1937年1月27日午前11時27分―同日午後0時5分
「私が学習院から帰る途中に乃木大将に会って、そのとき乃木大将から『どういう方法で通学していますか』と聞かれたのです」
「私は漫然と『晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います』と答えた。すると大将は『雨の日も外套を着て歩いて通うように』と言われ、私はそのとき贅沢はいけない、質実剛健というか質素にしなければいけないと教えられました」
――裕仁(昭和天皇)
1937年1月27日午前11時27分
宮城
部屋の中には、護衛の人間を除けば、陛下と百武侍従長と私しか居ない。
「……陛下は、この度の奏上につきましてどのようなお考えをお持ちであるか、とそうお尋ねになられております」
私が今の状況を飲み込むまでの間を、百武侍従長はどうやら私が陛下の御言葉の意図を掴みかねたとみて繰り返す。
奏上の内容だけで考えれば、単純だ。
陸軍から大臣を出して貰えぬので、陛下の優諚を乞う。ただ、それだけである。
しかし、どこから話すか。
よもや最初から陛下自ら親臨なさるとは思わなかった。
百武侍従長に対しては湯浅内大臣に話したこととほぼ同様の話を伝えて、それでもって陛下に御聖断いただく算段であったが。このような場を用意してくれるということは、より仔細を話すことも可能である。
……いや。ここは、素直に認めよう。
柄にも無く緊張しているのだ、私は。
この自信家で、野心家で、古巣である陸軍を敵に回す決断をした――宇垣一成という男は、目の前の帝国で最も貴き御方が話を聞いてくれる……そのような絶好機を。
降ってきた最大のチャンスとしてではなく。余りにも畏れ多き事と震悚しているのだ。
先に大命降下をして御姿を拝謁したこともある。いや、それより昔、私が陸軍大臣や朝鮮総督であった時分には、同じように国務事項の報告をするために対面したこともある。
が、職を賭してかつ、全面的に陛下の一存にしか頼ることができない……そのような、状況は未だかつて無かった。
成程。自答して気が付いた。
首相として事を為すのは、これからだ。まだ、私は一国の首班として何も成していない。にも関わらず、陛下に先例を覆して貰わねばならぬのだ。
――未来という不確定な手土産だけで。
そのような厚かましき願いを、届けて良い程私は人物なのか。いや、責務に対する自覚と自負はある。私でなければ陸軍を止められぬ、という責もある。
だが、しかし。それらの私の覚悟すらも、遥かに超越するような失礼な願いを今から行おうとしているのではないか。
その不安が、今ここに来て、本当に恥ずかしいことであれど――陛下の御姿を拝謁して生じたのである。
「――百武よ。外せ」
そんな私の醜態を目の当たりにした陛下は聖慮を玉音として紡ぐ。
「はっ……いえ、ですが……宜しいので?」
「構わぬ」
そのような短いやり取りを行うと百武侍従長は、席を立ち陛下に深々と一礼をし、私には目礼をして去っていく。
決してこの場のことを口外せぬ護衛を除けば、部屋には陛下と私のみになってしまった。
そして侍従長のドアを閉める音の後には、一切の音が消え失せる。
部屋の中には森閑が訪れて、私の心音などが陛下の耳を煩わせていないかなどという詮無きことを考えてしまう。
結局、静寂を破ったのは陛下の方からであった。
「――何か言ったらどうなのだ」
「あ、いえ。……申し訳ありませぬ」
ほとんど反射的に、無意識的に、無配慮に謝罪の言葉を口にしてしまう。元来の私の気質は違ったはずだ。口先だけで人を惑わしたことも一度や二度という話でもあるまい。しかし、今は……全く口上が思い浮かばぬ。
「――宇垣よ」
「はっ」
陛下が短く私の名を呼ぶ。私は神妙にその言葉に相対した。
