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ごパン戦争  作者: TAITAN
悪の帝国編
485/789

第98話「潜入Ⅲ」


―――帝国領土内南部大封領。


 ブラスタ貴族制において帝都以外に存在する貴族の数は全体の4割にしか過ぎない。


 その殆どは30年前の建国時に帝都での招集に応じる近衛軍の親類縁者で固められており、彼らは地方に領地を貰って帝都を護る領主として自力で経営する事を望んだ経営手腕の高い者達である。


 その為、多くの場合には貴族の領地経営の多くは他の国とは違って、かなりまともだと言われている。


 新興国である為、無能な二世や三世が殆ど出ていなかった事。


 帝国自体の革新的な気風によって現在は二世の殆ども貴族としてはかなり優秀な部類に分けられている。


 まぁ、それでも広大な領地を統治するには数が圧倒的に足りなくて西部を三流貴族が統治していたように本国以外の属国領などにいるのはかなり落ちる連中しかいなったという事実もある。


『父上、今度は燻製を商品として売り出そうと思うのですが、ウチの余ってる森の一部に小屋を建ててよろしいでしょうか?』


『燻製? この間、工業用の工場を建てたばかりだろうに……』


『ああ、いえ、地方の産品を増やして領土内で消費する分をと。調べたところ、今はウチはそれ系が輸入品ばかりらしく』


『ふむ。まぁ、いい。作るからには……』


『ええ、味は保障しますよ。友達に自分で作ってしまう程に口煩いのがいまして。そちらに色々と教えてもらうつもりです』


『儲けを領内の産品の開発に再投資……売れなくなって来た商品は保存期間を延ばす努力と遠方への輸出……言うは易しだが、中々に難題だな……』


『ですが、それが姫殿下の命なれば。人一倍の努力は貴族の嗜みですよ』


『将来は商人にでもなった方がウチの長男は安泰かもしれんな。ふぅ……』


 近頃、貴族達の間では投資が盛んだ。


 それも基本的には領地に即した中小規模の工場が多いだろう。


 大貴族や商会の連中が儲けているのだから、自分達も遅れるわけには行かないと貿易に使えそうな商品の大規模な生産現場を自力で儲けて、各地の商会を通して大量に売り捌き、その手数料を払う。


 数年前までは考えられないような流通の発達が彼らに齎したのは今まで活用出来なかった資源の開拓そのものだ。


 例えば、小規模過ぎて流通コストを載せたら採算の合わない商品が流通コストが劇的に下がったおかげで大量に卸せるようになった。


 そして、彼らの多くはこの国内及び国外への輸出で儲けた金を帝国の大改革の旗を掲げた聖女が齎す叡智。


 聖女の教書の内容に従って、多くが地場産業の育成に投資した。


 殆ど貯金という事をしなかった彼らは賢いと言える。


 経済成長を行う為に生産基盤を強化する事。


 互いに近隣の領地と共同して莫大な富を民間に渡して国内で経済の好循環を途切れさせぬようにと合理的に投資を行ったのだ。


 彼らは来期に返ってくる納税額が跳ね上がる予測を前に小躍りする寸前である。


 だが、彼らが最も改革によって衝撃を受けたのは商売そのものの爆発的な発展ではなく。


 生き方に関する聖女の考えだった。


 人が生きていく上で必要な事など左程多くない。


 衣食住の上は見上げれば果ては無いが、下を見れば、その下限は生きている社会集団の層で決まっている。


 貴族ならば、最低限度の設備を儲けてもこの程度あれば十分。


 そういう基本的な上限下限の知識が示されていたのだ。


 言わば、張らなくて良い見栄の上限が設定されたようなものである。


『オイ。ウチの庭が半分になると聞いたんだが、どうなってるんだ?』


『ああ、叔父上。広過ぎる庭の半分を街の管轄にしたんだ。公園として開放して、商売人を呼び込んで民の憩いの場にしようと思って……』


『……狙いは何だ?』


『ウチの経済規模であの庭の維持はかなり負担だよ。せっかく立派でも一族の者達が毎日通うわけじゃない。なら、その分の維持費を街の方に負担して貰って、商売する為の様々な催しを行う場にすれば、人で賑わうかってね』


『なるほど。だが、そう上手くいくか? それと庭の管理費を街の連中が出せるのか?』


『商人連中に出させるよ。連中だって、商売の場が広がって、催しを自分達で考えてやれる場があるんだ。払った分の元は取ろうとするだろ?』


『ふむ。まぁ、いい。しばらく様子見にしておこう。こっちは工場の稼働で忙しい。人事に人員の身の回りの書類仕事も大変でな』


『規模が大きく為ったら、人を雇うのもいいんじゃない? 帝都で数学や事務処理を学んだ人材が今はタイタンで割安で雇えるらしいし』


『ああ、例の人材派遣業とか言う? 姫殿下が熱心だそうだが、元奴隷が多いとか』


『仕事をしてくれれば、相応の金で雇えるんだ。十分でしょ。それに姫殿下はこの人を貸す事業に関しては儲けは要らないと殆どの料金は人材の財布に消えるそうだし、人助けだよ。人助け』


『人助けか。なら、仕方ない。乗ってみるとしよう……ウチの領地経営には何ら否定的な所もないしな』


 富は儲けるよりも維持する方が難しい。


 だからこそ、投資で儲けた金は自身の故郷で消費し、故郷で回す。


 自身の持つ領地が盤石であれば、維持は問題無く可能。


 経済を拡大するにしても身の丈にあった大きさと合理性と他者からの評価を受けて事前に綿密な予想を出し、それを成功させる為に労力を割く。


 簡単に言うならば、現代式の経営指南書を渡されたようなものだ。


 そして、経済の競争と共に共同する事が最も儲ける上では重要になる。


 ルールの下で平等に競い。


 その上で必要以上に負けないように戦う。


 挑戦する時も再起出来るように準備は怠らない。


 成功した事業も継続していけるように人材を育て、発掘し、厳しい時代を想定して各地の銀行と連携して雇用を生みながら利益を上げる為の機構を作り上げる。


 このような投資を欠かさないようにと貴族達を叱咤激励した一部の教科書はもう彼らの愛読書である。


 つまり、社会全体の基盤を強化する為の投資。


 人々は金と経済の正しい使い方を知り、それが一般常識として浸透したのである。


『ふぅ。御爺様には言っていたとはいえ、工場の経営というのは存外大変なのですね。人員の確保、教育、福利厚生、儲けられている内に財政基盤を整えて、借金は早期に返済。儲け始めたら次の投資への貯蓄、社会福祉活動の推進』


