青色のバックヤードに
「いやあ、懐かしいですね。ねえ先輩、俺、子供の頃来たことありますよ、ここ」
「そうか。じゃあお前、園内の配置はわかるな。あっ、おい、足元に気をつけろ。廃園になってからだいぶ経つからな、あちこちガタ来てんだよ。……いいか、ここでケガだけはするなよ」
廃園になった遊園地の消毒。
いつもの仕事、例えば大規模ショッピングセンターなんかの仕事に比べれば、だいぶ楽そうだ。
何しろ廃園なんだから作業中にうるさい人目があるでなし、よっぽどなヘマでもやらかさない限りクレームもないだろう。
最初は、先輩と俺の二人だけなんていう少人数でだだっ広い遊園地なんか時間内に終わるのか、と心配していたが何のことはない、アトラクションの一つであるアクアツアーだけ、さらにそのバックヤードの一部を消毒する程度の仕事らしい。となると噴霧器で適当に殺菌剤を撒けば終わりなはずだ。楽勝だ。のんびりタバコでもふかしながら作業したいところだが、それはさすがに先輩にどやされることだろう。
ところどころひび割れ、コンクリートの破片がころがる敷地を歩く。人気はまったくない。管理者の事務所は隣町にあって立ち合いすら来ない。鍵だけを借りて、あとの仕事は我々におまかせになっているのだ。気楽なものだ。
「ああ、あれですよ先輩。屋根の形、おぼえてます。さすがに壁は色褪せてるけど昔のままだなあ。いいっすね、こういう仕事」
あれはいつのことだったか。たぶん小学校に上がりたての頃だったろう。
両親に連れられて、ここへ来たのだ。
薄暗い展示室内で水槽の窓だけが青く光を洩らしていた光景が、子供心にもすごく美しかったのを記憶している。
青い世界の中をたゆたう大きな魚影、水中で楽しそうに手を振りながら餌やりを行う女性スタッフ。それらが昔の記憶だったのか、いつか見た夢とが混ざったイメージなのか、自分でももはや判然としない。
なんだか、ながらく離れていた故郷を久しぶりに訪れる様で心がはやる。
知らず知らずのうちに俺はこれから見られるであろう世界にわくわくしていた。
「いや、仕事は仕事だ。いいか、真摯に臨む仕事に楽はないぞ。あまりはしゃいでミスするなよ。よし、裏に回るぞ」
先輩は俺より十歳ほど年上になる。仕事上の会話以外はあまりしゃべらないたちの人で、はっきりいえば寡黙な人だった。
私生活についてもほとんど話してくれないので、ややとっつきにくい雰囲気がある。だが仕事については入社一年目の俺にも面倒くさがらずにきっちり教えてくれる真面目な人だ。職人気質というよりは昔気質というんだろうか。いや、ちょっと違うな。でもそういうところは俺も尊敬している。
アクアツアーの建物は大きなドーナツ形をしていて、その内周部分にバックヤードが存在するらしかった。一ヶ所ある切れ込みのような通路を抜けてドーナツの内側に入っていくとバックヤードの入り口が見えてくる。鉄製の大型扉で、その取っ手を大仰な鎖で巻いた上にいまどき南京錠で施錠していた。開錠している先輩の足元、その左右のあたりに塩が盛られていることに気づいた。飲食店では良く見るが、こういうところもやるんだなと感心する。
「じゃあ始めるぞ。いいか、前に話した通り、中では俺から離れるな。それと内部では絶対にケガをするなよ。ケガというより、ここでは血を流すなといったほうがいいな。それと」
ふいに先輩の無表情な顔が近づいて、俺の眼を覗き込んだ。
「ここで見た物は絶対に口外するなよ」
低い声でつぶやいた。
声を潜めてぼそっと。無人の遊園地、聞く人がいるわけでもないのに。
先輩なりの冗談だろうか。
軋む音を立てながら、鉄扉がレールを進む。
昼の明るさの中に突然闇が口を開けた。
「入れ」
一歩中に足を踏み入れる。内部にはカビの臭いと古臭い何かの異臭とが漂っていた。
先輩が壁のスイッチを入れると、ぼうっ、と水銀灯の明かりがつく。電気が通じているのは意外だった。消毒や整備の為に残してあるんだろうか。もっとも窓が一切ないので、電気がなくては真っ暗で仕事にならないのだが。
がらんとしたバックヤード。廃墟とまではいかないが、使われていない施設に共通の寂寥感が漂っている。
子供のように舞い上がっていた気持ちも、少しばかり萎んでしまった。
