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1937年1月24日午後8時40分―翌25日午前1時3分

 「陸軍にも相当に長い間御奉公して相当の成績をあげて来たといってもよい。朝鮮でも斎藤さん(斎藤実)の留守中六ヵ月ばかり総督の臨時代理をやり、その後五年余、合せて六年近い朝鮮総督を勤めて人並以上の仕事をしたつもりであるから、これで十分だ。

 内地へ帰ったら悠々余生を送りたい。いわゆる閑雲野鶴を友として自適の生活をしたい」


 ――宇垣一成


 1937年1月24日午後8時40分

 静岡県田方郡伊豆長岡町 宇垣一成別邸『松籟荘』


 私――宇垣一成は、自身の別邸の目と鼻の先にある旅館『さかなや』の主である池田春吉とともに晩酌にあずかっていた。


 つい、先日である1月23日に廣田さんの内閣――廣田弘毅内閣が閣内不一致を理由に内閣総辞職を行った。

 閣内の寺内壽一陸相が第70回帝国議会の折にて政友会の浜田代議士と激しい論戦を交わし、寺内君が衆議院の長老たる浜田代議士に口喧嘩で負ける体たらく。それに激昂した陸軍中枢部が「政党が時局に対して認識不足」として懲罰的に衆議院の解散を要求し、飲めなければ寺内君は大臣を辞職すると廣田さんに詰め寄ったらしい。

 だが廣田さんとしては国会を解散する意図も理由もなく、また閣内には早く建艦予算を通したい永野修身海軍大臣も廣田さんを擁護していたが、結局寺内君は終ぞ説得に応じなかったようである。結局それで閣内不一致で政権が倒れた。


 そのような情勢急変の最中私が、東京府内に居らず長岡にて蟄居していたのは、永らく連れ添ってきた女房の貞子が急死したので、喪に服していたからである。

 府内では次の首班が誰かと大いに騒がれているようで、ここ長岡の松籟荘周りにも記者らが張っていると家人が申していた。

 池田君とも晩酌を挟みつつその話はしていたが、次の首班候補は近衛公か平沼議長か。あるいはこの情勢で急遽駆け付けた西原さん――西原亀三などは、「政党は宇垣大将の擁立で固まっております」などと宣っていたが、肝心の陸軍は、近衛公に便乗するか越境将軍の林君を推薦しようかと決めあぐねているらしい。


 だが、もう夜も遅い。

 池田君との語らいも中々に楽しかったが、もう寝ようと思い、支度をしようとした最中「宮内省から電話でございます」と家人が取り次いだ。


 私はまさか、と思い中座して受話器を取ると、相手は百武三郎と名乗った。侍従長である。気を引き締め相対すると「陛下の思し召しでございます。速やかに参内されますよう」と申し上げられる。


 ちらりと時計を垣間見る。現在時刻は……午後8時45分。


「今からですともう東京行きの汽車は無く、10時発の横浜行きの汽車しか御座いません。

 それに深夜の参内は恐れ多いので、明朝一番の汽車に乗り参内致したいですが、いかが致しましょうか」


 すると受話器の先からは侍従長が「已むを得まい」と言い、そのまま通話を終える。

 と同時に、私の通話の様子を固唾を飲んで見守っていた池田君と、どこからか話を聞きつけたか現れた西原さんが、同時に問うてきた。


「大命降下……ですか、宇垣さん?」


「分からん。だが私に参内とも為れば、今の時局にはそれ以外に思いつかぬ」


 私がそう告げると、2人は狂喜乱舞して西原さんは外にいる記者らに「宇垣大将に大命降下が下ったぞ!」と触れ回り、池田君は周辺の住民に「次の首相は宇垣さんだ」と伝えに出て行ってしまった。