『お前、疲れているようだね。工場の方は順調かい?』


『ああ、あなた。案外大変で儲け自体は出ているのだけれど、人を雇って書類仕事をして貰った方がいいかもしれないわね』


『そうだね。でも、その場合も信用出来る人材を雇うべきだ。例の姫殿下の人材派遣業が今は良いらしい。今度頼んでみたらどうかな?』


『そうね。そうしましょうか。それにしても確かに豊かになって来たけれど、それに比べて働くのが大変な気がするわ……』


『上に立つ者の義務さ。力ある者が最も得難いのは共に進んでくれる友人や隣人。彼らを食わせられない貴族など、貴族を止めてしまえ。とは……過激だが、何ともあの方らしい物言いじゃないか』


『まぁ、同意しましょう。でも、帝都から貴方が取り寄せた品の事は許さないわよ?』


『は、ははは、何の事だか。解らないな(すっとぼけ)』


 このあまりにも革新的な思想が導入された事で若い二世貴族の殆どは聖女を信奉すると言わんばかりにその波へ乗った。


 帝都と共に産業の発展と拡大と人々の暮らす社会を高度化する。


 このまったく自身の事など顧みない彼らの様子は狂信的ですらあっただろう。


 だが、奴隷身分から成り上がった一世貴族とは違い。


 最初から貴族として育った二世貴族の多くは元々ブラスタ貴族制が抱えていたお綺麗な理想というものの中で幼い頃から育って来ており、このような聖女の言葉に共鳴し易かった。


 結果的に頭の固い一世貴族達の多少の反対すらも無い聖女の大改革は全貴族が実戦するうねりとなって、貴族社会全体が蓄えていた富の8割近い額を市場で運用する事になり、経済規模は一気に拡大しつつも、その好循環が何処かで途切れる事は無かったのである。


 そして、その改革で増え始めた資本の多くは帝国本土内の国土開発に当てられながらも、余剰した資金は今度は国外への投資にも割り振られた。


 それらの多くが友邦たる北部と西部、帝国領土の再果てたる東部の大森林へのものだった事は聖女の思い描いた通りの流れだったと言える。


 その成果として今や帝国は物流の中心地として数多くの資源と人材と食料を輸入する事になったが、誰もがソレを歓迎しているわけではない。


 例えば、国内の不穏分子の監視が劇的に楽になった帝国陸軍情報部の工作員くらいの立場になれば、新たな問題の発生に頭を痛めていたりもする。


「帝国に入国する外国人の数が多過ぎる……」


「仕方ありません。今後の事を考えても反帝国系の工作員の捕縛を優先し、あちらの人材を出来る限り減らすのが最善。そもそも帝国民を相手にするより、よっぽどに気楽じゃないですか」


「それはそうだが、日に日に部屋が名簿と書類で埋め尽くされていくように思えるんだが?」


「ああ、それなら問題ありません。書類仕事専門の人員をタイタンから借り受ける事になりました。機密厳守は勿論ですが、姫殿下が選りすぐった方々だそうで」


「……背に腹は代えられんか」


「いやぁ、すっかり、帝国陸軍情報部も姫殿下の下っ端になっちゃいましたね」


「最初から新人が姫殿下派ではな。やれやれ……」


「ははは、何を言ってるんですか? 先輩……ちょっと姫殿下が創った店で休日は甘いものを啜り、普段は食事をしてるだけですよ?」


「ついでに姫殿下の姿を描いた肖像画を地下市場で買い込み、自宅の寝室に飾るくらいだな」


「ええ、それくらいですよ。まったく、“普通の若者”じゃないですか?」


「………はぁぁ、ソウダナ」


 悪びれない新人。


 貴族出の若者に溜息一つ。


 情報部の古参連中はあの聖女の手腕にもはや自分達が何を言える立場でも無くなった事を改めて実感するのだった。


 このような“極めて真っ当”と現時点では称されるだろう人々が大量発生した事は多くの仕事現場においてはまったく問題にされなかった。


『こちらダグナ。目標の制圧完了。直ちに研究所に回収を要請』


『了解』


『こちらエルジ。目標の制圧完了。直地に研究所に回収を要請』


『了解』


 多くの若者達が聖女様万歳病に掛かった昨今。


 大陸南部からの大量の移民希望者が殺到する帝国南部の国境地帯は殆どの場合、まったく何の検査も無く受け入れる。


 というのは各国の大使などは驚く話だろう。


 だが、その内実が聖女当人から“目”を授かった者達による超絶な監視網を潜っての入国である事は殆どの人々も知らない。


 経済圏を構築する上での制約。


 国境。


 それによって人間の移動の自由を妨げないという類の政策は普通の国家ならば驚くような話の一つだ。


 同時に人間など及びも付かない特殊能力を持つ元人間……ドラクーンの実戦配備によって可能になった罠でもある。


 何の話かと言えば、国境の扉をわざと開きっぱなしにして怪しい人間やそれ以上の存在を簡単に見つける為の装置として使っているのである。


 経済圏構想と国境開放を両輪に敵と味方の選別が行われているのだ。


『第二研究所の回収班が来るまで20分程です』


『山岳部からの光源と暗号だけで遠間の味方とやり取り。いや、頭が下がるね。研究所の方々には』


『今、一瞬で帝都から国境地帯まで連絡する装置が作られてるらしいですよ』


『ははは、驚かんよ。いやぁ、そうなったら戦地の男共が泣いて妻に連絡するだろうな』


『違いありませんが、まずはこいつらの死体の初期処理を』


『バイツネードもどれだけ用意してるんだかな。消える竜ってだけでも普通の国相手なら脅威なのに……こっちの出方を観測してるにしても、多過ぎないか?』


『無限に使い潰せる生産先があるのか。もしくは囮だろうという話です』


『囮ねぇ……今月だけで帝国全土で40匹。まだまだいるな』


 わざわざ国境警備隊のいる山岳部や各地の国境線沿いから入国するより、まったく管理されていないように見える大街道から国境を越えた方が交通の便が良い。


 ついでに内部に入り込んでさえしまえば、簡単に潜伏出来る。


 と、思っている各国の諜報員、バルバロスの力を用いる者達を入れる大袋……それこそが南部国境域の街道を担う封領の真の姿だ。


 厳しい訓練と同時に超人を越えた超人と化したドラクーンの中でも特に五感の良い選抜者を抜き出して凡そ30人態勢で監視している。


 彼らの仕事は山岳部から毎日入って来る数千規模の群衆を五感と観測機器で見ながら帝国に入り込む不穏分子を排除する事である。


 このような事は東部の港町でも行われており、ひっそり東部諸国はドラクーンによる恩恵としてバイツネードその他の犯罪者などの入国を遮られていた。


 犯罪者は普通の官憲に対処させ、それ以外は自分達で処分している。


 特にバルバロスを用いたバイツネード側の特殊工作員はこの地域で大量に減らされて、内部に入り込まれても現在分散して各地を巡回している彼らの同胞によって狩り出され続けている。


『この間は再生する竜が送り込まれて来て、再生不能にされたらしいです』


『ああ、聞いた聞いた。“無限に再生する私を倒せるわけがない”だっけ?』


『何処まで本気だったんでしょうね。何も無いところから再生出来る程の能力でも無ければ、姫殿下の組んだ対バルバロス用の対策マニュアルには敵いませんよね。やっぱり……』


