「同一者」と「他者」 (宇多丸の映画批評より)
ラッパー宇多丸の映画批評を聞いていた。宇多丸が、日本映画、「食堂かたつむり」だとか、「レンタネコ」、「ルーキーズ」の映画版などを批判しているのを聞いて(うっひゃー日本映画っていうのはひどい事になってるんだな)と思ったが、日本映画全てがひどいという訳でもないのだろう。おそらくは表面的に出てくる、主にテレビ関係から浮かんでくる映画がひどいのだろうが…それにしてもこれはなんだろう。宇多丸の批判は、他のジャンルとも相通じると思う。
自分は元々、最近の「ほっこり日常系純文学」というものに疑問を感じていた。よしもとばなな以降の潮流だと思うが、「純文学」という名前であるが、人生の深淵を遠ざけるのが当たり前となった。あるいは、それを扱う際も、作品を構成する「要素」でしかなく、別に作家が本気でそれを課題としているわけではない。
宇多丸は、上記の映画を「他者性が排除されている」という視点から批判していたが、これが、自分が感じていたある種の文学作品の問題と似ていると感じる。例えば、川上弘美という作家は本当に優しくて、あたたかくて、素敵な物語を作る人だろうか。そうかもしれないが、単に彼女は「幸運」なだけかもしれない。太宰治や三島由紀夫が生涯格闘せざるを得なかった自分の運命(心理や無意識に関わる)というものは、もう関係ないものになった。
宇多丸は、「ルーキーズ」を批判する際、イチャイチャしているバカップルを例として上げていたが、映画を実際チラと見たら、本当に宇多丸の言っている通りだったので驚いた。「他者性」なんて立派な言葉、「葛藤」などという高級な言葉は、この世界にいらないんじゃないかと若干本気で思う。誰も「他者」など求めていない。異質なものを理解したり、障害を乗り越えたりする必要はない。ほっこり日常系純文学の世界の中の人々は、異常な人、見捨てられた人間、犯罪者、呪われた人間、狂人、そういったかつての文学が扱っていた人々をたやすく見捨てるか、自分達に同化するものとしてのみその存在を認めてやる。彼らの優しさはその裏に冷酷を含んでいるが、この冷酷さはシステムによって巧妙に隠蔽されている。
太宰治は「家庭の幸福」で、小利口な役人が、時間どおりに仕事をして、ちゃんとした家族の長で、幸福で、しかし、その背後で、誰が犠牲になっているかを考えようとした。綿矢りさは太宰治のフォロワーらしいが、この問題については決して考えないだろう。こういう問題を考えなくてよいような社会的なシステムも組まれている。川上弘美にしろ誰にしろ、彼らは、同一者の集団の中でお互いをほっこりと認めあっていればいいわけだ。
例えば「なろう小説」では、主人公を中心としたただ気持ちの良くなれる空間のみが欲され、出てくる敵も主人公にぶった切られる為に出てくる。これを「他者性の排除」と批判する事もできるが、どこもそんなものなのだと今更気づく。リア充はリア充で、オタクはオタクで、底辺は底辺で、ウォール街はウォール街で、自分達は自分達で、絶えず自己肯定していく物語が作られ、それが自分と似たような他者の手に渡り、そこで一定の同意を得る。それが金になり、経済的価値となればそれが「客観性」と呼ばれる。矛盾した言い方であるが、自分には、客観性というものは、世界から離れた主観の中にしかないような気がする。なぜなら、人々は絶えず、「自分達」という同一性に溶けていくから。
「食堂かたつむり」は宇多丸の言うように「気持ち悪い」と思う。それでも、カップルがイチャイチャしていて、二人の間では楽しくて気持ちが良いのと同じように、その内部ではそれでいいわけだ。そうしてそれもまた、「それぞれの好き嫌いだよね」となり、またそれは「それぞれの好き嫌い」が集積したものが一番いいものとなっていく。つまる所、集団でイチャイチャして、自分達の論理や空想に耽っていればそれで十分(数の論理によって)客観性があり、普遍性があり、とされる。人はこの中に空気のように包まれて、彼らは他者性を持たないが為に、その内部にある種のイメージや感覚が広がっていく。
その結果、自分達みんなが気持ちよくなれるような、「シン・ゴジラ」や「君の名は。」がチャンピオンに君臨する。他者性を排除しようと、同一者のグループでみんなで気持ちよくなっていればそれで良いのであって、そういうものが今の社会ではチャンピオンである。そういう世界だ。
そういう世界に自分がいるのだと、今更ながら気づき、半笑いの表情を浮かべるしかない。人と話していても、そもそも価値観が合わないというか、例えば僕の親は僕がどんな駄作を作ろうとそれが「売れれば」大喜びする。どんな傑作を作ろうが、それが「売れなければ(デビューできなければ)」駄目となる。その価値観の中をずっと歩いている。
この世界は、それぞれのグループがそれぞれの物語を作り、その中で自己を確認し、気持ち良くなるのだが、それが通路でいちゃつくカップルのように「他者」に対して邪魔でも誰も気付かない。「ちょっと邪魔なんでどいてください」と言えば、カップルにとっては「そいつは敵」という物語が新たに生まれる。そういう物語の輪廻が続いていく。いつまでもいつまでも……
そんな世界において、どんな物語が真に良いのだろうか。他者ーー外部というものは、どういう意味を持つのだろう。
はっきりしている事は、仮に誰かがそういうものを紡ぎ出しても、世界は自分自身の同一性にかかりきりなので、そういう他者性を含んだ作品には気付かないという事だろう。彼らは、いつの日にか、何かに気づくのだろうか。どうなのだろう。綿矢りさが太宰治になる日は来るのだろうか。何もかも良くわからない。だが、少なくとも、「他者性」はこの世でほとんど求められていないという事がよくわかった。だから、世の中でうまくやるとは、「同一性」を改めて肯定していくという事を意味するのだろう。人々の幻想をなぞる事は歓迎されるが、幻想を破り真実を露呈するのは好まれない。
このぬるま湯の、従って、ぬるま湯の外の人間には過酷な世界で、他者として生きていくのはどんな意味があるのだろう。しかし、この世界ではその「意味」すら可能にもならず、その「意味」が示される事もない。宇多丸の言うように「ルーキーズ」のラストでは、負けたチームは全くと言っていいほど画面に映らない。ただ、そこに努力の末に勝った「自分達」だけがいて、それ以外のものはカメラに映りすらしない。僕達はそういう「同一者の世界」に生きている。この世界から排除された者は、もはやカメラに映し出される事もない。人々はこの者を自分達の視界から、倫理から、排除する。こうして「他者」は消える。
…ボードレールはこのように書いている。
「…おまえは呪われた者たちを愛するか言っておくれ。
おまえは赦されない者を知っているか」
かつての呪われた詩人はこのような言葉を深淵から発した。不幸から見放された現代の詩人はどのような力ある言葉も吐く事はない。彼らは呪われた者ではなくなった。彼らは幸福な存在となった。それ故、「詩人」ではなくなった。




