 そして地位の離れた私に、佐官で反論できる人間というのはそう易々と居ない。ましてや、そうした軍内の階級の枠組みを超えて、分け隔てなく接していたのが皇道派の荒木君や真崎君であり、彼らが表向き寵愛していた青年将校は二・二六事件を起こしたとあれば猶更である。

 だからこそ、今の軍内は粛軍を行いそうした統制の乱れを正した。……まあ、本来上位者である私に組閣で全力で妨害してきたことを鑑みれば、粛軍の効力については甚だ疑問ではあるのだが。


 とはいえ、そうした状況であるからして、彼等2人も沈黙してしまう。

 しかし、自分で自身が信頼に足る人物であることを証明するのは至難の業だ。ある意味では黙り込むのも正解であろう。


 だからこそ、その回答については私に対して真っ向から意見をぶつけてくるのことのできる今朝吾君が代行したのは致し方ないと言えよう。


「上砂君、秀澄君」


「はっ」


「貴殿らは、陸軍中枢より下達があった場合に宇垣閣下を捕縛するか?」


 今朝吾君の問いに、両者はほぼ瞬時に首を振る。そして、その直後に秀澄少佐が声を挙げる。


「如何に上官であろうと、明らかに不適当で承諾しかねる命令であれば説明を求めます。そしてその命が正当な事由無き場合には抗命すらも辞しません」


 その言葉を聞き感じたことは2点。私の前ではそう答えるしかないだろうというある種の納得にも似た諦観を覚えたのが1つ。

 そして、命令違反の可能性をここまで明確に挙げる人物を果たして信用していいのかという疑念。


 しかし、今朝吾君はそのまま話を続ける。


「では、憲兵司令官である私が陸軍上層部――例えば前内閣で陸相であった寺内伯爵の捕縛を命じた場合はどうする?」


 この質問に対して2人はしばらく硬直する。どのように答えれば良いか悩んでいるようだ。

 この場で信を得るために、彼等が取り得る手段の1つとしては、今朝吾君あるいは私の命に服すると述べてしまうことである。そう話した以上はこちらも、それ以上追及することは出来ぬし、仮にそれ以上今朝吾君が彼等を追い詰めるのであれば私が止める。


 長い沈黙の後に、上砂中佐が口を開いた。


「……先程。秀澄君が話した通りでございます。その上官が喩え憲兵司令官であっても宇垣閣下であっても、正当な事由無き場合には抗命させていただきます」


「――ほう」


 思わず声が口から漏れてしまったが、つまりはこの2人は上官が誰であっても不当な命令だと判断すれば従わないのか。……成程、軍内においては――しかも憲兵ということまで踏まえればその在り方は極めて正しく同時に危険だ。

 しかしそれでも尚、佐官まで上り詰めたということは、その本音を建前で覆い隠せるだけの胆力と、決定的に組織力学とは決裂しないだけの判断力と事態対処能力はあるということか。


「……とまあ、こんな感じです。宇垣閣下。

 彼らは宇垣閣下に心服している訳でも無いですし、私に盲従している訳でも無いです。

 ですが、陸軍部内や上官に対して無為である人物でもありません」


「だからこそ、私の護衛に適任である……ということか」


「何より彼らの所属は東京憲兵隊。直属の上司という意味では坂本東京憲兵隊長が居りますからね。それでも私の招集に応じて此処にいる意味も勘案して頂ければ」


 つまりは、一応今朝吾君が東京憲兵隊長には話を通しているとはいえ、直属の上司から離れて行動している点。それくらいの腹芸は出来るということの証左である。

 そして部内の空気同様私のことを嫌う人物であれば、絶対にこの命は受けなかったであろう。少なくとも中立的態度は確定している。


 となれば。私が理不尽に暴力に晒される事態になれば、憲兵の責務として加害者の捕縛に尽力する。

 逆にその状況下で彼等が動かないとなれば、私は彼らの中立的態度を損なうだけのことを仕出かしたこととなる。つまりそうした指標としても利用できるということも込みの提案か。