『再生する敵に対する対策だけで8通りもあるしなぁ。オレらの装備が不全の状態なら負ける可能性もあるんだろうが……』


『焼き尽くす。溶かし尽す。相手の肉体を半端に再生させる。何処かに封じ込める。幾らでもどうにかなりそうっていうのがまた……』


 普通の一般人を用いて密輸したり、諸々の犯罪を行おうとする者達すらも本人の動作や視線の動きから見抜く訓練を受けた彼らは言わば現代で言うならAI機能の付いた監視カメラ、ディストピアも真っ青な監視装置に等しい。


 その人間離れした活躍によって、今や帝国の国境線そのものが虫取り網のようなものと化しており、工作員、諜報員、その他諸々は秘密裡に排除されるやら逮捕されるやら、巨大経済圏構想による歪みとして当然出てくるだろう国境を越えた犯罪や敵の抑止が可能になっていたのである。


 *


―――帝都商業区中央商会連合地下施設。


「エゼム・ヴァンドゥラー様。入場致しました」


 男女数人の執事とメイド達が出迎えた様子に男は驚いた顔になっていた。


 家の要人の誘拐。


 それも大貴族の軍人家系であるヴァンドゥラーが狙われたのだ。


 普通ならば、かなりの大事になっているはずだったが、現在……家の当主の命によって、その事は口外無用として国家諜報機関預かりという体で情報は封鎖されていた。


 しかし、妻とその妹を失った男が1人。


 あまりにも急な出来事に呆然としながら、自分が早く家に帰っていれば、という後悔に圧し潰されそうになりながらも、妻の弟……今は小竜姫殿下に仕えるようになった甥から必ず連れて帰るという言葉だけを聞いて、それに頷いて拳を握り締めるしかなかった。


 焦燥しても意味が無い。


 後悔しても遅過ぎる。


「………」


 軍においては単なる後方の書類仕事をする政治将校に近い貴族のお偉方。


 その一人たる34になったばかりのエゼム・ヴァンドゥラーは機密指定された誘拐事件の解決を祈りながら、自らに出来る事をする為に上司たる帝国陸軍の将官達からの推薦を受けて、機密の類に触れる立場となっていた。


「此処が帝国の命運を左右する施設……?」


 穏やかな気性。


 根っからの文官気質なエゼムにとって軍というのは書類仕事の塊だ。


 紙の兵隊と呼ばれる本当の軍の中枢として30代で至れるくらいには彼の能力は秀でていたが、根っから軍の本分たる戦闘技術は中の中。


 家柄だけで上に昇ったと揶揄される彼にとって、商業区に帝国の未来があると言われるのは奇妙ながらも何処か納得出来る事であった。


「……ん」


 金髪を僅かにカールさせた気弱そうな軍装の王子様。


 大貴族の多くが最優層として娘との婚姻を望んでいた彼は性格も相まって軍人よりも政治家としての道が良いと大貴族の貴族院への選出が既に周囲の家々からも望まれている。


「エゼム様でいらっしゃいますね。当施設へようこそおいで下さいました。当施設【アランロド】は約300名の特定技能従事者から為る遊興施設です」


 彼を地下の電灯の下に明かりに出迎えたのは40代くらいの礼服を来た商人のような風体の男だった。


 簡素な指輪が全ての指に嵌った彼は飄々とした様子で長い黒髪で一礼する。


「遊興施設? 中将閣下からは帝国の命運を担う施設だと聞いていたが」


「はい。その通りでございます」


 エントランスの奥に続く二つの扉は占められている。


 貴族の館の様式に似た地下設備であったが、最新の技術である電灯を用いている上に最新の建材であるコンクリートまでも使われているのは軍事技術にも精通する彼には解る。


 そう、此処は遊興施設と言いながらも帝都でも有数の防御力を誇る最新建材で建てられた場所なのだ。


「当該施設は大公姫殿下が複数の商会からの出資で御作りになられ、その内部で働く者達は全て彼の方の直接の教育を受けて、合格した者のみで構成されております」


「何と……姫殿下が御作りに? そうか、ならば納得も行く……」


 今、南部皇国との戦争を控えた時期に彼の誘拐された妻と妹を救う為、甥と共に帝国外に出ている少女。


 その姿を思い浮かべれば、彼の胸には何とも複雑ながらも強い謝罪と感謝の気持ちが沸き起こる。


 バイツネードの仕業であるという話から、救出の為に帝国の最新技術で造られた空飛ぶ船リセル・フロスティーナまでも出して予定にない船出となっているのだ。


 だからこそ、その胸にあるのは比類無き忠誠だった。


「この施設はたった一つの遊戯を行う為に全ての者達が遊戯を行う為の複雑な法規を身に着けているのです」


「たった一つの……それが私を中将閣下が此処に送った理由か」


「はい。では、まず施設内を案内致します」


 頭を下げた男に連れられて、扉の一つに入った彼は地下施設だと言うのに更に二階建ての半地下程もある吹き抜けの2階建ての通路の上に出ていた。


 内部は円形の議場のようになっており、地下中央にある円卓には誰も座っていないが、二階と一階のあちこちには扉が等間隔で複数存在しており、そのプレートには何やら軍事、政治、経済、などの分類と共に更に細かい国家に必要な各分野の名称が割り振られていた。


 この施設は思っていたよりも深く作られているらしいと理解した彼だが、そんな工事はこの近辺で行われていなかったと記憶していた。


 その思考を読んだかのように男が彼に向き直る。


「此処は姫殿下の家臣団の方達が生み出した最新の建材と軍が保有する機密である複数のバルバロスによって建造された代物です。出資者こそ各大手の商会ですが、内実は姫殿下と帝国陸軍との合作と言ってよいでしょう」


「なるほど」


「現在、当該施設は帝国規模100年標準の遊戯中であり、軍参謀本部の皆様と各分野においての俊英と呼ばれる方々による結果待ちとなっております」


「遊戯の結果を待つ? 何の為に?」


 エゼムの言葉に男は答えず。


「当該施設は本日で稼働92日目となりましたが、これが同規模同標準の遊戯においては4回目の結末となります」


「結末? それに4回……三か月以上でたった四回しか遊戯が行われなかったという事と考えても?」


「ええ、そろそろ時間ですな」


 男が懐中時計を確認したと同時。


 木製の扉の中から次々にカンカンカンと小さな鐘の音が響いた。


 そして、扉が開くとすぐに全ての室内から男達が血相を変えて髪も解れた様子で目をギラギラとさせながら円卓に駆け寄り、互いの顔を見合わせながら、何か重大な出来事を目の前にした時のように何とか自分を落ち着けていた。


