1937年1月26日午後8時33分―翌27日午前11時27分
「およそ政治は勢いである。勢い盛んなれば無理も通る。乱暴無責任なる政治も行われるのである。さればかくも政治の局面を転回せんとすれば、須らく此の大勢を作るに如くはない大勢定まれば如何に無恥横暴なる政府といえども、到底其の地歩を保持すべからざるは当然の事にして、立憲政治においては之が発現を総選挙の結果によりて求むることが常道である。即ち時の政府が如何に秕政百出して、国内民福を破壊するの所業を是れ事となしつつありとするも、議会において絶対多数の与党を有し、自らあくまで政権の地位に噛り付かんとするにおいては、到底其の更迭を期待すること容易の事ではない」
――湯浅倉平
1937年1月26日午後8時33分
東京府四谷区内藤町 宇垣一成本邸
「……ああ、夜分遅くに済まないね。宇垣だ」
建川君に『最後まで足掻く』と啖呵を切った手前、このまま座して死を待つ積もりなど毛頭無い。
三長官会議で陸軍大臣が推挙されない。
となれば残される手段は限られてくる。
だが、西原さんや今井田君、美土路君や大蔵君――そして今朝吾君と彼が連れてきた憲法学者の美濃部さん。彼らから既にこうなった場合の、非常手段を提示はなされている。
だからこそ。全く戦えぬ……というわけでもあるまい。
そして。宮中筋には、今は民政党党員の鶴見君と、元時事新報社長の小山君が働きかけを行っている。流石に今日の昼に再度工作を続行するように伝えたが、結果は今日聞いた以上のことは起こらないだろうがね。いくら何でも時間が無さ過ぎた。
だが、そうした動きをする前に1つだけ確認することがある。
その為に私は、とある人物に電話を掛けたのであった。
「――替わりました、小磯です。
閣下。新聞である程度の状況は承知しておりますが……。このようなお時間に何用でございましょうか?」
電話に応対しているのは、宿直憲兵から取り次いだ小磯君――小磯国昭である。
朝鮮軍司令官である彼。なので必然――受話器の向こう側の世界は内地ではなく。ソウルなのである。
現役で中将。だから陸軍大臣の補任資格はある。そして私の陸相時代は軍務局長として手足として働いていた自他共に認める宇垣派将校である。
つまり。私が現在切れる中で最高のカードが小磯君、ということになる。
「まあ、待て。
先にそちらで伝わっている私の情勢を聞きたい。外地では今回の組閣はどのように伝わっているか?」
「概ね閣下の組閣に賛同しているようですが、陸軍が強硬に反対しているという話は載っていましたな。
ここソウルに居ても私の手前、表に出したりはしていませぬが、閣下の組閣にあまり良くない顔をする者も居られます。
帝都ではその比ではないことでしょう」
一応伝わっている情報を鑑みるとおそらく今日の三長官会議については伝わっていないようである。まだ報道発表から2時間程しか経っていないし仕方がないだろう。
そこを取っ掛かりにして話を繋げる。
「その通りだ。流石にここまでの反発は大命降下の話を受けたときには想定していなかったよ。既に三長官会議で陸相を出さぬと決まった、と直接寺内君に言われたくらいだ」
「……それは心中お察しいたします」
「で、だ。
小磯君、陸相をやってくれぬだろうか。部内は相当に空気が悪い。
だからこそ、私とともに討ち死にする覚悟でやってくれないだろうか」
電話越しではあるが、小磯君の息を飲む音が聞こえた。
そして長らく沈黙する。
「……。……確認ですが。
今のお話。陸軍三長官の同意は……」
「その同意が得られぬのだから、私はこうして君に頼んでいるのではないか」
そう放つと、彼は再び沈黙する。
思えば小磯君は陸士12期……杉山君と同期である。片や教育総監、片や朝鮮軍司令官と袂を分かつ結果となってしまっているが、元々――私が陸軍大臣であった頃合いよりも昔から非常に仲が良かったと聞いている。
――それこそ、小磯君の娘が、宴席の杉山君の真似をして盥を叩いて踊る真似をするくらい。
