【8】
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「う、ぅう……」
魔王リゼラは喉の奥から搾りだしたような呻き声と共に目覚めた。
痛い。全身が満遍なく痛い。寝違えて首を捻った時の、あの痛みがつむじから爪先までを締め付けるようだ。
手足が思うように動かず、倒れた体を起こしたのに視線が上がらない。動いている感覚はあるのに、這いつくばった態勢が変わらない。
どうなってしまったのだ。あの時、勇者の横顔を見ながら弱体化した瞬間に殺してやろうと魔力を収束させていた、あの時。急に腕が伸びて自分の顔を掴まれた。ガッシリと、顔を逸らす暇もなく掴まれた。
そこからは、そう。あまり憶えていない。全身から力が抜けていった瞬間に気を失った。痛みとかなく、一瞬で。
今のこの痛みは倒れたときに体を打ち付けたものだろうか。手足が上手く動かない。視界や呼吸は嫌にハッキリしているが、それが逆に不気味でならなかった。
「ぐ、ぅ……」
彼女はどうにか這い上がる。妙に体は軽く、すいっと浮き上がった。
何だ、何がどうなった。この体も、今の状態も、いったい何が起こったというのだ。
周囲には粉塵の白煙が舞っている。闇夜の暗さもあって、何も見えない。空から差し込む月光の光だけが薄ぼんやりと煙の中に浮かんでいた。視界全てが真っ白に真っ黒で。それは奇妙な、モノクロの世界のようにさえ。
「そ、側近……、我が側近よ! 無事か、返事をしろ!!」
藻掻き、瓦礫を退けていく。自身の周囲にある岩山はどれもこれも大きく、とても動かせるようなものではなかった。まるで巨大な壁に囲まれてしまったかのようだ。
だが、それでも彼女は諦めない。必死にそれ等を乗り越え、側近と秘宝があったはずの場所へ向かって行く。あれ程の衝撃だ。勇者どうこう以前に、まず奴の無事を確かめなければ戦闘にも専念できない。だからどうか、無事でいろ。あんな巫山戯た願望の為に御主が死ぬことはーーー……。
「……そ、側近!」
側近はそこにいた。空っぽの壺を押し倒すように、俯せになって。
意識がないのか、指先一つ動かす様子はない。だが幸いにも外傷はないようで衣服も何処かが切れたとか破れたとかはないようだ。股座が湿ってるのは見なかったことにしておこう。
「おい、起きろ! 御主、こんなところで……」
ふと、気付く。
「ん?」
側近を揺さ振る自分の手が、小さい。
いや元から小さく細く、陶磁器や大理石の彫刻のようだとまで言われる指先だったが、やけに小さすぎる。
心なしか腕も、細過ぎるような。と言うかそもそも袖がない。奇妙な布に覆い被さっているだけだ。
わきわきと指を動かせば感触はあるのに布が取れない。足をばたつかせても埃が立たないし、覆い被さった布も脱げない。頬を触れば滑らかなはずの肌は、それこそスライムのようにぷにぷにしていた。
まるで、そう。赤子のように。
「ぐ、ぅ……、ま、魔王様……?」
さりさりと布の擦れる音を聞いた側近は、どうにか意識を取り戻したらしい。
痛む体を起こし、股座の嫌な感触にやってしまったと顔を青ざめさせながらも、周囲を見渡して現状を把握していく。
真っ白だ。舞い上がった煙ばかりで何も見えない。いや、手元の壺とーーー……、瓦礫? 違う、何だ、何かが動いている。自分の腰元まではありそうな瓦礫と同じぐらいの大きさの、何かが。
「…………?」
ふぅっ。夜天から吹き込んだ風が白煙を散らした。
瓦礫の隙間を流れ、壁を擦りながら闇夜の中へ。残るのはただ無残に破壊された装飾の残骸と幾つかの大きめな瓦礫、そして破れ避けた絨毯。
―――――の、上にちょこんと這いつくばった、一人の少女。
「…………」
「…………」
無言、そして。
「「はぁあああああああああああああああああああああああああああッッッ?!!?!?」」
この日一番大きな絶叫を喚き散らした。
「え、こど、え!? 子供!? こ、こんな小さな、え、こど、ま、まお、魔王様ぁああ!?」
「何だ何だ何だこれは!! 妾の美貌は何処にいった!! 胸は、尻は、太股は、角は!! あ、角はある。……いやいや!! 魅惑の美貌がこれではただの幼子ではないか!?」
そう、魔王リゼラの姿は先の妙齢とは打って変わって、まるで子供のような、いいや子供そのものになっていた。年齢で言えば十に満ちるか満ちないか。豊満な胸はぷっくりと桃色浮き出た断崖絶壁に、魅惑の尾尻は片手で掴みきれる小振りに、男の視線を引き付けてやまない太股は赤みを帯びた肌つやに。
何処からどう見ても子供である。元の姿とはかけ離れた、ただの幼子である。
唯一残った立派な双角だけが救いだが、こんな姿では余りに歪なだけでしかない。
「な、何が起こった! え、若返り!? 若返り的なアレか!? それとも転生的なアレか!?」
「若返りとか転生とか言ってる場合じゃないですよ! 明らかに勇者の仕業です!! 奴め、封印される瞬間に魔王様に何かしたんですよ! 間違いありません!!」
「ぐ……、お、おのれ! 何処までも小賢しい女神の狗めッ!!」
「い、いえ! ですが今は好機! 魔王様の姿こそ変わってしまいましたが、しかしそれは勇者の封印が成功した証でもあります!! 奴が何かしたのなら、今の内に始末してしまえば!!」
「そ、それもそうだな! よし、そうと決まればっ……!!」
粉塵が晴れ、瓦礫の狭間。
そこには一人の男が立っていた。何かを確かめるように自身の掌を握り締めている男が。
憎き奴めも目立った外傷はないようだが、あの封印をまともに受けて無事なはずがない、と。魔王リゼラは魔力のない側近を庇うようにして前に立ち、両腕を交差させた。
意趣返しとしてやろう。御主が嘲るように打ち払ったあの一撃で、終焉の焔剣で、その身を今度こそ地獄に叩き落としてやる。
泣き喚き叫ぶ暇も与えない、一瞬。たった一瞬で全てを決めてやる。
「…………」
勇者フォールもまた、異変に気付いたのだろう。踵を返すと共に鞘から剣を引き抜き、抜刀の形で一閃を振り抜こうとした、が。
一瞬ーーー……、遅い。
「ノロマめッ! 死ねえええええいッ!!」
ぷすんっ。
「…………え」
自身の手から漂う白色の煙。それに視線を向ける間もなく、彼女の頬端を斬撃が横切った。
後方の、魔王城から見える山が砕き割れ、土砂崩れと共に崩壊していく音が聞こえる。
気抜けた側近の吐息と、滴る水音も聞こえる。自分の中の大切な何かが壊れていく音が聞こえる。
男の、感心するように零した声が聞こえる。
「……ふむ、大分弱体化はしたようだな」
勇者は確認するように幾度も剣を振り、その度に残り僅かな壁面を斬撃で崩壊させていった。周囲の山を斬り裂いていった。
最早、魔王リゼラと側近は唖然とするしかない。これは夢だ、これは幻だ、と呆けながら零すしかない。側近に到っては自身の股座へ水溜まりができていることにさえ気付いない。
彼女達は弱体化などとほざきながら環境破壊まっしぐらなチート野郎を前に、ただ。全力で撃ち放ったはずが何故か白い煙が出ただけの魔法を前に、ただ。
その現実を否定することしか、できないのであった。