やはりここは廃園なのだ。
「この先だ」
静かなバックヤードの中に、二人の靴音だけが反響していた。
ドーナツ状の形に合わせて微妙に湾曲してゆくバックヤード、そのコンクリート打ちっぱなしの壁面はどこも一面青で塗られている。いや、壁も天井も床も、バックヤード全体がやや褪色した青色で統一されていた。青一色に囲まれて、なんだか平衡感覚が鈍る。
「おっと」
あぶない。床に浅く掘られた小さな排水溝に足を取られそうになってよろめいた。
「おい! ……どうした。大丈夫か」
「あ、すいません、大丈夫です。溝に足を取られそうになって」
「足元には気をつけろといったろ。荷物をよこせ。俺が運んでやる」
俺が持っていた薬剤箱を代わりに持ってくれる。
「ホントすみません」
そうだった、ケガをするなといわれていたのになんだかボンヤリしてしまった。
滅多に見られない遊園地の裏側ということで少し浮かれてしまっているのかもしれない。
気を引き締めて歩を進める。
広めの通路が続き、内壁のところどころに鉄扉があるのが見えた。その向こうにかつての設備があるのだろう。とはいえ果たしてそういったものが今も残っているのかはわからないが。
「ここだ」
そういって先輩が荷物を降ろしたのは、内壁についた鉄扉の一つ。施錠している南京錠を開ける。
「扉を開けてくれ」
「はい」
重そうな外見のわりに引けば軽く開く。
近くにあった照明スイッチをつければまたも青色の世界が広がった。
奥の床に四角い窪みがあり、それを小さなプールとしていたのだろう。だが、今は乾いていて水はない。この部屋にもやはり、窓などはなかった。
「コンセントが右奥にあるだろう。そこにつないでくれ。ああ、先にマスクしておけよ」
電動式の噴霧器なので電源がいる。指示された右奥を見ると、コンセントが見えた。そのパネルもやはり青く塗られている。徹底したもんだ。
ここのコンセントも生きているわけだ。なんだかどうも廃園という気がしない。噴霧器のコードをコンセントに繋ぐと、その下、青い床に置かれた白い小さな物が目に止まった。何だろうか。なんとなく拾い上げて手のひらに転がしてみる。白いカケラ。……何かの骨のようにも見える。
「おい、作業始めるぞ。ホース持ってくれ」
「あ、はい」
なんとなくその白いカケラを片手で握りしめたまま、ホ-スを手繰った。
「いてっ」
握りしめた手のひらを何かがチクリと刺す。
反射的に振り払った手から白いカケラが落ちた。それは空のプールへとカランコロン転がっていく。手のひらをみると、ポツンと小さな血の滴が盛り上がっていた。
「どうしたっ」
逼迫した調子で先輩の声が飛ぶ。
「な、なんでもないです。ちょっとゴミを拾ったら……」
そこまでいって、異変に気付いた。
何かが聞こえる。さっきまでは聞こえていなかった音。
そして魚の腐ったような異臭。
「あれ……? なんですかねこの音」
水音。
そうこれは水の音。
流れる水の音だ。
「うそだろ」
先ほどまで乾いていたプールに、今や大量の水が流れ込んで来ていた。
だが、操作もせぬままひとりでに水が流れ込んでくるものだろうか?
そしてどんどん強くなるこの異臭はこの水が発しているのか。
「水が? あ、おまえマスクはどうした?」
水の音。乾きを癒す命の水音。心地良い音。マスク? そういえばまだしてなかったな。
「くそ、おい、いったん外へ出るぞ! 早くしろ!」
ぼんやり水音を聞いていた俺はひどく狼狽した先輩の声に我を取り戻した。
「えっ、あっ、はい! はい! すみません!」
何が起きたのかわからない。
しかしまだ殺菌剤を撒いてもいないのにマスクマスクって。確かにこの匂いは強烈だけど。
それに設備のポンプが故障したのかもしれないのに、原因を調べもせずに逃げ出していいのだろうか。器材まで放り出して。
せめて先輩が置いていった噴霧器ぐらいは持っていくか。
「噴霧器なんかいい! 外に出るんだ!」
その剣幕に驚いて、器材を放り出したまま転げるようにして扉へ向かう。爆発でも起きるのかという口振りに、こちらにまで恐慌が伝染してくる。。
「早くしろ! 急いでこの部屋から出るんだ。飲まれるぞ」
先輩がなにかとんでもないことを口走った気がした。
飲まれる……何に?