「アレは……大将閣下?」


 メイド達の持って来たお茶や菓子を自棄になったように噛砕きながら待つ男達の中には帝国陸軍の統帥権を皇帝と大公から預かる大将その人までもがいた。


 彼らの背後から出て来た従者風の衣服の男達が手に紙の束を持ちながら、すぐに円卓の更に奥にある場所に集まり、何やら互いに紙を見せ合いながら、一枚の紙に何事かを書き込んでいく。


「……集計終了致しました。帝国規模100年標準の第四次結末をご報告致しますので各分野の方々は御立ち下さい」


 その声で大将までも立った様子に彼は驚きを隠せなかった。


 仮にも帝国の軍を担う者が遊戯施設職員の声に従うというのだから。


「まずは大目標の達成度……今回の達成度は64%でした」


 その声に男達から何か落胆とも喜びとも付かない複雑な声が漏れる。


「更に各分野における終点進行度の平均は74%。最高で91%、最低で43%となります。では、以下の結果から、第四次帝国の現状推計と現状報告を行うものと致します」


 男達が固唾を飲んで見守る最中。


 エゼムはその異様な空気に呑まれていた。


 よく見れば、施設の部屋から出て来たのは各界の重鎮ばかりだったのだ。


「第四次帝国の100年標準での歴史推移を解説致します」


 男達が座り直してお茶と菓子を噛砕きながら、解説役の男を見つめる。


「最初の十年において各分野の推進された技術開発による効果はその後の30年においては他国に優位と働きました。今回は特に建築分野における推進が著しく。全ての歴史案件を速やかに解決した事で大規模な国土開発計画が上手く行った為、内需の活況と共に多くの国民が最も古き良き時代を過ごしたでしょう」


 エゼムは男の騙る歴史に何の事かと思いながらも聞きつつ、その語られる世界の話に少しずつ理解を深めていく。


「ただし、国土開発における資金の捻出と開発の限界が露呈し、40年目以降からは国内開発の技術的な限界から不況が頻発。60年目からは新興国の出現によって国外投資の流出も目立ち。最終的には他国の国土開発に我が国の先行投資で出来た技術を用いる事で世界的な影響力を保ちました。世界開発目標は標準を越えて40年程進んだ為、我が国は新興国の親のような立ち位置と言えます」


 そこまで聞いていた男達は少しだけ安堵したような顔になっている。


「また、新時代への節目となる新技術の開発が後発国家に遅れを取る形となり、後塵を拝した為、外交的な立場としては可もなく不可も無くと言ったところでしょうか。80年目以降から100年に掛けては帝国は良き旧き大陸を象徴する大老国家という位置付けとなり、各国との連携を持って大陸のご意見番のように収まるわけですが、往年のような力は既に無く。技術的にも少し遅れた巨大国家として以降を過ごす事になるでしょう。本シナリオの結末は【大木は死なず】となります。このシナリオにおける最大の功労者は経済分野、特に土木建設業と林業、更に海運業などの国土開発資材の開発と物流、建築を担った方々です」


 その言葉と同時に立ち上がった男達の一部に拍手が送られ、頭が下げられる。


「また、今回はこの国土開発に資金を取られたせいで軍事力は先行した余力を持っていても殆どが50年目までに陳腐化。結果として後発国家に軍事力では負ける事になりました。この帝国は経済力と指導力で世界の盟主とはなれましたが、その地位は絶対ではないという事で歴史推移の概略は締め括らせて頂きます。このシナリオは全てを精査後、詳報として1月後に全参加者へお渡しします」


 男達が何とかホッとした様子になる。


 だが、その一方で何処か悔しそうな顔になる者も多かった。


「どうでしたかな? 一つの歴史の区切りは?」


「歴史の区切り……これは歴史を辿る遊戯という事で?」


「いいえ、歴史を作るのですよ。姫殿下が書き起こしたあらゆる今後を想定した無数の事件を前にしても戦える戦士が必要です。無能な指導者など如何なる分野にも今後百年必要無い……」


「つまり、これは……各分野の指導者達に歴史を体験させるものだと?」


「はい。彼らは互いに認識しませんが、様々な行動を宣言し、限られた手札を用いて進路を決めるのです。そして、互いに連携する者もあれば、個人で最高を極めようとする者もいる」


「つまり、誰もが最善を目指した結果として、造られた歴史が今の?」


「ええ、その通りです。彼らの後ろに付いて来た施設職員達は彼らに歴史的な事案を告げ、それに対する対処をどのように行うのかを確認し、決められた宣言と行動に対して、遊戯で規定された条件を出しながら、時間を見て進行するわけです」


「なるほど……」


「姫殿下が想定される様々な事件は1万を超えております。そして、それは各分野に分けても多過ぎる程に多い」


「一万。遊戯にそれほどの情報が必要なのか……」


 呆然とウルサスが呟く。


「それに巧く対処出来れば、状況は好転しますし、それが無理なら悪化する。これを回避する為に他分野の者達と共に国を導く事は基本です。この遊戯に参加した誰もが最善の道を取ろうと模索していた。そうなれば、同じような事件が起きた時に現実でも即時対処する指針となる」


「時間が掛かるわけだ……」


「最初の第一次では殆どが連携を取る事も出来ずに各分野がバラバラに動いた結果として国が崩壊するところまでシナリオが進みました。結果として何もかもが巧く行かずに軍事的な強硬策を取った帝国は100年後まで残らなかった」


「それが今は残るようになったと?」


「ええ、だから、彼らは必死に考え、誰もが最善手を指向する。それでも巧く行かない事の方が多いが、勝手にバラバラな事をしていた時よりも帝国の存在する時間は伸びた。世界を安定させ、最終目標である大陸の統合まで手が届きつつあるが、それも絶対ではない……」


 そこでエゼムは気付く。


 これは恐らくは準備なのだと。


 姫殿下があの宣言を叶えられなかった場合、後の指導者達に対して残す準備。


 自分が届かなくても、誰もが自分に近い路を求めれば、近似値は出る。


 そう考えたのではないかと。


「そう……そういう事ですよ」


「ッ」


 エゼムが説明してくれていた男に目を見張る。


 自分の内心を見透かしている。


 まるでバルバロスのような能力を持つ相手に驚きは隠せなかった。


「もしや、姫殿下直属の……例の省庁の方では?」


「おっと、そこまでにしておきましょう。姫殿下の叡智は門外不出。互いに詳しくは知らずとも、貴方もまた戦う者だ。その方法が我々よりもずっと直接的なだけでその思いは変わらない」


「……確かに」


「エゼム様。此処に呼ばれるのは帝国において今後100年を担う最優層と彼らに続く者達だけなのです。貴方は選ばれたのですよ。大将閣下に」


「ッ」


 エゼムが円卓を見れば、今の自分の遥か先を行く男が僅かに汗を拭いながら、手招きしていた。


「あの方は新しい風を求めた。自分では考え付かない解決法があるかもしれない。自分の後任に昇る者に出来る限りを託す事が出来るかもしれない。だからこそ……」


「行きましょうか」


「ええ、貴方の担当となる事が決まっております。名前はご容赦を。では、やりましょうか。次の帝国が世界と共に歩み。長き平和を勝ち取れるように」


 彼らは人々に告げる。


 この遊戯に新たなルールが追加される事を。


 次世代の教育と引き継ぎ。


 少しずつ少しずつ帝国最優層の人々は理解していくだろう。


 遊戯に現実の要素が追加される事に聊かの興奮を覚えながら。


 その机上演習……国家を動かすゲームを題材にして一人の聖女が自らの知識と現実を擦り合わせ、指導者層を教育する為に創った力。


 これが今後の時代を先取りするものであると。


 飢餓、貧困、戦争。


 技術の発展、高じる戦略、肥大化した人口。


 枯渇する資源、暴走するイデオロギー、破滅を辿る宗教。


 世界規模での環境破壊。


 何もかもが収束していく世界大戦。


 それは聖女が生み出したもう一つの現実。


 この大陸の百年後、二百年後を予測して、現実の知識で裏打ちされた世界最高のシミュレート……否、エミュレート・ゲーム.