 参内するのは明日のことだしまだ気が早いと苦笑しつつも、明日の出立を考え、改めてもう寝ようとすると、9時過ぎに再度電話がかかってきた。侍従長からであった。


「陛下は『時局重大の折から、深夜でも差し支えない』と仰せられております。10時発の横浜行きに乗って御上京差し支えありませんでしょうか」


 陛下に待っていると言われたのにも関わらず明日の朝行きます、では流石に都合が悪い。10時発の横浜行きは沼津で乗るが後1時間も無いが……咄嗟に辺りを見回すと外に出ていたはずの西原さんと池田君が私への電話を聞きつけ戻ってきていた。


「宇垣さんの家人が今急いで自動車の準備をしています、電話の後に直ぐにでも発てるかと」


 その池田君の言葉を皮切りとして、私は侍従長に「畏まりました。今夜の内に参内いたします」と伝え電話を切る。

 それと同時に速やかに準備をして、急いで車に乗り込む。すると、西原さんも池田君も便乗して乗ってきた。……まあ、良いか。西原さんは東京に帰る必要があるし、池田君は駅までは意地でも付いてくる算段であろう。

 家人である運転手がどの駅に向かうか、問うてきたがこれにはすぐさま、


「沼津。そして時間が無い、長岡を抜けたら車を飛ばせ」


 と返した。車を出すと、街中は提灯を掲げ『宇垣閣下万歳』と我々の車の通行の妨げにならぬように、でも長岡の町中の人間が総出で見送りに出てきた。そうか、これは池田君の手腕か。

 その興奮の声を後ろに携えながら、参内するために車は長岡の街を走り抜ける。




 1月25日午前0時

 神奈川県 横浜駅東口


 汽車の車内に居た記者集団とともに終着・横浜駅で降りる。その瞬間、写真班のフラッシュが瞬いた。


 すると横浜駅構内には、亡き女房・貞子の忘れ形見である1人息子の一雄かずおが早稲田の学生服姿で待っていた。……まあ息子は1人だが、娘は6人生まれたがね。

 一雄が無言で、私にフロックコートを手渡す。私も息子の目を見ながらその礼服を受け取る。そのまま軽く息子の肩を叩き、横を通り過ぎて駅のホームを去る。


 事情が事情なので、駅の職員は駅長室を快く貸し出してくれて、私は急ぎその場で一雄から受け取ったフロックコートに着替え、シルクハットを被り自家用車に乗り込み京浜国道を走り出す。

 一緒の列車に乗ってきた西原さんは組閣本部を立てる必要があるとかで、別の車を捕まえて麻布へと向かって行った。


 横浜駅の外の開けた土地には記者の車が殺到しており、私の車が宮中へ向かうや否や、大名行列のように後ろから付いてくる。おそらく数十台は居るかと思う。

 その喧噪さを尻目に見ていると、思えば今まで宇垣内閣説が幾度も飛んだな、と感慨に至る。汽車の中では一言たりも質問には答えなかったが、この注目も当然のことなのかもしれまい、と思いもするわけだが。

 それと同時に、まるで人を大野心家のように風潮しよって、とも思う。そも朝鮮総督の座から降りた今、残りの余生は悠々自適に過ごそうと考えていたのだ。にも関わらず。どうも此の頃の陸軍の一部の動きは変だ。


 ――近い中に何か外に対して事を始めるのではないか。


 私にはどうもそのような気がしてならない。陸相の寺内君にしろ。教育総監の杉山君――杉山元にしろ。……何より、部内の中堅将校らの動きが少々拙い。


 各国は自国の経済を守ろうと関税を掛け保護貿易に邁進しているが、それでも日本の安い品をどんどんと市場に出して諸外国はそれに対抗できていない。

 そして日本の中を見ても新たな産業が興り、時代は明らかに我等に向いて流れつつある。この調子であと、七、八年もすれば(・・・・・・・・)、日本は名実ともに世界の第一等国になれるはずなのだ。


 そんな最中に下手に戦争など初めてしまえば、それが頓挫してしまう。これは誠に惜しい。だが、戦争をせず陸軍を抑えられる人物が政界に居るか、と言われるとどうもやれそうな人が居ない。

 問題は陸軍なのだから、自惚れではないが、その陸軍育ちの私であれば年の功も積み、重きを成してきたこともあり、ここらで一度犠牲にならねばならまいか、と考えていたところでの今の御召。