「……くくっ。まさか其方が、そこまで緊張する姿を見ることになろうとは」
「……はい?」
思わず反射的に陛下のご尊顔を拝すると、笑いが堪え切れぬといった面持ちで破顔していたのである。
1月27日午前11時35分
宮城
「私は元を辿れば岡山の百姓の倅ですぞ。……このような場に及んで極度に緊張もしましょうて」
「いや、済まぬと申しておろう。であるが……くくっ。其方のような男が、朕にここまで分かりやすく形相を見せるというのも、中々無いではないか」
どうやら、私が柄にもなく極度の緊張状態に陥っていたのが、どうも陛下の琴線に触れたようである。今もまだ笑いを堪えておる。
「……陛下こそ、そのように御言葉を多く語り、大御心を龍顔に顕す御姿は、私は拝見したことはございませんが」
「ここには朕と其方しか居らなんだ。公で朕が言葉多く語れば色々と邪推されるのでな。形相など言うに及ばず」
すなわち、陛下は普段は帝としての顔を被り、政を行っている。
そして帝であるからこそ、その御言葉1つで国家の屋台骨・大黒柱まで揺らしかねない。だから細心の注意を払うがために言葉少なに敢えてお話になられていた、と。
元来の気質まで御伺いすることは出来ぬが、それでも尋常ではない心労であろう。
「簡単な話は百武や湯浅から聞いてはいる。其方がここへ参った経緯についても。
――だが、改めて其方から話を聞かせて欲しい」
私はその御言葉を皮切りとして、長岡で大命降下の連絡を受けてから、今までの物語を。
宇垣一成という男のここまでの物語を紡ぐのであった。
1月27日午前11時52分
宮城
「――あ、そう。
まずは、良くぞ全てを話してくれた。
……そして。大儀であったな、宇垣よ」
「……ははっ。勿体無き御言葉……!」
気が付いたら私は、ここ3日のことを粗方全て話していた。
話す順序など考えずに、ただ時系列で話したから聞き苦しいところや理解の及ばざるところもあったやも知れぬ。しかし、陛下は聞いて下さった。
おそらく今まで陸軍大臣や朝鮮総督であった時代に行った奏上と比較しても、最も拙いであろう物言いを何も言わずに聞いて下さったのである。
「美濃部の様子はどうであった?」
「暴漢に襲われ足を負傷したとのことでしたが、お元気そうでした」
まずは陛下も面識のある憲法学者の美濃部さんの話からお尋ねになられ。
「――長岡の松籟荘は、住みよいか?」
「ええ。妻を亡くした私の心を癒してくれました」
私が伊豆で隠遁していた松籟荘のことも聞かれる。……思えばあそこは、陛下の母君で在らせられる節子皇太后陛下が別邸としていたこともあった。陛下も耳に覚えがあったということなのだろう。
「――其方は、英米とは協調すべきと考えるか?」
「はい。アングロサクソンとの連携なくば、ソビエトへの戦略が立てられませぬ。また中国と交渉する上でも、彼等と一致団結して事に当たらねば交渉にならぬかと思われます」
「――国民政府や中国共産党とは戦争になるか?」
「憲兵司令官が言うには、既に軍事侵攻計画はおろか北支の統治計画も策定しているとのことです。
何か大きな事が起これば……その可能性は大であるかと」
「宇垣よ」
「はっ」
「其方が首相と成れば、その戦争――防げるか?」
――さて。非公式の場であるから、陛下も積極的に私の考えを読み取ろうとしてくる。ここまで知識に貪欲な御方であったとは思わなかった。
そして戦争を防ぐことが出来るかという問い。
もしこれを問われたのが今この場でなければ、私は『最大限善処する』といった言葉で飾っただろう。あるいは『粉骨砕身の努力はするが、相手の出方次第である』という言葉を使ったであろうか。
はたまた、陛下の御前であるから、一も二も無く『防げる』と明瞭に答えただろうか。
しかし、この時出てきた言葉はどちらでもなかった。
「……防ぐことは出来ないでしょう。
