第72話「東部動乱Ⅰ」
―――帝国領リギナ地方。
帝国の戦術の始りの地であり、騎馬による大規模輸送戦略たる大本営システムを時の英傑達が打ち立て、帝国最初の占領地、馬の生産地として基礎を築いた大地。
剥げ山や岩山が遠くに見える広大な盆地や高原、平原に恵まれた牧草地は未だに馬の生産量だけで言えば、大陸一であろうし、同時にまた牧畜も盛んである。
帝国内で供給される干し肉などの加工食品の8割を賄う大地は今や帝国式の牧場が数多く設立されており、馬は帝国病と呼ばれる程に弱体化しつつある。
馬という生物は基本的に大量の牧草を必要とするし、一か所に留まっていると偏った食生活で根本的に強く育たない。
なので、現代世界でならば、濃厚飼料のような配合飼料ベースの餌が与えられて初めて名馬の類は育つ事になる。
まぁ、サラブレッドと違って戦争に使われる馬は基本的にはロバやポニーくらいの大きさのものと荷運び用のムキムキなお馬さんが大半だ。
速度は出ないが、耐久力に優れた馬はこの大地で若い頃に育てられて調教を受け、帝国軍に納入されて初めて様々な大地を転戦する事でまともな食事を摂って1年以上の時間を掛けて軍馬となる。
このような馬の生産現場は水辺が点在こそしているが広過ぎて多くなく。
基本的には井戸で生活するところが大半。
しかし、河川の類は存在している為、帝国式の街が幾つも川沿いに出来た。
リギナ地方の元首都に当たる【エンブラ】は当時開拓されていなかった小さな川沿いの街であったが、遊牧民であるリギナ人は草原こそが我が家という考えの名の下、冶金を行う鍛冶師の定住地や纏まった商売をする為の現場としてしか見ておらず。
帝国領になって初めて、まともな都市開発が行われた。
結果として四方3km近い街が広がる大規模な定住先となり、広さだけで言えば、帝国内でも有数の都市に次ぐ。
草原内の牧場周辺や幾つかある交易街の周囲には多数のリギナの人々は住まうようにもなっていた。
帝都から見れば、洗練されていない地方自治体程度の建物が大量に集まった貧民街くらいにしか思われていない。
が、帝国法の施行以降、拡大と再開発は合理的に行われ続けている。
『―――おぉ、本当に船が空を……吟遊詩人共め。遂に嘘を付けぬ相手を見付けたか』
次の一斉診療会場が設営されつつある街の郊外。
造成させていた川沿いの基地にリセル・フロスティーナで乗り付ければ、もはや唖然呆然のままにこちらを見る有力者の群れ。
帝国軍人ですら信じられないような顔になっているが、それは吟遊詩人共の力量不足というヤツであり、享楽よりも馬と草原を駆けるのが趣味な健全民たるリギナ人には刺激が強過ぎたようだ。
「ふぅ、思わぬ時間を食う事になりそうだが、全員気を引き締めてくれ。敵が見えないとか序の口だからな。いつも以上にリセル・フロスティーナの警備は徹底してくれ。それと外には基本的に戦闘が出来る人間と3人1組で離れないように出て欲しい。1組が出たら他の組は待機だ」
後ろのリージが過保護だなという顔をした気がした。
こうしてハッチを開いて外に出たのは自分とリージとウィシャスの3名。
そこで思わぬ顔に出くわした。
「ガイゼル様。ガロン様……お久しぶりですね」
「また、このように会う事になるとは……」
「空飛ぶ船か。これで西部が勝ったとは到底思えぬな」
2人の対照的な老人が共に片手で礼をして出迎えの挨拶に頭を下げる。
その背後にはエルネと呼ばれた女性ともう一人の少女が存在しており、さすがに空飛ぶ船を傍に見て呆気に取られた様子になっていた。
「リギナでのご活躍は耳にしていました。反帝国派の説得もご苦労様でした」
「いえ、我々は我らの民の為に動いたに過ぎませぬ。新たな情報は実に的を射ていた。そして、我らは自分の甘さを痛感した……誓って、リギナの地で再び紙幣が増刷される事ないと確約致します」
ガイゼルが頭を下げる。
「それを聞いて安心しました。では、当面の新しい問題に付いて、出来れば共同で事に当たって欲しいので……その一件に付いて落ち着ける場所でお話をさせて頂ければ……」
「新しい問題? 解りました。宿は取らせてあります。そちらに……」
帝国軍の部隊の一部から数名が出て来て、老人達にアゼルと呼ばれていた護衛が敬礼して待機させていた馬車の警護に付いた。
それに載って、老人達と秘書、それから共にいた少女と四頭立ての馬車に同行すると内部が重苦しい雰囲気に包まれる。
「それで帝国内で奇跡のような治癒を行っている事は聞き及んでいますが、どうして我々のような属国領にも? 噂では帝国貴族内でもそのような力を受けられない人間がいるとの話も出ていますが……」