 更に。今朝吾君自身が憲兵司令官の座を解任される可能性も恐らく考慮している。陸軍の高級人事は、慣習的には三長官会議の専任事項であったが、それを私は昨日、陛下からの優諚で自ら破った。となると、人事権は軍政事項であるから本質的には陸軍大臣に帰属するはずだ。

 だが、だからといって私が現在陸軍大臣なのかと言われると正直微妙だ。まだ現役復帰していないため現状で陸軍大臣としての権力を行使しようとすれば現役武官制を盾に部内は盛大に批難するだろう。しかし既に優諚は為されている以上、寺内君が陸軍大臣としての権能を有しているのか、と言われればこれまた微妙だ。


 だから、今朝吾君の予備役に編入することが現在の陸軍上層部に可能かどうかは不透明なのである。そのような危ない橋を寺内君や杉山君が渡るとはあまり思えないが、それでも強行してきた場合に、両名を私の手元に残すという策なのだろう。


「――であれば、ひとまず受け入れよう。

 今後の働きに期待する」




 1月28日午後2時7分

 東京府麹町区霞ヶ関二丁目 海軍省


 海軍省には事前に安井君を使って訪問の先触れを出しておいた。大命降下後真っ先に訪れたのが海軍省であり、その時同行していたのが安井君であったため、連絡係をお願いしたのである。


 そして、今。その安井君と、午前から私の周囲に居座り続ける今朝吾君、そして本日紹介された2名の護衛、後数名の職員を引き連れて海軍省を訪れた。

 

 海軍省本館に入ると、その大きな白磁の階段のあるエントランス前には海軍の将官らが両脇に並び敬礼をして我等のことを待っていた。

 そして、その最奥には永野修身海軍大臣と山本五十六海軍次官が笑みを浮かべてわざわざエントランスまで出迎えてきていたのである。


 その全力の海軍の歓迎姿勢に、護衛の2人や大方の此方の人員は完全に気圧された。


「……宇垣閣下。何かやりました?」


 今朝吾君までもが小声で私に困惑しながら訊ねてくる有様なのである。


「いや、私からは(・・・・)何もしていない」


「――把握いたしました」


 若干匂わせた発言をしたら、即座に理解の表情を浮かべる今朝吾君。



 敬礼した将官らによって作られた中央の通路・・を通り、永野大臣と山本次官の下に馳せ参じると、喜色満面の表情を隠そうともしない永野大臣からこう告げられる。


「宇垣大将! 良くぞ……良くぞ! 陸さんの圧力に屈さず、断固とした姿勢をみせてくれましたな!

 我等海軍一同、宇垣大将の組閣には全力で尽力致しますぞ」



 種を明かせば簡単なことだ。陸軍三長官の決定した人事に否を突き付けた。ただ、それだけのことだ。

 その瞬間に海軍視点では、一介の陸軍軍人の首相候補から陸軍の専横に屈しない人物へと評価が翻ったというわけである。


 ちらりと隣を見れば、安井君が山本次官に今朝吾君のことを紹介している。

 そして挨拶を交わした後に、護衛の2人を指揮系統の都合から今朝吾君が切り出す。曰く、


「……この2人は、坂本俊馬東京憲兵隊長から借り受けてきた宇垣閣下の護衛となります……」


「ほう、坂本さんですか。

 ……昨年の帝都騒乱の折には、海軍が世話になりましたね」


 午前に私に彼等を紹介したときは、東京憲兵隊から引き抜いてきたような物言いであったが、海軍を前にしたら今度はその憲兵隊長の名を利用して好印象を与えようとしている。何という身の振り方。