 特別の事情がない限りお引受けしなければならぬであろうて。




 1月25日午前0時30分

 東京府 六郷川鉄橋


 車は進み続け、六郷橋を越え蒲田へ至るか、といったところで、道路上に大きく手を振る陸軍軍服を纏った者の姿があった。


「車を止めなさい」


 見たことのある顔であったので車を止めさせる。

 窓を開け、その人物に向かってこう言い放つ。


「何か」



「……えーっと、確か……そうだ。

 憲兵司令官の中島今朝吾(けさご)ですが、ご参内までに寺内伯爵からのお伝えしたいことが御座います。恐れ多きことなれど車に同乗お許し頂きたく……」


 寺内君からの差し金か。いや、この今朝吾君の独断専行やもしれぬ。だが彼は今、確実に陸軍内部の空気感を知った上で私の下へ来ているはず。


「そうか宜しい」


 あまり時間も掛けられぬ以上、ここで押し問答をするくらいなら彼の言う通り車中に乗せてしまう方が確実か、と思いその意を伝えると存外恐縮そうに乗り込む。物言いの太々しさと一致しないな。


 すると彼は、一息を置いた後に乗せてくれた感謝を告げ、寺内君からの言伝と前置きを念を押すように加えてから、まるで用意してきたかのように語りだす。


「今夜、宇垣閣下に大命が降下されると聞き及んでおりますが、部内の反対が多く容易ならぬ情勢であるが故、お断り願いたい……とのことです」


 更に付け加えるように、あちらこちらで宇垣反対の電報が来ているという話だ。私が黙って聞いていると伝言・・は伝えきったのか、話すのを切り上げ、此方の返答を伺いだした。


「伝言の趣旨はそれだけか」


「はい。これで全てです」


「……私が思うに。君の意見が無いな。本当に伝言を伝えに来ただけなのか」


 あまり今朝吾君のことは詳しくは知らないが、単身で私の車を停めに来て強引に乗り込もうと画策する行動と、伝言を伝えるだけという結果がどうも辻褄が合わない。陸軍部内には、もっと私に反対する熱を挙げているものがいくらでも居るのだから、彼は脅し役には些か不向きではないのか。

 何やら齟齬と違和を感じていると、向こうも要領を得ず、私の問いかけに戸惑っている様子。まるで、想定していた問いかけが返ってきていないといった面持ちだ。



「――まあいい。それでは私からも一つだけ質問させてくれ。

 私がもし組閣の大命を拝して出るということになれば、二・二六事件のように軍隊が動くのか。


 今の話を聞くと爆弾が飛ぶとか、ピストルを撃つという話であるが、軍隊が動く恐れがあるか」


 私が意表返しのために、今朝吾君に対して慮外の問いであろうと投げかけたこの質問は、今度は彼にとって想定の範囲内であったのか。当意即妙にこう答えた。


「――これは伝言ではなく、私見となりますが。

 二・二六事件のように軍隊が動くことは無いでしょうが、満州事変のように動くことはあり得ましょう。

 ……とはいえ、これは宇垣閣下の動向に依らない話ではありますけれど」


 その返答には、私の方が面喰ってしまう。

 近頃の軍の独断専行を認めて、かつ対外戦争の危機を示唆しているのだ。彼の妄言の類であっても捨て置けぬ。


「根拠は如何に?」


「……閣下には釈迦に説法やもしれませぬが、戦争を起こすには一朝一夕とは行かず、積み重ねが必要でございます。先ほどお話に出されました、二・二六事件についても蹶起した第1師団は満州への派遣が内定していたため完全充足状態であった、という身も蓋もない裏がありますし。

 ……本題に入りましょう。

 昨年の9月に支那駐屯軍司令部によって作成された『昭和十一年度北支那占領地統治計画』と、同じく8月に参謀本部で作成されたとされる『昭和十二年度対支作戦計画』。

 その二種の文書は異なる部局から出されているにも関わらず驚くほどに共通点が御座います。……『北支地域全域(・・)での軍事行動』を前提とする条項が追加されたことです」