我が軍は既に満州を。外蒙古を。北支を。既に一部切り取っております。
中国側にこれらの地を明け渡すことを容認させるのは尋常なことではありませぬ。遅かれ早かれ武力衝突になると思われます。
……私に出来ることは、そうした武力衝突を我等の方から起こさぬように陸軍を粛することと、武力衝突が起きた後に、北支全域を巻き込む全面戦争に広げぬこと。
この2点のみです」
私が、そう話せば陛下は深く嘆息し、椅子の背もたれに深々と寄りかかった。
「……かつて院長閣下はこうおっしゃった。
『何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、あるいは国の害になるような人間は死んでしまった方がよいのである』……と。
『私』は、深くその言葉に……いえ、この言葉だけではないが、院長閣下の在り方に深く感銘を覚えたことがある」
私は、陛下の一人称が変わっていることに気が付いたが、そこにはあえて触れない。
「『院長閣下』とは……?」
「かつて学習院で教鞭を振るっていた、と言えば分かるかね?」
学習院で院長と呼ばれるのだから学習院長しかあるまい。
だが、身を陸軍に収めてきた私には学習院の院長などという文官職については詳しく……いや。
1人だけ居るな。私だけではなく誰しもが知る人物が。
「……乃木閣下ですね」
そして、陛下の教育に携わっていたのがあの質実剛健な乃木閣下でありその薫陶を陛下が受け継いでいるのだとしたら。
私の煙に巻く物言いも。そしてかつて、陛下とその他の者との間で言葉を使い分けていたことも。
陛下の覚え目出度くなるという訳がない。
「然り。……そのような顔をみせているということは、其方のことを私があまり好んでいないことに気が付いておろう?」
陛下の側から、そう言われてしまえば否とこれを突き放すことはできない。
「……はっ」
「だが、私の心持ちを――朕として持ち込むわけにもいかぬ。
それに、其方の緊張した形相を気に入ったのは……他ならぬ私の本心よ」
「……はあ」
何というか、今日一日でここまで陛下の私人としての一面を深く伺いしれたのは初めてかもしれない。
「――さて。愚問ではあるが問おう、宇垣よ。
其方は朕に何を望む?」
1月27日午前11時56分
宮城
……もうここまで来たら小細工も何も通用しない。思いの丈を述べるのみだ。
「――陛下より、寺内陸軍大臣に、『新たな陸軍大臣を出して欲しい』、あるいは『宇垣一成を陸軍大臣に任ずる』といういずれかの優諚を出して頂きたく――」
「――あ、そう。
それは朕が陸軍大臣の選定に口を出せ、とそう申していることで宜しいか」
「その通りです」
「――それが先例無きことだと知っての発言であるか」
「はい」
「――そのやり方が、今まで朕と側近らが尽力してきた立憲制の在り方そのものを否定するものだと、そう理解しての物言いか」
「……はい」
そこで陛下は一呼吸空ける。
おそらく次の問いが、鬼門となるであろう。
私は此処まで来たのだから、討死覚悟で完遂する算段はもう付けているのだ。
「――宇垣よ」
「はい」
「――私がもし其方に陸相の選定に関する優諚を出したということになれば、二・二六のように朕の軍隊が動く恐れがあるか」
「いえ。動きません。
――どのような結果になろうとも……動かせません」
私は即答した。
1月27日午後0時0分
宮城
「……分かった。朕も腹を括ろうではないか。
後継の陸軍大臣には其方――宇垣一成を推挙するように、とそのように言えば良いのだな」
「……はい。――はい!」
……実感が湧かぬ。私は先例を覆すことに成功したのか。まるで分からぬ。
「こら、そのように腑抜けるでない。其方の奉公はこれからなのだからな」
「……はっ、申し訳ございません!」
「まあ、良い。
優諚降下は、この後、表御座所で其方の奏上を聞き届けてから行おう。