 その様子を傍目で見ていたが、永野大臣が口を開いたので意識を戻す。


「まあ、立ち話も何です。どうぞ大臣室を開けているので、移動しましょうかね」


 その言葉に軽く頷き移動を始める。どうやら1対1で応対するようだ。

 まあ、山本次官の方は安井君がいるから何とかなるだろう。護衛の2人は責務からか私の方に付いてこようとしたが、それは永野大臣と海軍の面子を潰す行為でしかないから軽く手で制止すると、今朝吾君が呼び寄せていたので問題なかろう。



 さて。この様子なら海軍大臣は比較的に容易に候補を出してくれそうだが……。

 慢心は禁物だ。

※用語解説


上砂勝七

 陸軍軍人。陸軍士官学校を卒業後歩兵科から憲兵科へ転科。1923年の高崎区裁判所襲撃事件では事態鎮圧に関与。同年の関東大震災後に発生した甘粕事件においては、上砂自身も上官から社会主義者の福田狂二を殺害する命令が下ったがこれを無視する。1925年には鶴見騒擾事件で出動した憲兵隊の指揮を担う。

(史実では宇垣の大命拝辞時に林弥三吉が陸軍批判の声明文を発表したことを受け、中島今朝吾が林弥三吉の逮捕を命じたが、これを中島の独走として面従腹背した。)


林秀澄

 陸軍軍人。1933年の青年将校と中堅幕僚の偕行社での会談を天野勇とともに発起する。その背景には、皇道派と統制派の対立が激化しつつあった陸軍部内の状況が新聞社を通じて外部に露出していることを憂いて関係改善を意図したものであった。しかし、軍中枢部は青年将校の策動は既に弾圧することに決定しており会談は失敗。林秀澄は皇道派でも統制派でもなく融和を求めていただけであったため、この後の一部の青年将校が引き起こす陸軍士官学校事件、二・二六事件等には関与していない。

(上砂勝七と同じく史実では、林弥三吉の声明文発表時に中島今朝吾の独断命令を受け入れず逮捕に踏み切らなかった。)


抗命

 陸軍刑法・海軍刑法で上官の命に服さないことは禁錮刑で処罰されることが明記されている。

 海軍の事例ではあるが、1901年イギリスで竣工した戦艦『三笠』での抗命事件がある。進水後回航準備を行っていた際に、まだ一部未完成であり回航は半年後であったが居住に耐えうるとして兵員は三笠に宿泊した。しかしこの当時の未完成の三笠は寝所が雨で浸水し風が吹き込み、工事の音が鳴り響き、ゴミが散乱する中での生活を余儀なくされた。一方、士官以上はイギリスにおける生活に慣れる目的で外泊が許可された。その中で突如として金銭支給であった兵員の糧食が、現物支給に切り替えられたことを機に不満が爆発。兵全員187名の同意でもって、昇降口と防火扉を全て封鎖し未完成の三笠艦内でストライキを決行する。四日間の籠城の後に解散され、ストライキに参加した全兵員に抗命罪が適用された。

 また陸軍においては、1932年において3名が軍法会議において抗命罪として処分されている。(その内1名は第一次上海事変に関連。)

 三笠の件が極めて異例ではあり、かつ頻出する出来事ではなく、ましてや士官クラスの抗命は1937年時点ではほぼ存在しないが、それでも平時における陸海軍どちらも全く縁のない事象ではない。

(なお、二・二六事件で叛乱を起こした将校は、抗命罪ではなく叛乱罪と叛乱幇助罪で主に裁かれている。)


坂本俊馬

 陸軍軍人。羅南憲兵隊長・京都憲兵隊長を経て1935年より東京憲兵隊長に就任。1927年には西田税の天剣党趣意書配布事件の事態収拾に尽力。二・二六事件時には臨時で指揮を執っていた矢野機総務部長に対して即時鎮圧を主張し対立。また青年将校の動向不穏を長谷川清海軍次官(当時)に伝えている。事件後の4月25日には「軍上層部内ノ叛軍一味徒党検挙計画案」を提出するが、これは寺内により黙殺されている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