こけつまろびつ扉の目の前まで来たところでさらに最悪の事態が起こった。
恐ろしい勢いで鉄扉が閉まったのだ。勝手に。
「えっ」
扉に手を掛けて開けようと踏ん張る。だが、開けた時とは裏腹に扉はピクリとも動かなかった。
先輩が閉めたとは考えにくい。そもそもあの締まるスピードは人力では出せない速度だろう。
……つまり俺はこの部屋に喰われたということだろうか。
早くもプールからあふれてきた水が、足元にまでさらさらと流れてきた。
恐怖に襲われて必死に扉をこじ開けようともがく。
「開かない! なんだってんだくそっ!」
どうにもならない鉄扉を怒りに任せて蹴飛ばしたと同時に、今度は突然照明が落ちた。
「うわっ、真っ暗じゃねぇか」
真っ暗。いや、それは間違っていた。
扉に向いて反対側、あのプールから青白い光が放たれている。
「なんだ……これ」
それは美しい光景だった。
水で満たされたプールはその内側から発光しているようだ。
薄暗い室内を爽やかな青い光が照らしていた。
その水面の上にもまた光が現われる。
現れた光は回転していた。
青い光と白い輝きがゆっくり回りながら何かを形作っていくように見える。
「ああ……」
俺は心を奪われたように、いやまさに心を奪われてその光の回転を眺めていた。
不思議なことに恐怖は消えていた。先ほどまでの異臭もまったく感じられない。ただ、この美しい光景に心がひきずりこまれていた。
どこからか、妙なる調べすら聞こえるようだ。もしかして俺は幻を見ているのだろうか。
やがてぼんやりとしたその形がやがて凝集して、闇の中に輝く鮮やかな形態を現出させた。
「女……?」
それはどう見ても裸体の若い女。
闇の中、輝く水面の上に全裸の女が目を瞑ってゆっくりと回転している。
その可憐な口は小さく開いており、そこからあの心くすぐる佳麗な調べが発されているようだ。 そして腰まで届く碧の髪。それが大理石のように白い体の上を流れ、肉感的なラインで構成された裸体の美しさを際立たせていた。
あまりの非日常的光景に心が捕らわれて体が動かない。それとも、これもこの女の持つ何か魔法のようなものなのかもしれない。
女の回転はだんだんと弱まっていって、ついには止まる。女は瞑目したまま、歌ともつかぬ歌を口ずさんでいる。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
いまや女はこちらを向いて静止しているのだ。
これ以上見ていてはいけない。心のどこかで警鐘が鳴っている。輝くプールから女が出てきて宙に浮いたまま回転するなどありえない。開園中の頃の遊園地のアトラクションだったとしたって、種も仕掛けもないこのバックヤードでこんなことがあるわけがないのだ。
目をそらせ。早く逃げよう。
だが、意志に反して俺の視線は動かない。
女の、花のように美しい顔に見入ったまま瞬きすらできない。
むしろ、女の次にくるであろう動きを期待していた。
あの悩ましげな瞼が開くと、そこにどんな魅惑の瞳が待っているのだろうか。不思議な歌を洩らす、かすかにうごめく薄桃色の唇に舌を差し込んだらどんなめくるめく快感が待っているのか。
こんな時だというのに、作業ズボンの下の俺の生殖器は反応を示していた。それほどまでに眼前の光景は蠱惑的であり、同時に淫猥さを孕んでいたのだ。
女の瞼がぴくり、と短く痙攣し、ゆっくりと開いてゆく。
逃げろ、と再度の警告が頭の片隅に浮かぶ。そしてその警告を興奮と肉欲への期待がかき消す。
金色。
瞼の間から顔を覗かせたその大きな瞳は、どこか不吉な影を含んだ金色をしていた。
その金色の瞳が俺の瞳を捉え、視線と視線が絡み合う。
心臓を掴まれたような感覚。魂と魂がこすれあう。
「う……あ……」
金の瞳に引き込まれる。意味のない言葉が俺の口から洩れていくのがどこかで聞こえる。
「ああ……」
言葉が言葉にならない。
だが、言葉などいらなかった。
そんなものがなくても思いは伝わる。
俺を求めているのだ。彼女の渇望が俺の心に直接流れ込んでくる。
華奢な白い腕を拡げ、俺を迎えようと微笑む彼女。
そうだ、彼女は俺が欲しいのだ。ならば、与えなければならない。
もはや疑問も恐怖もない。
青白い光と彼女の紡ぐ心地よい歌声に包まれて、一歩、また一歩と近づいていく。
一級の人形作家が造形した、ひどく手の込んだ美しくも精緻な少女人形を思わせる均整のとれた顔。なまめかしい白肌、鼓動に合わせて緩やかに上下する肉感的な乳房。そして秘めやかな翳りの中でひっそりと息づく柔肌。
素晴らしい。
ああ、そうか。俺は彼女と一つになって……
ドン、と重たい衝撃音が背後で響き渡る。
耳障りな騒音、いったい何者が邪魔をするのか。
