Escape - エスケイプ -(卅と一夜の短篇第15回)
都市では、年に一度精密検査を受ける義務があった。
体組織を採取され、内蔵や骨を透視され、頭の中まで覗かれるのだ。
「最近悩みなどありませんか?」
判で押したような医師の言葉に対し、その男も判で押したように返す。
「俺が生きていること、それこそが悩みだ。俺を死なせてくれ。彼女の許に逝かせてくれ」
「それはなりません」
「何故だ」
「ご存知でしょう。あなたはA級技術者だ。実際の階級にはないが、S級と言ってもいい。そんな人を、誰がどうして死なせようとしますかね」
「俺の記憶でもなんでも好きにコピーすればいい。どうせそれぐらいの技術はあるんだろう?」
「ありません。仮にあったとしても、それはなりません」
お互いにうんざりしながら、この問答を繰り返す。これすらもすべて記録されている。傍から見れば、莫迦げた茶番にしか見えないだろう。
* * *
ここでは自殺が禁じられている。
確実に死ぬためには、病死か規則違反による処刑しかない。だが不幸なことに、病気による死者は彼女が最後のひとりだった。
もっとも、自殺など不可能なのだ。技術の進歩のお陰で、細胞の一片からでも再生が可能なのである。
だから男は処刑される道を選んだ。
決められた仕事を放棄し、社会貢献を拒む。
日ごとのスケジュールに組み込まれている、エクササイズを怠ける。
用意されたバランスの良い食事を拒否し、ジャンクフードと呼ばれている合成食と酒だけを摂取する……
栄養が偏っている合成食ではあるが、それが健康を酷く害することはない。
酒にしても元より好きではないし、彼は下戸だった。
すべては規則違反のペナルティを積み重ね、処刑されるための行動だ。
じわじわとペナルティは加算され、男の行動範囲には制約がつくようになった。
これには彼も閉口した。彼女との思い出の地を訪れたくても、制約のせいでままならないのだ。だが上の人間は、これこそが男に響く罰則だと考えていた。
『自由が欲しければ、その責務を果たせ――ここではそういう規則なのだから』
* * *
年に一日だけ、男には自由が与えられた。
それが今日、この精密検査の日である。
検査が終了してから日付が変わるまで、時間にすれば半日もない。しかしそれが唯一の機会だったのだ。
毎年のことならば、検査終了後には彼女の慰霊に向かう。だが今日は違った。
裏道に入り、人知れぬ通路を辿る。
出来うる限りの最短距離で郊外へ向かう。
郊外には非正規のレンタル屋があった。
自宅から接続して、ネットワークの監視をかいくぐり偽IDで予約するなど、男にとってはたやすいことだった。
何しろ彼はここのシステムを作ったエンジニアのひとり――今となっては、唯一の生き残りなのだから。
他のスタッフやAIが、日毎にシステムを変更・更新していた。だが彼らが手を入れるのは、あくまでも都市の円滑な運営についてだ。
裏路地住みや郊外の『はみ出し者』のためのシステムなぞ、そもそも金にならない。そこの住人がとりあえず生きられる程度のことを、おまけでやっているようなものだった。
男はそれを逆手に取り、秘かに準備を進めていた。
* * *
「あんたかい。端まで行きたいなんていう酔狂な御仁は。あんなトコ、なんもありゃしねえのに」
レンタル屋の主人はカインと名乗り、ヤニで黄色く染まった歯をむき出して盛大に笑った。
『都市』に住んでいれば、歯のクリーニングなぞいつでも受けられる。
それにこの男のように、不健康そうな太鼓腹を揺することもないだろう。
しかし都市に住みたがらない連中も、ここには一定数存在するのだ。
そして上の人間たちもそれを黙認し、あえて放置している。いわゆる公然の秘密というものである。
何故放置しているのかまでは男は知らないが、こうして郊外の彼らを利用する『都市』からの客も時折来るらしい。
一般的な機体で端まで行くには、丸一日を要する。だが男に残された自由な時間は、たった三時間半。
だから馬力とスピードが最も優れている機体をレンタルした。
力技で三時間を切ろうというのだ。当然負荷にも耐えられるような体質でなければ無理だが、幸い彼は重力負荷には強かった。
自動運転で移動中に、このあとの手はずを確認する。
目指すのは、とある山の麓だった。そこには崩落し掛けた鍾乳洞への入口がある。それに入るのだ。後のことはどうすればいいか、男にはよくわかっている。
古めかしい手持ちのトランクを開く。そしてこれも古めかしい防護服を取り出すと、狭い座席内で身に着け始めた。
機体を走らせてからきっかり二時間五十分。
機体は鍾乳洞入り口の手前でスムーズに停止する。
久し振りに着た防護服は動きにくいことこの上ないが、先日虫干しの口実で引っ張り出し、ついでに一度袖を通していた。問題はなかった。
機体を降りた。ふと地面に振動を感じ、振り返る。
すると、遙か彼方にかすかな土煙が上がっているのが見えた。
――やつらだ。
男は急いで鍾乳洞に足を踏み入れる。
――レンタル屋のおやじが通報したか。いや、ひょっとしたらずっと尾けられていたかも知れない。
彼の心臓は徐々に速くなる。
だがここで、焦ってしくじるわけにはいかないのだ。
最初の分岐を左に、次は右に。そのまま突き当りまで進んで左に。
次は真ん中で、少し開けた場所に出たら、壁伝いに右回りで三十歩ほど進んだ付近の壁をまさぐり――
――あった。これだ。
パチン、と小さな音を立てて岩壁がはぜる。
壁から物理キーと旧式モニタが備わった認証装置が現れた。
手袋が煩わしく、男は左手でむしり取った。興奮で震える手で慎重にキーを押して行く。
間もなく認証システムが起動した。
認証用の質問は三つ。それぞれ正解のパスは十五文字ずつだ。
キーを正確に押さなければ、ここは開かない。
しかし男は難なく解いて行く。もっともそれは当たり前の話である。なにしろ、この認証システムを作ったのは彼自身なのだから。
入り口の方向から、ばたばたと足音が迫って来ていた。
よくまぁこの暗い道を違えず追い駆けて来たもんだ、と男は軽く感心した。
認証はあとひとつ――残り十文字、五文字……そして、
「動くな!」
背後に数人分の殺気を感じたのと鍾乳洞内に解除終了音が響いたのは、ほぼ同時だった。
「なんの音だ? 貴様何をした!」
リーダーらしき人物が怯えたような声を出す。
――そうか、こいつはここがなんであるかを知らないんだ……かわいそうに、何も知らされていないんだな。防護服もなしで来るなんて。
男はそう考えながら手袋をはめ、ゆっくりと振り向く。
「手を上げるんだ」
武器を構えて彼らは指示する。
男はそろそろと両手を上げ――左足で後ろの壁を思いっきり蹴った。
途端に男の背後には巨大が穴が出現する。その向こうは黒と白にくっきりと分けられた空間が広がっていた。
「何ぃっ?」
武器を構えていた彼らが驚愕するような間もなく、そこにいた全員がその穴に吸い込まれて行った――――
「やっと、きみに会いに来たよ――ヴェガ」
彼は宙を舞いながら、亡くなった恋人の名を呼び掛ける。
漆黒の空の約三分の一を占める、この惑星系唯一の恒星に向かって。