 それが機械ではなく人間の手で実現されたのである。


 あまりにも緻密にあらゆる社会問題と国家間闘争とその内実を描き出したソレの原稿だけで10万行程もあるのだ。


 仕事として描き出されたソレを体現する人々は正しくOSによって動くプログラムとでも言えば、妥当だろう。


 一人一人がそれを全うする事により、機械よりも余程に遅く。


 しかし、この今の時代に生きる人々には分かり安く。


 聖女と呼ばれた少女は自分の見る世界を人々に僅か垣間見せたのだ。


 何れ、プレイヤーの中にもそういった事実に気付く者が出るだろう。


 ただ、それまでは国家の未来に対処する能力を磨く為の遊戯であると信じて、彼ら帝国の民はそれに熱中し、現実においてもその経験を生かしていく事になる。


 出入りする者が増えていく地下には今日もベルが響く。


 新たなゲームと新たなルールが人を導いていく現場こそ、恐らくは帝国の最高機密の一つであった。


 *


 楽園。


 黄金郷。


 管理社会。


 これらがたった一つの事を指している事は人類の短い歴史からも事実だ。


 最初の現実的な楽園を想像した欧州のとある男は奴隷がいる楽園を想像したが、現代の事情から考えれば、それは楽園とは言わないだろう。


 だが、実際にはその楽園を実現出来るかどうか。


 教会が実験した事すらあるという点で人々にはその概念は麻薬染みていた。


 そうして人々は楽園を求める果ても亡き旅路に歴史の大海原を越えて進み出したわけだが、生憎と共産主義の台頭や管理社会の実現を望む独裁国家くらいにしか辿り着いていない。


 結局のところ。


 この楽園と呼ばれる世界はあまりにも高過ぎる代価を払って実現したところで左程に意味が無い事に人類は気付いてしまった。


 人の社会の高度化と高度知性へと進む過程で必然的に得られる情報が環境に適応する最適解として楽園は無し得ないという現実を叩き付けて来るのだ。


 人口の増加と資源の枯渇は実際問題であろうし、楽園が永遠に楽園として機能する為に必要なものはあまりにも物資的、社会的な代価として大き過ぎる。


 今から原始人類並みの生活で良いならば、数十倍の人口とて養えるだろう現代である。


 だが、そういうものを望まない人類の幸福追求には終わりも果ても無い。


 一個人が受けられ感じられる幸福の上限を全ての人類に対して適応すれば、それだけで地球は何も残らない不毛の大地と化すのだから。


「………」


 王城内部は今や傭兵共の酒池肉林らしく。


 男達は大量の酒を浴びる程に飲んで、適当に場内の女を強姦しつつ、自分達が食って来たモノの中でも上等だろう食料に満足しつつ、生きていた。


 正しく傭兵の楽園である。


 過去形になるのも無理はない。


 全ての資源は枯渇したのだ。


 特に人間としての心の摩耗は著しいだろう。


 今や王城内部は自殺した傭兵に溢れているし、彼らが死んだ様子と門が開いた事で街へと逃げ出していく場内の者達が掃けた後だ。


 傭兵達の楽園は高い代価を国にも個人にも払わせた。


『オレは死なない死なない死なないしななぃしななぃ……』


『ひぐぅ、ひ、ひぃ、ひぃぃぃぃぃぃぃ』


『だめだだめだだめだだめだだめだ』


『こいつら、抵抗しない? 壊れてるのか?』


 無血開城した場内にはもう廃人となった傭兵共しか残っていない。


 まともな善人スタイルにしてやれた傭兵は多くない為である。


 実際問題、人の脳裏を弄るのはかなりのリソースを食う。


 特に脳で計算している為、複雑なコマンドを一気に書き込むのは難しい。


 故に諸々やっていない場合、精神が耐え切れなくなるのだ。


 そんな貧弱な精神で傭兵稼業と悪党を両立していたとは驚きだが、何処の悪党も一皮剥けばこんなものなのかもしれない。


 もう少し上等な悪意の権化や精神ツヨツヨ系悪党が残っているかと思っていたのだが、全員単なるクズ以下では使い物にならない。


 ちなみに自殺した傭兵は自分で死にたくて死んだわけではなく。


 自分が暴行した場内勤めの女官から死ねと言われて、その言葉に連鎖反応した男達が次々に自分の首を斬り飛ばした事で地獄絵図になったようだ。


 これ幸いにとこちらに脇目も振らずに逃げていく場内の者達の様子は正しく一般人として正しい。


「何だ。これは……これが本当に……ッ」


 大門から堂々と入った後。


 数少ない精神に異常を来していない傭兵達が青い顔でこちらを招き入れたわけだが、城を制圧するのに400人前後集め切ったジークはドン引きな様子で背後の兵を率いていた。


 だが、彼らにしてもこの異常な惨状に心が持っていかれた様子で背後からは残った場内の者達がいないかと兵達が血塗れの廊下を走って声を張り上げている。


 そんな、最中にも王城の謁見の間の扉を蹴り破る。


 5m程あったソレが吹き飛んだ途端、聞こえて来たのは絶叫する男と女の声だったのだが、それがすぐに大臣だと分かった。


 縋っているのはどうやら息子らしいが、自分で首を斬り飛ばした後である。


 ついでにその横には剣で切り付けられて左手を落され、息も絶え絶えな女中がいたので命を繋いで回復を優先しておく。


「ッ、誰だ!?」


「ゼヌちゃんんんんん!? どうして母を置いて先にぃぃぃぃ!!? ああぁあぁあああ!!?」


 思わず振り返ったのは涙を拭った太々しい男だった。


 大臣の顔は覚えていたので適当にいつもの悪人用の精神支配で良心を爆上げして無力化しておく。


 死んだ息子に縋る母親の方にも恨まれては困るので適当に記憶を消去しつつ、気絶させた。


 これで単なる母親ならば、一考の余地があるのだが、大臣の家族は性格が悪い上に美人な女官を拷問する趣味まであるそうなので、今後は人生を拷問されたような環境で頑張って償って貰う事にしよう。