思考が反れつつあったが、受話器の向こうから再び声が聞こえてきたので、慌てて意識をそちらに戻す。
「……仮に、今。私が承知したとして。
対馬海峡を渡る頃合いに、陸軍省から予備役編入にする――という1本の電話だけで全てがご破算になるのではないでしょうか」
それは、まさに正論であった。
そして小磯君という人物を体現するかのような言葉であった。
彼は利口だから、そう言うことは薄々察しが付いていた。だが、今回の組閣妨害に石原氏は仮初めの理由であるとはいえ三月事件を持ち出してきておる。そして三月事件で炎を上げた小磯君。奇しき因縁だ。
しかしその小磯君の軍人生命は風前の灯火である。彼自身がそれを承知しているのであれば、あわや捨身的奮起を期待できるかとは思ったが。
まあ、致し方あるまい。無理を言っているのは此方だ。
「で、あれば話にならんな。すまぬな、こんな時間に手を煩わせてしまって」
「いえ……」
私はそのまま電話を切って、明日に備えて寝ることとした。
1月27日午前9時48分
東京府麻布区広尾町 宇垣一成組閣本部
朝が明け、組閣本部へ赴くと、そこは異様な静けさに包まれていた。
そして、皆揃っており私のことを待っていたようである。
「……昨日、小磯君に電話をして陸相に誘ってみたが断られてしまった。曰く三長官が予備役に入れてしまえば私の企みはご破算になるということであった」
開口一番にそう言うと、私が独断で小磯君に誘いを掛けていたことは驚かれたものの、小磯君の主張に関しては一定の納得と多少の不義理を感じているようであった。
まず今井田君が口を開く。
「となると、現役軍人の一本釣りは三長官の胸三寸というわけですか……」
その言葉に私は無言で頷く。
「で、最終的な確認を行う前に1つだけ。
今朝吾君――いや中島今朝吾中将。
この期に及んで私と共に居る君は、本当に陸軍大臣となるつもりはないのだね?」
私としてはこの質問は、今朝吾君が断ることを前提に、そしてこの場に居る面々の退路を断つ意味で聞いた。今まで散々憲兵の政治利用に関する所見を聞かされてきたからここで意見を曲げるとも思っていない。
だが、周囲の……特に今朝吾君と面を向かって話をしていない者らは期待感を彼に向けた。
そしてそうした視線を受けながら、彼はいつも通りの小癪とも言えそうな態度を残しつつ答えた。
「……美治郎、いや梅津次官と私は旧知の仲なのですが丁度昨晩、彼から連絡がありました。
曰く。私の予備役編入を美治郎の独断で何とか抑え込んでいるとのことです。彼からは、今すぐ三宅坂に戻ってこいとも、ふざけるなとも言われました。
まず私がここで引き受ければ、小磯閣下と懸念と同様に予備役入りを、先方は小磯閣下以上に私に対しては躊躇なく行うことでしょう」
そこで彼は一旦言葉を区切る。
そして誰かが露骨に溜め息を吐き、彼に失望を顕わにした。
「そのような部内の状況であるから、もし仮に私が大過なく陸軍大臣に就けたとしても部内は私に従いません。
……で、あれば。私は宇垣閣下が陸相を兼任し直接陸軍を治めるしか手は無い、と愚考致します」
「そうか。であれば、話にならぬな」
小磯君に告げた文言を似たようなことを声に出す。彼はその言葉を聞き即座に一礼し後ろへと下がる。
「鶴見君。改めて宮中の状況を聞かせてもらおうか」
「百武侍従長には山屋大将を通じて優諚降下の説得を行う旨をお話しております。
ただ……日青協の田澤さんに昨日連絡を取りましたら、湯浅内大臣の説得は難航しているとの回答がございました。また徳川侯爵の家を再度訪ねてみたのですがご在宅ではないようでした」
「小山君」
「秋月さんを通じた牧野帝室顧問への工作もまだ中途で手ごたえはあまりありません。
もしかすると、宮中は陸軍の断固とした反対姿勢を見て、及び腰になっている可能性も……」
「……と、まあこのような状況で極めて悪い」
私がそう断言すれば、場は静寂に包まれる。張り詰めた陰鬱な空気が各人に伝播しているかのようであった。