ガイゼルの話は本当だ。
「健康だからですよ。見た目上健康でも病気の人間はいますが、まずは目に見えて死に掛けた怪我人や病人から救う事にしただけです。勿論、残された人々には今後、帝都で開発中の新薬……万能薬の劣化版を大量に卸すので、そちらで対応する事にしました」
「あの南部の特産品ですか……」
「ええ、ちなみに帝国民であるリギナ人にも等しく力を用いた治療は行われますし、それで差別する事もありません」
「ありがたい事です。最初は信じられなかったが……信じた恥知らずな老害も存外多かった……」
「ほう?」
「いや、それだけならばまだしも……彼らが一番反帝国を声高に叫んでいたというのに……」
「愚痴ですか?」
ガイゼルが面目無さそうな顔になる。
「一応、リストはお渡ししておきます。リギナでの偽札の印刷に関わった者達とその関わった詳細も載せた報告書ですが……」
ガイゼルが報告書らしいものが入った封筒をこちらに寄越す。
「よろしいのですか? 裏切りでは?」
「裏切られたのはこちらだと言う事です。反帝国を謳っていた殆どの老人達は自らの命という利害で今までの抵抗が嘘のようにあっさりとこちらの説得に応じた。彼らは帝国という敵に対する矢ですら無かった」
「信用は地に墜ちた、と」
頷きが返る。
「ええ、それは我々にしてみれば、かなり度し難い事なのですよ。表立って敵対する意味は無いから、何も言いはしませんでしたが、リギナの事など彼らはどうでも良かったという事になる」
「清廉でいらっしゃいますね。ですが、大抵の権力者というのはそういうものですよ。まぁ、罪は罪ですし、罰は罰です。許されても、それがどのような意味を持つのか。彼らが知る頃には全て遅いでしょうし」
「それはどういう?」
「殺しはしません。ですが、相応の責任は自らの手で取る事になるという事です。彼らが人間のクズならば、地獄に落ちるでしょうし、祖国を憂う勇士だったならば、自らの道は自らで開くでしょう」
「……聞かない方が良さそうですな」
「わたくしからもどうぞ」
リージが封筒を渡す。
「これは?」
「今後、囮作戦を行う際のリストです」
「囮作戦?」
「簡単に言えば、もう一度裏切られても困るのです。なので一度は許しましたが、検査は必須という事ですよ。具体的には第三国のフリをして各地の偽札を作っていた首謀者達に第三国への亡命を働きかけます」
「ッ」
さすがに周囲の顔色が変わる。
「その際には祖国の地が蹂躙されても貴方だけは生き残るという類の報告をします。彼らがもしも祖国の地を離れ、家族や親族を見捨てるならば、自らの罪によって投獄され、彼らがそれは出来ないと言うならば、推定無罪としましょう」
相手の顔は僅かに苦いものが混じっていた。
どうやら、それなりに裏切り者は多いらしい。
「ちょっとした悪戯ですよ。人間のクズかどうか見分けるだけのちょっとした、ね?」
顔色の悪い人々と横の呆れた瞳の人々に挟まれた自分はサンドイッチの具材染みて重苦しい空気に挟まれ続ける。
「……もしも、そこまでだったならば、リギナ側としても何一つとして惜しくはない。お好きにどうぞと言うべきでしょうな」
「それはありがたい。大丈夫ですよ。帝国の憲兵は最新式の武装を持ち込む予定です。相手の私兵が30倍差でなければ、大概皆殺しに出来ます」
「……出来れば、穏便に済ませて欲しいのですが」
「勿論。帝国軍情報部の下に置かれた最精鋭です。殺さなくて良い人間まで殺す必要は無い。リギナを捨てた人間を庇うのかと勧告しますし、今ならば殺しはしないとも言いますよ。それでも金や感情で動くなら、単なる軽犯罪法で処罰して、然るべき法廷で罪を裁かれ、個人個人で罪の重さに応じて懲役を受けるでしょう」
こちらの言葉にガイゼルとガロン以外のエルネと少女は意気消沈という程ではないが、哀し気な瞳で俯いてから、僅かな畏れとも付かない様子でこちらを見ていた。
「まぁ、これはわたくしの仕事ではなく。こちらのリージの仕事です。わたくしが対処せねばならない案件は別であり、お話もそちらの事なのですが……」
「一体、どのような?」
「詳しい事は付いてから。簡単に言うと第三国の見えざる工作員が捕まらないので捕まえる為の算段を立てました。これにご協力下さい」
「見えざる?」
「ええ、まぁ、恐らくはバルバロスや超人の類、力ある誰か。あるいは何か。これを放置していては帝国内の情報も筒抜けです。今後、対帝国で戦いに参戦する全ての国家を前にして後ろを気にせず戦えるようにしたいのです。でなければ、西部でのようにまたわたくしも負けてしまうでしょう」