 謁見の間にある王座にある大臣の息子の死体を確認するが、どうやら前日に女を食おうと城下に降りて来た際に傭兵達と一緒にいた人間だと分かった。


 恐らく、この時刻になるまで絶望的な表情で生きていたのだろうが、生憎と襲った事のある女官に死ねとでも混乱の最中に言われたのだろう。


「さて、面倒な事は無し。城を制圧しててくれ。上司の元に行くぞ。ジーク」


「本当に一体……こんな……」


「別に問題あるか? 殺されるような事をしてた連中が死ねと言われて死んだだけだ。こいつらが良識的で普通の人間だったなら、死ねなんて他者から言われたりしなかっただろ」


「それはそうだとしても……」


「オレはこの国に渋々来ているわけで時間を使わせてくれた大臣にはちゃんと後で罪は償って貰う。行くぞ」


「あ、ああ……」


「生憎と悪党に優しくしてやれる程、機嫌は良くない」


「………」


 場内を抜けて、その背後にあるカルデラに向かう道を走る。


 すると、数分もせずに縁まで辿り着いた。


 少し左に行った場所にカルデラ湖内部に降りる階段と城塞らしきものが岩場の中に見えたのですぐ傍まで言って、扉を普通に開いてみる。


「何者だ!?」


「任せる」


「解った……ズィクリンドです!! メレイス様は居られますか!! 王党派一同助けに参りました!! 城は既に制圧し、傭兵達も排除致しました!!」


 女官達がジークの登場に大きく息を吐きながらも喜びに涙を見せる。


「レウム様!! メレイス姫はあの憎き大臣によってグランジルデの湖に!!」


「案内出来る者はいますか!?」


「そ、それが、大臣達が昨日連れて行った後は行方が知れず!? 湖にいる事は確かなのですが、どうやらグアグリスの力で隠匿されている様子で朝になっても姿が見えないのです!?」


「解りました。すぐ助けに行きます。貴方達は姫殿下を場内でお迎えする準備を!! 今、傭兵達の血で場内は濡れていますが、受け入れる部屋があれば、多少はマシになるでしょう」


「わ、解りました!!」


 次々に女官達がこの方は誰だろうという顔で頭を下げて、ジークの背後にいるこちらを横に抜けていく。


「レウムって名前か?」


「尊名の一つだけど……」


「まぁ、いい。案内はこっちで受け持とう」


「居場所が解るの?」


「グアグリスの能力で隠蔽してて、グアグリスの能力がある人間に見えない道理は無いと思いたいもんだ」


「……お願いするわ」


 この危険人物を会わせていいものだろうかと思いつつも頷いてくれる辺り、少しは馴染んで来たらしい。


 小さな石製の砦というのも烏滸がましい二階建てからすぐに出て岩肌の階段を降りながら、視線の先にある木製らしい祭壇に向かう。


 確かにグアグリスによる薄いヴェールのような幕が展開されており、その細胞の光の屈折率を変化させているようだが、予測能力に過去観測出来るこちらからすれば丸見えである。


 正しいルートは大臣が辿ったらしい足跡を辿れば一発。


 更に10分程歩けば、カルデラ湖の畔から突き出した長い長い桟橋の先、祭壇の上に鎖で繋がれている少女が見えた。


 だが、その様子は明らかに欠伸をしていて、眠そうだ。


 ついでに言えば、こちらが自分を認識した瞬間にはチラリとこちらを見ていたので相手は間違っていないだろう。


「消えろ」


 グアグリスの薄い壁に触れて侵食して命令するとまるでシャボン玉のように瞬間的にヴェールが消えた。


 と、同時に祭壇の上の姿を確認したジークが奔り出す。


「メレイス様ぁあああああああああ!!!」


「おう? ジーク。随分とあちらの姫に可愛がってもらったようじゃな」


「う、うぅぅぅ、いつものご様子に安心しました。本当に、本当に良かった……」


 ポロポロ涙まで流し始めるジーク。


 それをヨシヨシと頭を撫でたのは十代前半の少女だった。


 まぁ、背丈はこちらと左程も変わらない。


 銀河を宿したような虹彩が光を放つ以外は普通の美少女と言うべきだろうか。


 僅かに発光する瞳はこちらを見て、薄く細められていた。


 狐耳に尻尾付きの長い金髪である。


 まったく、アニメの毎年量産されてる型押しヒロインみたいである。


 小柄だが、何処か人を食ったような胡散臭い表情が何ともお姫様というよりは悪い事を考える賢者みたいな空気を醸し出している。


 所謂、世捨て人な姫らしい。


「世捨て人とは心外じゃな。これでも民には極めて優良と思われておる。初めまして……世に変革を齎す者。いや、齎した者、かのう」


 少女が声と共に立ち上がると鎖がグアグリスの溶解能力で外された。


 同時に少女の髪の色が黒から銀に変質する。


 やっぱり、最初からそういう事らしい。


「……そうか。今回の大臣の一件。お前が首謀者か」


「え?」


 言った傍からジークが意識を失って崩れ落ちる。


 こちらではなく。


 グアグリスの能力を持っているあちらのせいだ。


「いやいや、単純に我が国の人間が一番多く助かる方法を取っただけじゃよ。フィティシラ・アルローゼン姫殿下。いや、始祖の異方より来る来訪者よ」


「それも解るのか。案外、この世界の事情に詳しそうだな」


「何、左程の事も無い。グランジルデに記されておるだけの事よ」


 少女が桟橋の出っ張りに腰掛けて脚を組んだ。


 巫女服っぽい衣装を着込んでいるのにやっている事はどっかのおっさんが格好付けたような感じに見える。


「それで? わざわざ大臣に捕まってオレを呼んだ以上、しっかりと代価はあるんだろうな? オレの機嫌が悪い事を承知で呼んだんじゃないのなら、更に心証は最悪なわけだが?」


「……まぁ、事実としてはもう少しマシなのが来るかと思っとったからなぁ。いやぁ、それにしてもこんなのが今の大陸では持て囃されておるのか?」


「キレていいか?」


「そう、怒るな怒るな。こちらとて祖国の為にギリギリの線を辿って、ようやく此処まで辿り着いたのだ。これから先はこの瞳でも見通せんかったし、しょうがない。そなたに我が国をやる」


「ほう? 剛毅だな」


「最初からそのつもりだったのだろう? 影響下に組み込んで軍事通行権だけ出させてなし崩しで味方側に引き込もうとしていたのでは?」


「それは選択肢の一つだ」


「はは……一つか。この瞳で見られる限界を当の昔にそちらは超えておるわけか。いやいや、勝ち目が無いな」


「オレを此処に呼び寄せる為に大臣を野放しにして最小限度の犠牲で大臣派閥を退治する手腕は認めてやる。だが、それまでに出た被害が軽いわけじゃないのは解るよな?」


「勿論だとも。例え、予測で我が国を中心に大規模な戦乱が発生し、帝国と反帝国連合の作戦で国内が分裂した挙句に内戦状態になるよりはマシ。と言っても、未来を見通せぬ人間には何の事だか分からんだろうしな」