 ……今朝吾君は、随分と良い耳を持っている。

 寺内君の伝言などよりも彼の私見の方が傾聴に値すべきことであったか。流石にそれは読めない。

 彼の話すことが真実だとした場合。現在陸軍が推し進める華北分離工作が、謀略や恫喝から軍事力を伴った直接的な行動を伴う物に変質する恐れがある。それが一都市に収まらず北支全域ともなれば、国民党政権次第ではあるが今までのような局地紛争では留まらないのではないだろうか。


「それを今私に話すということが、どういう意味を持つか分かっているのかね?」


 それは今の(・・)私の組閣を阻止せんとする陸軍中枢にとっては重大な背信行為であり、事実上の私への支援と同義である。

 すると、今朝吾君は困ったかのような顔をして運転手に車を停めるように告げ、車を降りる。外を見渡せば東京駅であり、最早宮中は目と鼻の先であった。


「続きの話は麻布で致しましょうか。タイムリミットです」


 そう言い残し、今朝吾君は車を降りた。時刻は午前1時を回ろうかとしていたところであった。

 麻布とは、おそらく西原さんが今設置しているであろう組閣本部のことであろう。……全くどこでその情報を掴んだのやら。

 思いがけず、彼とすっかり話し込んでしまったが、今はとりあえず捨て置く。これから拝謁するというのに心の準備すらさせて貰えぬのだから、やはり近頃の陸軍の一部の動きは、というわけだと自嘲しながら苦笑する。

 だが、ああいった輩も今の陸軍には居るのか。それは実に面白い。



 ――1937年1月25日午前1時3分。宇垣一成、皇居へ参内す。

※用語解説

 本作に登場する用語をこちらで簡単に補足いたします。

 人名については当該人物のwikipedia以上に参照して欲しい事項や本作における補足事項がある人物について記載しています。

 それ以外につきましては作品の展開上必要となる部分のみ記載しています。

 また解説事項は作中時間軸である1937年までの事項を基本的には前提としています。


池田春吉

 旅館『さかなや』の主人で、伊豆長岡温泉組合成立時(1916年10月)には評議員に就任。以後、伊豆長岡温泉組合長、川西村(伊豆長岡町の前身)時代には村会議員を勤め上げた同地における地域行政の担い手の側面もある。長岡鉱泉株式会社役員にも任ぜられ、地域住民と密接な関係にあり、旅館業で資金源もあった同氏他旅館業者の役員就任以後、戦時に至るまで長岡温泉の源泉開発は観光客の増加とともに拡大の一途を辿ることとなる。


第70回帝国議会

 1936年12月から1937年3月までの衆議院本会議。1937年1月21日には、後に割腹問答と呼ばれることとなる浜田国松(前衆議院議長)による軍部の政治干渉に対する痛烈な批判演説と、それに相対する寺内壽一陸相とのやり取りが行われた。その後に事態の収拾の為議会は天皇の裁可の下停会されるが、廣田内閣は収拾に失敗し閣内不一致で倒閣した。


閣内不一致

 明治憲法においては内閣総理大臣職はそもそも明記されておらず、内閣官制で「各国務大臣の首班」と定められている。故に他の大臣と同列であり首相は大臣の任命・罷免権を有していなかった。

 これに加えて閣議は国務大臣の全員一致を原則としていることから、明治憲法下では強硬に他国務大臣とは異なる意見を主張しかつ翻さず、また自ら大臣の辞職をしない限り、閣内不一致として首相は内閣総辞職を選択せざるを得なかった。


西原亀三

 『政界の黒幕』とも呼ばれる実業家。1918年の寺内正毅内閣時代には首相の側近として中国の北京政府への多額の借款と武器供与の援助を個人名義で行った(西原借款)。その後濱口首相遭難事件(1930年)時には民政党に対して宇垣一成の総裁擁立案を提示。帝人事件(1934年)後にも宇垣内閣樹立のために民政党との独自に交渉を行っており、同時期に民政党と宇垣内閣樹立工作のため政治資金の授受も確認されている。