そして私はそれを払拭するかのように、声を上げる。
「だが、今の情勢は分かっていたことでもある。
確かに状況は最悪だ。これ以上なく追い詰められていると言っても良い。
しかし――同時に想定内でもあるのだよ」
そのまま言葉を続ける。
「今朝吾君。済まないな、もう1つ問おう」
「はっ、何なりと」
「私がもし組閣の大命を拝して出るということになれば、二・二六事件のように軍隊が動くのか。
爆弾が飛ぶとか、ピストルを撃つということはあるやもしれぬが、軍隊が動く恐れがあるか」
――以前。大命降下される直前の車内で問うた質問を再度、この場で今朝吾君にぶつける。
「いえ。動きません。
――どのような結果になろうとも、動かせません」
即答であった。
「では、安井君」
「これは、今私が所属する拓務省ではなく、内務官僚時代の伝手を使い探った話ですが。
昨日、陸相の候補を出さぬという発表を聞いてから警察部隊は警戒態勢に入っております。また此処組閣本部と近隣の麻布警察署との緊急電話を繋ぎたいという連絡が来ておりましたので、明日か明後日にも工事が入るそうです」
「ならば、良し。
では、これが最後の質問だ。
弥三吉君――組閣参謀長」
「……はっ。
宮中には既に連絡を致しました。
――午前11時に参内するように、とのことです」
「委細承知した」
後は、私――宇垣一成ただ1人の手腕に託されたのである。
1月27日午前11時4分
宮城
「湯浅内大臣。
――軍の二、三の者で騒いで、折角降下した大命を阻止するなどということは大権干犯であるし違勅だと私は確信しております。
そのようなことが日本国に有るなら、これは国の前途にとって由々しき事になるが故に、是が非でもここは押切らなければならぬと思います。このような悪しき先例を残すことが断じてあってはなりません。
私は無理を強いて出馬したいことはないですが、あのような事を聞いた以上はどうしても押切って行きたい。
どうか内大臣から『陸軍大臣を出せ』或は『私を大臣として出せ』という勅命を寺内陸軍大臣にお伝え下さるよう取次いでいただきたい」
美濃部さんから優諚の取次には内大臣を通す必要がないことは既に聞いている。
聞いているが、先の鶴見君の話を鑑みるにこの宮中において私の組閣に消極的な態度を取っているのは湯浅内大臣なのである。
だからこそ、ある程度内大臣に話を通しておかねば要らぬ反感を買う可能性はある。最終的には正面突破するしかないとしても、完全に無視するよりは心証が多少ましになるであろう。
「……そう無理をなさらぬでも良いではないか。
そういう無理をなさると血を見るような不祥事が起こるかも知れぬ」
「不祥事が起きるかも知れぬということは、私も既に覚悟しています。
天下国家の重きに任じて出馬する以上はピストルを撃つとか、爆弾が飛ぶなんていうことは覚悟しております。
ただ私が懸念することは二・二六事件のように、軍隊が再び動くかどうかということです。そして。二・二六事件で軍隊が動いたということは、日本の歴史あって以来の不祥事でした。
それがあったからだからこそ、憲兵司令官――中島今朝吾君に念を押したのです。
それ故に――ピストルや爆弾は問題ではない」
覚悟を見せた私に対して、内大臣は少々たじろいでいるようであった。
大方、これでは言いくるめられぬとでも感じたのであろう。
「……いやいや宇垣さん。此処で、そんな無理をなさることもあるまいて。
あなたはまだ再起を願はねばならぬこともあるのですから」
この言葉は、随分と怪しい。
一見私の進退を案じているような御言葉ではあれど、既に諦めることに意識が傾いている。
「――私は。
ある重要な大きな事をするときは、いつでもそれが最初で最後だという覚悟を持って取り組んでおります。
今後、こういう事があるなどとは絶対に考えないです。
自分に取っては重過ぎると思う程の重大な責務を負担するのだから、無論最初が最後で、乗るかそるか、この一挙に身命を賭して御奉公をするつもりで御座います。