「それはオレが切り捨てた未来の一つだ。厳然として未来予測した場合の主導権はこの世界で権力や国力の無さに比例して選択肢が狭まる。最悪を想定するのは良い事だが、最悪を回避する為に出す被害にしては大き過ぎだろ」


 この北部の彼の王から貰った未来予測能力であるが、基本的に使えば使う程に煩雑な事実が浮き彫りになる力でもある。


 例えば、2人以上の未来予測能力者が予測をして現実に干渉した場合、その選択で予測がズレたりする。


「仕方なかろう? 仮にも王家を預かって尚、選択肢の少なさに泣けるのじゃ。一応、国を動かせる立場ですら、選択肢が5つにも満たんのじゃからな」


「その点では同情してもいい」


「それはそれでかなり複雑なのじゃが?」


「自分で言い出した事だろ。ちなみに帝国産まれ帝国育ちのこちらにしてみれば、選択肢が多過ぎて困る方がよっぽどに多いが……」


「あ~~~今、物凄く贅沢な発言をされたのでは?」


「相対的な事実だ。諦めろ」


「ぬぅ……」


 未来予測で別の能力者が未来を変える時に他の同能力者との間で競合が発生する。


 同一事象を互いが対象にすると途端に指数関数的に予測が極めて複雑化していくという性質が予測能力にはあるようなのだ。


 将棋やチェスではよくあるのだが、数十手先を読む場合には途中でコレは無いなという予測を途中で切り上げ、別の予測に切り替える事がある。


 これで制限時間内で相手の手を読むわけだ。


 予測能力による予測合戦はコレを高速で行うに近い。


 ただ、手を読むと言ってもかなり広範囲の事象を扱うので処理は極めて大変だ。


 未来の主導権を握る戦いでもある為、大概は手が抜けない。


 恐らくはこの目の前の姫のようにこちらが途中で無いなと切り捨てた手を読んで対策するのは予測の的中率が下がった事を自覚していないからだ。


 予測が外れたり、あるいは微妙にズレたり、大きな誤差が出るのは基本的に予測が不可能な程に複雑化して人間には処理出来なくなった時というのはこちらの経験則で考えられる程度の予測能力の瑕疵であった。


「で? 我が国を貰ってくれるか? 対外的には軍事通行権だけにしておくが、内実は好きなだけ使って構わんぞ? ん?」


「お断りさせて頂く。軍事通行権と商人連中が国内で売るものにケチを付けないなら、後は好きにすればいい」


「いや、反帝国連合に睨まれるじゃろ?」


「だから、そうしておけと言ってる。戦後にも中立で構わないぞ?」


「………理由は?」


「自分の面倒を見られるヤツの面倒を見る馬鹿がいると思うか?」


「む? むむ……むぅ……我が国の面倒まで見切れんと?」


 メレイス姫が考え込む。


「手一杯なところに予定を捻じ込んだお前への罰だ。好きなだけ苦労するがいいさ。ああ、それとお前の背後にあるグランジルデは頂いて行く」


「ぬ!?」


 さすがにその言葉は予測外だったらしい。


「それが賠償金代わりでいい。その代わり、帝国製の万能薬の売り上げの7%を万能薬の先駆者であるお前らに今後100年払おう」


「……人が滅びるかもしれんというのに百年後の話か。いやいや、何とも恐ろしき者よ……だが、まぁ、悪くはないか」


 大きな溜息だった。


「それでそのグランジルデだが、悪意の塊が乗っかってるように見えるんだが?」


 湖には何も存在しない。


 だが、グアグリスの反応はある。


 見ているが、隠れている様子もない。


 そして、最初の巨大な投げ槍のような飛翔体を加速する際の予測的に見て出した相手の質量換算から言って、ソレは正にこの広大なカルデラ湖の質量とほぼ一緒であった。


 そして、その内部に明らかに予測能力でも最悪の部類だろう可能性を齎す元凶がある。


「ああ、大臣派がこの機にバイツネードを雇い入れるかと考えた矢先にあちらからグランジルデを兵器化する為の品が送られてきてな。恐らくはバイツネードの連中の意志でグランジルデを動かす為の中枢だったんじゃろ」


「放置してたと?」


「実際、どうにもならんしな!!」


 ハハッと投げたメレイス姫は笑顔だ。


「好きにするならしろって事か。解った。約束は守られるから安心しろ。それと此処からさっさと逃げろ。あっちはようやく起きたみたいだ」


「ッ、グランジルデを前にして尚引かぬか。ああ、まったく、こんなのにあの大臣では荷が重かろうて。ジーク!! これ!! 起きぬか!! ジーク」


 パンパンとジークの頬が張られた。


 容赦は無いらしい。


「………ハッ!? メ、メレイス様!? 一体何が!?」


「とにかく、此処から全力で逃げるのじゃ!! 城内の者も全員非難させよ!! 早くせねば、皆潰れるぞ!!」


「え、ええ!? い、一体どういう!?」


「走れぇええええ!!!」


「は、はぃいいいいいいいいいい!!?」


 メレイスを背負うようにしてジークが一瞬こちらを見たが、ヒラヒラと後ろ手に手を振っておく。


 駆け去っていく2人に構わず。


 泉の中心へと湖面を歩いてみる。


 グアグリスでアメンボのように表面張力を用いて浮かぶ膜を脚下から展開してスイスイしているだけなのだが、しばらくはこれでいいだろう。


 こうして湖の中心付近まで歩いて行くと。


 中央の内部から何かがせり上がって来る。


 これが丸みを帯びた円柱となって屹立し、その中央で鈍く紫色に輝く。


【やぁ、同胞よ。余興は愉しんで貰えたからな?】


 声はいつぞやのバイツネード首領のものだった。


 カルネアード・バイツネード。


 そう名乗った少年にも聞こえる声の主。


「人の予定に新しい予定を捻じ込んだ罪は重いぞ。クソ野郎」


【ははは。でも、面白いだろう? 似姿の1人が嘗て到達し、この世界に創ったのがこの国なのさ。故郷の味は愉しんで貰えたと思ったんだが……】


「お優しい心遣いに反吐が出る」


【それは何より。君が我が家に来る前に多少は実戦訓練でもした方が良いんじゃないかと思ってね。こういう場を儲けさせて貰った】


「で? こいつがオレに勝てるとでも?」


【勝てないだろうね。だが、コレが無差別に世界を破壊して回るのを単体の君が防ぐ事は可能かな?】


 その言葉の途端、次々に泉のあちこちからミサイル染みた槍のようなものが無数、湖の底から剣山染みて伸び上がって来る。


 よくよく見れば、その剣山は針のように細い金属を集めたようなクラスター爆弾っぽい感じになっている。


 弓なりの弾道で目標地点に撃ち込めば、各地を無限に針よりは余程にデカイソレで肉体を軽く貫通するだろう。


 樹木や石製の建材も易々と貫くに違いない。


「こういう仕掛けか。グアグリスを極大化すれば、ある程度の鉱石だけで対軍、対国家兵器の出来上がり、と」


【御名答。いやぁ、純粋たる物理攻撃だよ? 今の何処の国にもコレは潰せない。そして、一斉発射を君は見ている事しか出来ない。もしかしたら、帝国のせいになっちゃうかも?】