 廣田内閣が倒閣される前から民政党・政友会の政党政治家と接触し宇垣擁立の下準備を行っていて、廣田内閣総辞職の報を聞くとともに即日東京から伊豆長岡まで宇垣を訪ねてきていた。


大命降下

 明治憲法下における内閣総理大臣の候補者を策定する際に、元老が天皇から任じられて候補者を推薦する行為を『後継首班奏薦こうけいしゅはんそうせん』と言い、候補者が宮中に参内後、天皇自ら組閣を命じる行為を『大命降下』と呼んだ。

 明治憲法では第4条において天皇が統治権を総攬することから首相も自由に選定できるが、実際に天皇が直接次の首相を指名した場合、天皇の任命責任が問われることとなる。その矛盾を解消するために、元老が次期首班候補を1人に定め天皇はそれに一切の意見を付け加えずに候補者本人に伝えるというシステムを取った。

 なお、第1次大隈内閣(1898年)時には大隈重信と板垣退助の2名に大命降下なされている。


宇垣一成大命降下時の史実上京ルート

24日21時過ぎ:伊豆長岡『松籟荘』出発

22時頃:沼津駅にて東海道線普通列車に乗車

25日0時:横浜駅到着、駅長室で着替え・自動車に乗換

1時3分:皇居参内

 (1937年1月25日の北國新聞(号外)では三島駅から乗っていると書かれており単純な距離的にはおそらく三島へ向かうのが妥当なはずですが、宇垣一成日記や北昤吉の政界回顧20年(月刊誌・日本乃日本人より。こちらでは22時最終列車を沼津始発と明記)、大阪朝日新聞他、多くの資料にて沼津駅乗車の立場を取っているため、本作も沼津説を採用しております。)


宇垣一成の組閣本部

 麻布広尾にある三菱倉庫会長の三橋信三の別邸を利用している。三橋が別邸を貸し出した理由は、信三の次男である三橋泰夫が宇垣一成の三女である光子を妻としていて、宇垣と三橋は親戚であったため。


昭和十二年度対支作戦計画

 参謀本部作成。年度作戦計画は毎年参謀本部により作成されるものの、従来の華北地域の作戦計画においては、「平津(北平【現在の北京】と天津)方面作戦」と「山東方面作戦」の2つが予定されていたが、それが1936年8月に策定された同書類においては、「状況に応じて華北五省に作戦が進められること」が明記された。


昭和十一年度北支那占領地統治計画

 支那駐屯軍司令部作成。華北全域に作戦行動を行う場合の『甲案』と作戦戦域が限定される場合の『乙案』の2種類の軍事計画が実行された場合に占領地の統治手法の指針・税制・警備体制・経済対策・交通通信網の掌握・立法司法外事等が記載されている。


華北分離工作

 1935年より開始された陸軍の主導した華北五省を中国国民党政府の影響から排し、親日ないしは中立政権を同地に誕生させようと画策し行われた工作。

 1937年1月段階では、同地には日本の影響力の強い冀東きとう防共自治政府と、日中の緩衝地帯となった冀察きさつ政務委員会が存在する。 


中島今朝吾(けさご)

 陸軍軍人。陸軍大学校とフランス陸軍大学の双方を卒業している陸軍きってのフランス通。二・二六事件当時は陸軍習志野学校校長。叛乱軍の即時鎮圧を事件後より一貫して主張。砲兵畑の人間であったが、事件後には中将へ昇進し憲兵司令官へと任ぜられる。

 同時期に謎の頭痛(・・・・)で倒れ、陸軍病院に入院。当時は昏睡状態に陥り、記憶に齟齬が生じ『令和ではなく昭和11年? 異世界のがまだ真実味があろうて』などと世迷い事を放言していたが、後に回復し退院した。

 しかし親友の梅津美治郎陸軍中将からは「(今朝吾のフランス被れが収まったことを受け)まるで人が変わった(・・・・・・)かのよう」と評されている。

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