だが、現役復帰の為の特旨については少々調整に時間がかかる。今すぐこの場でという訳にもいかぬ。
1週間程度待たせることになるが良いか。その間に陸軍大臣以外の候補を選定して欲しい」
「委細問題ありません、承知いたしました」
陛下の特旨とはそこまで斯様に時間のかかるものであっただろうか。
まあ今回のはほぼ陛下の独断に近い。宮中で陛下が近侍する者に説得する時間も考えれば多少時間もかかるか。
更に、その間に優諚についてはこの国の隅々に渡るまで知れるだろう。
……そう。ピストルの弾や爆弾が飛ぶのである。
これから1週間という試用期間は、私がそれらの万難を排して国難に挑む力量があるかを見定める期間でもあるのだろう。
「――それと。
朕が其方の願いを聞き届けるのであるから、代わりに朕の願いも聞き届けてくれぬか?」
「何なりと」
「では、其方も面識があるとは思うが、畑俊六を朕の手元に欲しい」
――それはつまり、侍従武官長を変えて欲しいという要求か。
畑君か。正直侍従武官長が適任か否かで言えば適任だ。皇族への忠義に篤い彼だ、まず間違いなく断ることはあるまい。
しかし、現役で元々私の部下で、しかも政治的な色が無い純然たる作戦屋。
おまけに現在中将ともなれば、その使い勝手は計り知れない。
そう。陸軍三長官である杉山君の後任の教育総監の座を埋めるには最適な人物だ。
「……畑君には、次の教育総監に就任させたいと考えておりましたが」
「あ、そう。……そうか、其方も畑のことを高く買っていたか。
であれば宮中に置くよりも、三長官とした方が確かに良いのかもしれぬな」
「陛下のご周囲については、改めて奏上する折にでも詰め合わせましょう」
これは、組閣に付随して新たな宿題ができた。陸軍大臣としての最初の職として、侍従武官長を新たに見繕わねばならぬ。
「承知した。
しかし、宇垣よ」
「何でございましょう」
「首相として朕に仕えるのであれば、これまでのような明瞭な物言いは即刻止め、今のように含みがあるところを見せよ。
……確かに朕は、曖昧な物言いは嫌いであるが。朕に上がる情報のみ加工が為されるのはより嫌いだ」
「――畏まりました」
*
閑雲野鶴。
空に長閑に飛ぶ雲と、野で遊ぶ鶴。
そのような悠々自適の隠居生活は……未だ、遠い。
※用語解説
昭和天皇と乃木希典
1907年に明治天皇の勅命により乃木は学習院長に就任する。元々は乃木は参謀総長へと命名される予定であったが明治天皇が裁可を与えなかった。これは、その翌年に孫である昭和天皇が初等科へ入学するため、何としても乃木に自身の孫を教育させたかったためと言われている。
学習院長は文官であり、陸軍将校分限令より陸軍軍人を文官職に任命する場合は予備役に編入する必要があったが、明治天皇は勅命を発布し乃木を現役軍人としたまま例外的に学習院長に就ける程の執着であった。
1908年4月に昭和天皇は学習院初等科に入学。以来乃木の下で学ぶが、1912年に明治天皇が崩御してから乃木が明治天皇に殉じて切腹するまでの間は、乃木のことを院長閣下と呼び慕うようになる。
(昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げている。)
昭和天皇の宇垣一成評
昭和天皇自身が曖昧な物言いが嫌いであることを宇垣は知っているので、昭和天皇に対しては宇垣は明瞭に物を言うが、他人に対しては「聞き置く」という言い方をよくする、と昭和天皇は評している。そして、その宇垣の態度が状況次第では肯定にも否定にも取れることから三月事件ではこのような曖昧な言い回しが祟ったのではないかと推理。いずれにせよ、昭和天皇としては総理大臣にしてはならぬと考えていたと終戦後に書かれた聞き書きである『昭和天皇独白録』に残されている。