「おい、生きてるか?」
鉄扉が揺らぎ、外に向かってぐらりと倒れていく。轟音を立てて鉄扉が地に転がった。無粋な水銀灯の明かりが野蛮な勢いで侵入してくる。
「帰るぞ。イカレちまうのはまだ早い」
先輩の野太い声が、青い光に包まれた甘い夢を破った。
水銀灯の輝きを背にして、顔にはマスク、片手には工具を持った先輩が立っている。レールごと扉を外したのだろうか。
「え? 先輩? 何を」
「話はあとだ。来い」
腕を掴まれ、プールの部屋から引きずり出された。
とたん、耳をつんざく金切り声が沸き起こった。
プールの青い輝きは消え、闇の中、水に半身を沈めた女がこちらを向いて信じられないほど高い波長の声で絶叫していた。怒りの意思表示であることは明らかだ。金色の瞳にも非難の色が込められている気がした。
「か、彼女が」
「彼女? ああ、お前にはアレが見えるのか」
いいながら、ずるずると俺を引きずっていく。そのままでは尻が痛くてたまらないのでなんとか立ち上がった。
「いったん外へ出るぞ」
では先輩には彼女が何に見えているのだろう。
彼女? あれは人間だったのだろうか?
部屋の中から届く金属的な軋みを思わせる叫び。今こうして聞くと、とても人間の発する声ではない。ではいったい何が叫んでいるのか。
冷たい水銀灯の明かりの中、青一面のバックヤードを走る。
「ここまでくれば大丈夫だろう」
施設の入り口まで来て、ようやく先輩は歩みを止めた。
「追いかけてこないんですか」
「おまえは女が見えたといったな。安心しろ、ここまでは来ない」
「あの声、聞きましたか」
「俺には聞こえなかったな」
ようやくひとごこちついた、という風だがこちらはまだ混乱から抜け出せていなかった。
第一あの声が今でも耳にこびりついている。
「おまえ、飲まれかけたんだよあの部屋に」
「飲まれるって、な、なんですかそれ」
「マスクしろっていったのにしてなかったよな。いや、俺もアレのことを説明していなかったからな」
「ガスか何かですか」
「いや」
先輩は頭を掻きながらようやくマスクを外した。
「わからん。わからんが、あの部屋でマスクをしていないとお前に見たいに錯乱する奴が出るんだ。どうせ作業する時はマスクをつけるから大丈夫だと思ったんだが。もう長いことこのやりかたでうまくやっていたのにな」
「つまりアレは、ええと、どういうことなんです?」
そう質問すると説明しようとして一瞬言いよどむ。
「アレか。アレはな……」
何かを躊躇しているようだった。
「おまえ……幽霊って信じるか」
「幽霊?」
「飲まれたヤツがいたんだよ、前に。そいつがいってたんだ、あの部屋には幽霊が出るってな」
背筋を寒気が襲う。
幽霊だって?
「飲まれるとどうなるんです」
「おかしくなっちまう。いろいろおかしなことをしでかして、最期は海に入って死ぬ」
海で死ぬ。
ぞっとしない話だ。なんだか周囲の青い壁が深い海に変わったような気がした。
「で、アレは幽霊だっていうんですか? ひとりでにプールへ水が流れ込んだことも。鉄扉が勝手に閉まったことも」
「たぶんな」
「お、おかしいじゃないですかそんなこと。なんでそんなに普通にしてるんですか? どれもこれも腰を抜かすレベルの異常現象なんじゃありませんか」
「ここはそういう所なんだよ。それでも仕方がない、仕事なんだから」
「いくら仕事だっていったって、死ぬかもしれない危険があるなんて思いやしませんよ!」
俺の言葉が青いバックヤードに反響した。
「……まあな。俺もお前もたぶんここに縁があるんだろう」
「縁?」
「前に来たことがあったといっていたな。閉園する前に」
「たった一度だけですよ。そんなのが縁になりますか」
「俺の考えだから実際のところはわからないがな。少なくとも俺には縁があるんだ。……ここがまだ繁盛していた頃に俺の嫁がスタッフとして働いていた。そして嫁はここで死んだ。展示プールの中で。事故だったというがな」
「えっ」
「大きな震災があった時のことだ。停電で環境の維持ができなくなくなってな。水槽の魚が死んじまうって、徹夜でここに詰めて作業していたんだ。そんな日が数日続いて、ある朝、展示プールに浮かんでいるのが発見された。大量の死んだ魚と一緒に」
「それは……」
「だから、俺はここで起きる妙なことはすべて幽霊の仕業なんだと思っている。アイツと魚たちのな。もっとも、どういうわけか俺にはアイツが見えないんだ。まあ嫁が徹夜で家を空けている時でも、あいも変わらず消毒屋の仕事に没頭していた俺だ、何も文句はいえない」
どこまで信じていいのかわからない話だった。
幻覚を見るガスが出ているとでもいってくれたほうがまだ信じられる。それが幽霊だって?