なーにが負けた、だ……という瞳の横合いの人物達は顔色こそ変えないが、内心が読み取れるかのようだった。
*
エンブラの宿は属国領の行政省分館が置かれた行政区画横に置かれていた。
他国の国賓や時刻の重要人物を持て成す類の場所である。
迎賓館程の雅やかなものではないが、殆ど寝泊まりするならば、最上級だろう。
無論、帝国基準での防諜対策も施されている為、多くの部屋の内実を外から知る事は難しい。
現在、周囲には民間人の立ち入りが禁止されており、宿は貸し切りという形で歩いている者達も最低限だ。
「それでリギナの地でその何者かを罠に掛けたいと?」
「ええ、その為に現地の地理や人々の世俗に詳しい人間が必要なのです」
「……エルネ」
ガイゼルの言葉で老人の後ろに立っていた女性陣の片方。
キツメの美人であるエルネさんとやらが近付いて来る。
「この者は元々、六氏族の内の一つの長の娘でした」
頭が下げられる。
「また、リギナ内での顔も広く。物資の調達や人の手配という事ならば、重宝するかと。エルネ・ギオビ……今から姫殿下の元でしばらく働くように」
「承知致しました。ガイゼル様……」
その言葉が終わった時だった。
「あ、あの、ガイゼル様!! エルネ姉様をお手伝いしてもよろしいでしょうか?!」
さすがに少しガイゼルが少女を咎めようとしたが、片手で制止する。
「お名前は?」
「は、はい!! 姫殿下!! 私はミリネ・ギオビと申します!!」
「御姉妹ですか?」
「は、はい」
「では、その手を借り受けましょう。ガイゼル殿にはしばらく不便かもしれませんが、遠慮なくお二人をお借りします。勿論、ちゃんと無傷で返しますから、そうお顔を厳しいものにせず」
「いや、んむ。むぅ……ご容赦を……」
さすがにガイゼルも少し困ったようだが、こちらの事は一応信用してはいるのか。
最終的には頭を下げた。
「では、エルネさん。よろしくお願いします」
「はい。何なりとご用命を……」
ウィシャスはドアの外。
リージは現在、室内の少し遠い場所でガロン相手に今後の警備に付いて話している。
「さて、それでは最初にやるべき事を発表しましょうか」
僅かにゴクリと姉妹が汗を浮かべる。
「取り敢えず、不審者の取り押さえからですね」
「不審者?」
「ええ、どうやらリギナの地にも気骨のある強硬派がいるようですよ。外に2人、床下に4人。天井に8人も潜んでますね」
「な!?」
思わずガイゼルが顔を強張らせる。
「ウチのウィシャスが此処に来た時から頭を抱えて室内に入るのを渋っていた理由です。逃走経路の確保くらいはしておくから、後は好きにしてくれと投げられましたね」
「姫殿下!? わ、我々は決して姫殿下に対して反意は―――」
「言わずとも解っていますよ。ガイゼル様……どうやら、この場所そのものにそういう場所が設えられていたという方が深刻なのですが、リギナを思っての事でしょう。何も咎めるような事はありません」
「ッ……姫殿下。そのように解っていながら、どうして落ち着いていられるのですか?」
エルネがさすがにオカシイだろうと僅かに落ち着かない焦燥に駆られた様子で訊ねて来る。
「彼らが無害だからですよ。上の方々は弓矢。下の方々は槍。外の方々はどうやら攪乱と陽動役のようですが、もう既に無力化しました」
「な―――」
言っている傍から見えざる触手さんの一部を空間内で揺らがせ、周囲を侵食していた部位を僅かに成長させて太くし、天井の一部を抉じ開ける。
途端、隠し扉よろしく。
強襲用の隠し穴からボトボトと昏睡させた少女達が落ちて来た。
「きゃ?!」
思わずミリネが飛び下がる。
「失礼」
エルネの真下辺りに歩いて行き。
何も無い床の一部に指をめり込ませて抉じ開けると暗い通路らしいものが見え、槍を持ったまま眠っている少女達を触手で腕を槍と結んでおいて引き上げる。
全員が全員、騎馬民族らしい民族衣装を着込んでいたが、基本的に戦闘用らしく。
丈が短かったり、何かに引っ掛からないように工夫されているようだった。
しかも、使い古した様子もなく一張羅染みてかなり綺麗であり、埃を落とせば、まったく伝統工芸品みたいに見えるかもしれない。
「こ、こんな事が!? 一体、どういう事なんだ!? この宿の手配はともかく。誰が泊まるのかも言っていなかったはず……そこに艶夜の子女だと?!」
「この子達はエンヤというのですか?」