「はぁぁ……イイ線行ってるよ。実際、オレがある程度の強さを身に着ける前なら、手も足も出ずに対帝国の機運を高めるのに良さそうな小細工だ」


【止められるような素振りだね?】


「ああ、止めてやる。後、その悪趣味な中枢は破壊させてもらう」


 一足飛びに手を突き込んで相手の中枢を指先で罅割れさせつつ、一つも漏らさずにこちらのグアグリスで溶解させる。


【ふふ、お手並み拝見……】


 声が最後に残響して消えた。


 しかし、それでもグランジルデの命令を取り消すには時間が掛かるだろう。


 約30秒で湖の底から生まれた槍が各国へ四方八方飛び散る。


 そうなれば、半径500km前後内にある全ての集落、全ての国家が破壊的な音速を超える飛翔体のばら撒く子弾による攻撃で鏖殺される。


 竜の国、北部皇国、他にも中小国は壊滅的な被害を受けて衰滅規模にまで文明が後退するのは間違いない。


「黒猫」


「マヲー?」


 いつの間にか横にいる黒猫さんである。


 さすが、猫神は素早いらしい。


「コレを倒すのにオレにアレを与えたのか?」


「マーヲ?」


 小首を傾げられて誤魔化される。


「まぁ、見てろ。どうにかするさ」


「マゥヲ~~♪」


 頑張ってねと言われた気がした。


「土神。力を借りるぞ」


 腕が白金色に染まると同時に腕の中に紅の細い糸のような剣身と超重元素製の柄が顕れる。


 爆弾を超火力にしてくれている超重元素アグニウムの超純度生成体だ。


 取り込んでいた純化済みのそれを急いで形成した。


「おじさまに感謝しとくか」


 現在、アグニウムの精錬は極めて慎重に行っているが、それでも普通の方法だとほぼ失敗続きであり、純度を高めるちゃんとした方式は確立されていない。


 だが、それを唯一純度99.999999%以上にする方法がある。


 土神。


 この金属生命体による物体の再構築能力を用いれば、ソレは可能なのだ。


 ルビーのような光沢のソレを見つめて、脳裏の演算を終えるまで約20秒。


 瞳を閉じて集中する。


「ッ」


 残り1.043秒で体を駒のように一回転させた。


 その際に振られたアグニウムの針剣が弧を描いた。


 振る速度を綿密に計算し、回転時のアグニウムと空気中の元素の摩擦時に発する熱量を確認した為、回転は少し遅いくらいだ。


 緩やかな舞いにも見えたかもしれない。


 湖が殆ど真円だった事も良かった。


 ―――発火したアグニウムが描いた一回転の軌跡がピタリと虚空に焼き付いて、グアグリスの死をばら撒く一撃が無数に発射される寸前にその数kmもあるだろう湖面を薙いだ。


 まるで波動が瞬間的に湖面を渡ったようにも見えるが違う。


 熱量が湖面を覆ったのだ。


 途端に湖内部がホワイトアウトした。


 猛烈な水蒸気爆発の中心地。


 摂氏7800度の超高温高圧蒸気。


 いや、プラズマにも近く。


 湖、グランジルデが熱量に輝きを帯びていく。


 熱量の被膜で泉内部にあった全てのグランジルデの細胞が気化爆発した後、急激な熱量の供給でプラズマ化現象に見舞われているのだ。


 この威力を抑える為にこちらの手の中から放出した超重元素が猛烈な蒸気の摩擦を用いて大電流を発生させながら巻き上がる。


 世界に蒸気の柱と同時に電流渦巻く雷鳴の檻を奔らせながら、もう剣を引っ込めた手で“雷を掴む”。


「ッッッ―――」


 土神はあらゆるエネルギーを空間を越えて蓄えているように感じていた。


 それが事実かどうかは未だ分からないが、ヴェーナの大食いは質量すらも消していた為、その可能性は高く。


 ならば、放出出来るエネルギーと吸収出来るエネルギーで無理やりに蒸気の爆発を雷に巻き込んで吸収しながら引き寄せられないかと考えた。


 大気を割る雷は空気を押し退けているのだから、その空気を押し退ける程の雷を永続して生み出せば、蒸気を閉じ込められないかという話である。


 勿論、中の人間は超大電圧をブチ込まれて蒸発するのだが、生憎とこっちは生身でありながら、かなり金属を取り込んだ細胞に体が置き換わった吃驚人間である。


 血液が沸騰する温度なんてとっくの昔に限界を超えている。


 ついでに土神の能力を使っている最中は殆どの物質やエネルギーを体表面から吸収可能である事から実際には耐える必要すら無い。


 半プラズマ化した乗騎を身に受けながら吸収し、外部からは光の柱に見えるだろう電磁力の檻の中心となって磁界を変形させながら蒸気を掌に吸い込んでいく。


 あまりの衝撃に今にも肉体は砕けそうだが、電力を放出して吸収してというのを繰り返して蒸気の檻を維持するのもかなり来る。


「――――――」


 雷の煌めきに幾らも過去の断片が見える。


 フラッシュバックでもしたか。


 意識が明滅した。


「まふぅ~~~♪」


 しかし、蒸気を吸収し続けている渦の中心だというのに微生物ですら生存不可能な領域の最中にも呑気に黒猫は欠伸していた。


「ふ……はは……」


 神様にとってはこんなのは出来て当たり前。


 安心感すら抱かれているらしい。


「抱け。土神……人の命よりは軽いだろ。こんなの」


 腕が嘶いた気がした。


 フッと腕が軽くなったかと思った刹那。


 白金の腕が内部から罅割れて、今までの腕の侵食痕が更に増量されていく。


 途端、ゴッという音がしたかと思うと音が周囲から消えた。


 同時に音の消えた世界で雷だけが世界と湖を隔て、その泉の中央に棺桶のような何かを見る。


 その黒曜石のような色合いの石棺内部には大きな見覚えのある体をした乙女が入っていた。


『アンタだったのか……』


 答えは無い。


 だが、グランジルデの全てが詰まった蒸気を急激に吸い込んだ腕が赤熱しながら猛烈な重さでゴドンッと地面に叩き付けられる。


 そして、急激に吸われた電力が雷の壁を解放し、猛烈な突風が周囲から中心へと空気を吹き込んで―――意識は落ちた。


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