俺が見た女はおよそ普通の姿ではなかった。先輩の奥さんならもっと人間っぽい幽霊になるんじゃないのか。第一俺には何の関係もない。ただ、ここに来たというだけなのに。
頭がおかしくなりそうだ。とっととこの青一面の世界から逃げたかった。
「早く出ましょうよ、先輩」
入口の鉄扉の外にはまぶしい太陽の世界が広がっていた。
後ろに残した青一色の世界が怯む明るさがそこにあった。
ただ一つ、入口左右に盛られた塩がべっとり濡れて崩れているのが気味悪い。
「おまえ、その手、どうした」
俺の手のひらを指さす。
あの部屋でできた傷だった。
だがもう血は止まっているようだ。
「あっ……さっき作業を始めるときに拾った白い物が刺さりまして」
「血を流したのか」
先輩がそれっきり黙り込んでしまう。
そういえば何度も血を流すなとかケガするなといっていたが、あれも関係あるのだろうか。
「それも幽霊に関係あるってことですか?」
返事がない。
無言で俺の手の傷を見つめるばかり。
「先輩?」
「……いや。いまさらしょうがない。忘れろ」
「え?」
いまさらしょうがない、などといわれて忘れられるわけがない。
「やめてくださいよ。なんであんなに血を流すなっていってたんです。血を流したらいったいどうなるんです」
「消毒しとけ。あまり気にするな」
ガラガラと鉄扉を閉め、鎖を巻いて南京錠をかける。
「アレを……幽霊を放っておいていいんですか? 器材はどうするんです」
「明日取りに来る。お前は明日休め。ああいや、出社して会社の事務所にいろ。俺から社長には話しておく」
施錠を確認するとさっさと歩き出す。
まるで納得がいかなかった。
「どういうことなんです! 先輩は何を知っているんですか。俺はいったいどうなるんです」
「俺は何も知らん。知っているのは、ときどきここにそういう幽霊が出るってことだけだ」
背中に俺の言葉を受けながら、先輩はてくてく歩き出していた。
「緑の髪に金色の瞳をした裸の女がいたんです。でも不思議なくらいにそれが美しくて、いい女に見えて。そ、そして歌を歌っていました。先輩の奥さんなんでしょうか」
「知らん」
「考えてみればおかしいですよね。水の中から浮かび上がってきたんです、ぐるぐる回りながら」
「忘れろ」
俺はまだ一歩も歩き出すことができない。
どういうわけか、体が動かないのだ。
止まっていたはずの手の傷がまた、開いたらしい。
流れ出した血がポタポタ指先を伝って地面に落ちていく。
痛い。いや、そうでもないか。
考えがまとまらない。
「……先輩、俺は飲まれちまったってことですか」
もう、先輩は何もいわない。
小さくなっていく背中をぼんやり見送った。
勝手なものだ。
幽霊の仕業か。
死んだ魚たちと先輩の奥さん。
馬鹿馬鹿しい。
俺には何の関係もない。
あの日、俺は全く関係のない場所にいたし、子供の頃のあの日以来今の今までこの場所に来たこともなかった。
なんの関係もない。
誰の責任でもない。
「ふふふ」
なんだか勝手に笑みがこぼれる。
傷が腫れたようにズキズキ痛む。
「あは、あははは……」
耳にまた彼女の歌声が聞こえてきた。
そうだ、地上は乾く。
ここは息苦しい。
あの青い色の世界に戻ろう。
鉄扉と向かい合う。
腐った魚の臭いが立ち込める。
俺の臭いなのだ。
腫れあがった手をかざすと、垂れた粘液をかぶって南京錠と鎖が腐り落ちた。
音もなく扉が開く。
奥から彼女の歌声が俺を導くように流れてくる。
一歩進めば、背後で扉がまた同じように静かに閉まっていった。
ああ、心地良い。
冷たい鉄扉が太陽の野蛮な光を遮断し、中では一面見渡す限り優しい青の光にに包まれた世界が俺を待っていた。