また別の機会ということは、毛頭意中に考えてはいないのです」
と、ここまで伝えてみたは良いが、それでも湯浅内大臣は納得をして頂けないようである。
「どうしてもお取次ぎは願えませんか」
「どうもそこまで陛下をお煩わしすることは……」
……頃合いか。この調子では湯浅内大臣の考えを翻すことは相当に厳しいであろう。
「それでは宜しい。では、百武侍従長にお願い申し上げて、これより陛下の御心を直接お伺い申し上げる」
私がそう伝えれば、内大臣は驚きの表情に包まれる。
「……あ、いや。今私は陛下をお煩わしにしてはならぬと……」
「それは湯浅内大臣の考えで御座いますよね。
大命降下を受けた首相候補の上奏を止める権限は、内大臣にも侍従長にも無いかと思われますが」
私がそれを告げると、内大臣は「斯様なことをどこで……」と呟く。
「憲法学者の美濃部さんより教えて頂きました」
私はそれだけを告げて、この場を後にした。
1月27日午前11時21分
宮城
私の奏上を前にして百武侍従長から、あらかじめ陛下に内容をご説明したい、との申し出があった。
私としても突然に斯様な話をして、陛下の御心を乱すのは本意ではなかったため、快く返事を返し百武侍従長へ事の次第を説明しようとした。
だが、その行為は侍従長により止められ、しばし待つように伝えられる。先に準備することがあるのだろうか、とその言葉に納得はしていないものの、わざわざ不必要に不興を買うこともないと思い直し、その場で待ち続けた。
数分であっただろうか。再び侍従長が現れて別室へと連れて行かれる。
そして大命降下を受けた表御座所ではなく、奥まった客間のようなところに通された。
更に、その場には既に席に座るさる御方の姿があった。私はその御姿を見るや否や最敬礼をして平伏する。
「――何用か」
――陛下がその場でお待ちしていたのである。
※用語解説
本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。
解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。
陸相候補の予備役編入
首相や大命降下を受けた人物が、三長官会議や陸軍部内の意向を無視して任意の将校を陸軍大臣に就けることは、廣田弘毅と寺内壽一との間で取り決められた密約、そして大正の先例を復せば可能であることは既に述べた。
だが、その『陸相の一本釣り』に対して、陸軍側が選ばれた人物を片っ端から予備役に編入することで『軍部大臣現役武官制』の用件に満たさぬようにカウンターを仕掛けることも可能である。(三長官会議が陸軍大臣の選定だけではなく高級将校の人事も掌るため)
ただし、陸軍が新たな陸軍大臣を出さないことで内閣を倒閣に追い込む先例は数あれど、三長官会議が定着した後で首相側が『陸相の一本釣り』をして三長官会議に対抗した例は1937年時点では存在せず(第一次近衛改造内閣・1938年における近衛文麿による板垣征四郎指名が初)、必然それに対するカウンターである陸相候補の予備役編入という先例も無い。
上奏
憲法上では上奏された内容を天皇が拒否することは可能だが、帷幄上奏以外を正式な政治プロセスの場である上奏で否認した先例は無い。
そして宇垣は今『行政府の長』として上奏を希望した以上、慣例的にはこれを断ることはできない。となると、宇垣の意見をそのまま公式の場である『上奏』で発言されれば天皇としてはそれをそのまま追認せねばならない。
だからこそ、大臣の人事案や帝国議会の議事内容、あるいは外交上の秘密交渉など、事前にある程度詰めねば公に出来ぬ国事行為に関しては、『上奏』に至る前に陛下に意見を求める非公式の場(内奏)が用意される。
(内奏のやり取りに関する資料がほとんど残っていない[慣例として内奏の内容は基本口外してはならない]ため実情が良く分からないので、本作においては内奏っぽい雰囲気の事前交渉を行う。)