「え、ええ、この服はリギナ氏族の一つに女系のものがいるのです。夜襲の巧い分家の者達が。奇襲では大の男も敵わず。それこそ、敵を色香で惑わして喰らい尽すような蜘蛛の如き気性の……」
少女達は誰も彼も未だ10代前半に見えたが、それもそのはず。
小さな通路は正しく少女でなければ、通れないような大きさだった。
「恐らくですが、この館を立てた時から、その方達が大工や設計者の類を篭絡していたのでは? もしもとなれば使う為の暗殺用の仕込みでしょうか」
「何と言う事だ。姫殿下……これはリギナの総意ではなく」
「先程も言いましたが、解っています。一部の者が暴走したのでしょう。別に構いはしませんよ。政治家、指導者の役割はいつでも人々に石を投げられる事も入っています。石を投げられたからと後ろに下がっていては何一つ解決しませんしね」
「ご配慮、感謝します」
ガイゼルの顔は土気色である。
普通ならば、これだけで内戦案件である。
すぐ傍まで来て、リージとガロンが剣に手を掛けて、周囲で気を張ってくれているが、2人の顔も少女を暗殺者に仕立て上げる類の話には微妙に顔が顰められていた。
「さて、外の子はウィシャスが確保しに行きました。少し検分しましょうか」
「け、検分?」
「ええ、彼女達が何処の誰でどのように教育され、どのように生かされ、どのように言われて此処に来たのか。それをとりあえず調べるだけです」
少女の1人の頭に手を置いて、体に直で侵食を開始する。
「……毒は無し。健康状態は良好。胃の内容物が少し寂しいですね。これから死に行くにしては簡素な食事……でも、体自体に傷も無いし、無茶な修練を課されていた様子もない。案外、人道的なようですね。そのエンヤとか言う人達は……」
「お解りになるのですか?」
「近頃はバルバロスと戦い。力が増えたもので、それくらいなら……」
ガイゼルの顔はコレが例の能力の一端かという畏れとも困惑とも付かない感情を覗かせていた。
「良かった。わたくしも少女達の両親や親族を皆殺しにせずとも良いようです」
「その……どういう?」
言葉の意図が分からなかったのだろう。
普通は国内の指導者層の暗殺に対する罰なんて一族郎党皆殺しである。
「簡単な事ですよ。顔に別の誰かの涙、そんな味がする少女達です。幸せな人生を過ごして来たのでしょう。それは喜ばしい事ですし、その親にも何一つ言う事は無い。合格であるという事です」
「ご、合格?」
「人の親としては失格ですが、人間としては合格。そして、わたくしの命一つ狙うのに間違いなく最高の戦力を送って来たという合理的な判断も合格。唯一残念なのは旧い価値観や新しい時代に適応出来ないところくらいですね。それはわたくしの仕事でどうにでもなります」
そう言った時、ウィシャスが扉を蹴り開け、寝ている少女達を2人両手で子猫みたいにぶら下げて来て、ソファーに寝かす。
「人の仕事を取らないで欲しいな。出来れば……」
「手間を省いたの間違いでは?」
「……はぁ、またおかしなのは来ないか見張ってるよ」
「お願いします」
リージがご苦労さんという顔で同僚の溜息に同情した様子になった。
「どうしますか?」
「取り敢えず、出来過ぎですから、見えざる者の干渉があったかどうかを確認する為にもエンヤという氏族の一派を潰しに行きましょう」
ガイゼルとガロンの顔色がまた悪くなる。
「姫殿下……その、申し上げ難いのですが、エンヤの一族の数はかなりのものであり、少なからず血筋の者だけで70万は下らないかと」
「この子達の母親か育ての親か教育者に会いに行くだけですよ。立ちふさがるのならば、言葉で。言葉で道を開けねば武力で。そう硬い顔をしないで下さい。これでも昔より大分強くなりました。彼らを殺さずに無力化する程度なら造作もありません」
その言葉にはもはや現実感が無かったらしい。
リギナ側の人員の誰一人としてピンと来た様子はなく。
しかし、不安そうな蒼褪め始めた顔は何かの予感を感じ取っているようだった。
「この子達は布団に寝かせておいて下さい。明日までは起きません。首謀者もしくは首謀者を知ってそうな人物のいる場所まで案内を」
ガイゼル以下全員が頭を下げる。
「もしも遠い場所にいるのならば、リセル・フロスティーナで向かいます。ああ、この子達の事は内密に……後、この館の所有者達にはこの事は黙っておいてやるから、お前らも黙ってこの少女達に料理でも作って持て成していろ、と」
「は、はい……」
こうして顔色の悪い一行を引き連れて、波乱ばっかりな国内掃除の旅の本番が始まったのだった。




