自失3
『よぉ、クレア。俺の顔が見えるか? 声が聞こえるか?』
『……うん』
こちらの言葉に対して、少し反応が遅れてはいるが、きちんと返事はかえってくるのでどうやらしっかりと声は届いているようだ。
でも、まだ呼吸は安定していないし、目も虚ろで微かに瞳が震えているのが見てとれる。
まずはそれをどうにかしないといけないか……。
呼吸の乱れを整えさせるのは、一定の間隔で深く息をつかせることで解決することができると思う。
目が虚ろなのはまだ意識がはっきりしていないのが原因だろうから、無理にどうこうするよりも、何か一つのことに集中させて自然と覚醒させるのが良いだろう。
そうと決めると、俺は片手で優しく包み込むようにクレアの肩を抱き抱え、もう片方の手を頭の後ろに回すと、自分の額をクレアの額へと、今度はゆっくりと近づけ接触させる。
そして、互いの瞳が互いの顔以外を映さないような至近距離で、自分にできる精一杯の柔らかい笑みを浮かべ、クレアに優しく語り掛ける。
『クレア。今から俺が言うことを、しっかりと聞いてくれ。いいか?』
『……うん』
『よし。今から俺の声だけを聞いて、俺の目だけを見るんだ。他のことは気にしなくてもいい。それだけに集中してくれ』
『……うん』
『良い子だ。じゃあ、まずは大きく息を吸って、吐いて。吸って、吐いて』
クレアの呼吸を落ち着かせるために深呼吸をさせる。
最初のうちは息を震わせながら、たどたどしく息をしていたが、赤ん坊をあやすように背中を優しく叩いて、『焦らずに、ゆっくり』と、その様子を見守りながら、何度も、何度も、深呼吸繰り返していると、徐々に呼吸は落ち着きを取り戻してきて、更に何度か繰り返すうちに、安定した呼吸ができるようになっていた。
『よし、もういいぞ。良くできたな、偉いぞ』
そう言って、クレアの頭をいつものように優しく撫でてやると、呼吸が落ち着いたことで先程よりも幾分か精神が安定したのか、少しぎこちなくではあるが、その顔には笑みが浮かんでいた。
症状は大分改善されたようだが、それでもまだ油断はできない。もう少し様子を見て、症状がぶり返さないように気をつけるべきだろう。
『それじゃあクレア、少しお喋りでもしようか。特に何か話題があるわけでもないけど、他愛ない雑談をさ。言い出しっぺは俺だから、まずは俺から。そうだな……。あ、そういえばこの前、外を走ってた時なんだけどな――』
そうして、俺のくだらない実のない話をクレアに聞かせていると、最初は相槌を打ってくれたり、微笑んでくれたりしていたのだが、そのうちにうとうとし始め、目蓋が落ちそうになっては、はっとしたように体をびくつかせ、眠気を堪えるような仕草を続けていた。
『眠いのなら寝てもいいんだぞ?』
『……うん。ごめんね、アスマ君』
『別に謝ることはないだろ。ほら、支えといてやるから、体の力抜いて、目を閉じて』
安心して眠れるように、ゆっくりと優しく囁き掛けると、徐々にクレアの体から力が抜けていき、こちらへと身を委ねる形になり、目蓋が完全に落ち切る。
だが、眠りに落ちる寸前で何かを思い出したように、半分ほど目を開くと――
『お休み、アスマ君。……大好きだよ』
はにかんだ笑みを浮かべ、そう言った。
『あぁ、俺も大好きだよ。お休み、クレア』
それに対して俺も素直にそう答えると、クレアは満足気な笑みを浮かべた後、崩れ落ちるようにしてそのまま眠りに落ちた。
ずっと握り締められていた短剣も、体から力が抜けたことでその手から滑り落ちた。
眠りについたクレアを片手で支え、短剣を腰の鞘に差し込むと、背中と膝の下に手を回し持ち上げる。
クレアも眠ってしまったことだし、とりあえず今日のところはもう家に帰るしかないだろう。
ここへ来た目的を達成できたかどうかは微妙なところだが、焦って取り返しのつかないことになるぐらいなら、引き返して次の機会を窺った方が良いに決まっている。
でも、魔物と戦う度に今回と同じような症状が出るのだとすれば、この子の意志を捻じ曲げてでも、俺は止めるべきなんだろうか?
……いや、それは次にもう一度様子を見て判断すればいいことか。今考えることじゃない。今は、この子を安全に家まで連れて帰ることが先決だ。考え事は後ですればいい。
となれば、ミリオと合流してさっさと帰るとしようか。