【エピローグ】
【エピローグ】
「……ふぅ」
燦々と降り注ぐ雨露に濡れながら、ガルスは小さくため息をついた。
僅かに混じった煤が頬を流れて首筋に流れていく。妙にどろりとした感触がまるで鮮血のようで、少し気持ち悪かった。
そんな感触のせいか、夜も遅くなって冷えるけれど、どうにも何かを羽織る気にはなれない。いや、或いはこの夜風を感じていたいのかも知れない。魔道駆輪の側から伝い感じる、この風を。
「どうした、ガッちゃん。寒いのか」
「いえ、別に……」
山岳地帯を下る魔道駆輪。そこから見えるのはつい数時間ほど前まで激戦が繰り広げられていた樹木地帯だった。
樹木地帯に群生するハイエリアの樹からは狼煙のような白煙が上がっており、それ等は雲海への露雫となり、さらには雲となって今、この小雨を降らせている。フォールが火打ち石により放火した灰燼が露で消し滲み、蒸気となった結果だった。
その雨がさらにハイエリアの樹全体を鎮火しているのだから、ここまで狙ってやったのだとすれば、何と計算高いことだろう。
もっとも、この無表情極まる横顔を見ていると、そんな事さえ猜疑の果てへ消えていくのだけれど。
「上着使うか? いや、濡れているな。後ろで寝ている馬鹿共から何か剥ごうか? それとも魔道駆輪を止めて火を起こそうか?」
「落ち着いてくださいフォっち。あと濡れてるのは彼女達の上着もですので……」
「……それもそうだったな。身包み剥いで屋根で干すか」
「彼女達をもっと労ってあげてください本当に」
ガルスの呆れ声へ頷くように、魔道駆輪が小石に乗り上げてがたんと揺れた。
彼は先程のため息を追うように、大きなため息を零す。
「……フォっち、いえ、フォールさん。一つ聞いて良いですか?」
「何だ?」
「どうしてラグラバードを殺さなかったのです?」
あの激戦ーーー……、いや、一方的な戦いの中で、フォールはラグラバードを殺すどころか、痛めつけることさえしなかった。
軽く何度か体毛をそり上げ、肉を弾いただけで、目を潰したわけでも足を斬り裂いたわけでも羽を剥いだわけでもなく、ただそれだけで撤退したのである。
そしてそれから直ぐさまガルスと、気絶した馬鹿二名を回収し、魔道駆輪で樹木地帯から撤退した、というわけだ。
「……どうして、と言われてもな。彼等の領域に踏み込んだのは俺達だ。殺す理由はあるまい」
「……そうですね。いえ、良かったと思って。貴方が雛たちや、親鳥を殺すような人じゃなくて」
「リゼラやシャルナはまるで俺を快楽殺人者か熟練暗殺者のように言うがな、別に俺はそういうのじゃないぞ」
「……えっ、あ、はい」
「…………」
ハイエリアの樹に着火して対象を追い込むという手際な辺り、異様に鋭くまるで幾度も修羅場を超えてきたかのような目付きな辺り、熟練暗殺者は否定できないんじゃないかな、とガルス。
まぁ、声に出さなかっただけファンシー部屋でうなされている馬鹿二名よりマシだろう。
「と、ともあれ、今回の一件は本当にお世話になりました! 資料も取り戻せたし、鞄も!! どうしてだかオマケも着いてきてますけど……、まさか、本当に取り戻せるなんて思ってませんでしたから……」
「……ガッちゃんの助けになれたなら何よりだ」
「いえいえ、もう本当に、何とお礼を言ったら良いか……。今もこうして次の街まで魔道駆輪で送って貰ってますし、お世話になりっぱなしで……」
「何、我々の仲だろう? ……それでだな、ガッちゃん、その、何だ。急かすわけではないのだが、その、スライムの資料をだな」
気恥ずかしそうに、真顔のまま言葉を詰まらせるフォール。
もしリゼラかシャルナが目覚めていたなら、寒さ以上に顔を青ざめさせたことだろう。
しかしそこはガッちゃんフォっちと呼び合う仲のガルス。彼はにこやかに鞄の蓋を弾いて、資料を取り出した。
「えぇ、約束でしたからね。どうぞどうぞ、お礼代わりになるのなら幾らでも! これがスライム資料になりま」
「どれだ!?」
グッバイハンドル。フォーエバースライム。
「ちょっとフォールさんハンドルハンドル手離さないでハンドルぅうううーーーーーーーーーーーっっっ!!」
「ん? あぁ、すまんすまん」
「片手で運転しないでください余所見運転ダメ絶対!!」
「成る程、両手なら良いのか。ガッちゃん、運転頼んだ」
「どれだけ読みたいんですか資料!? 僕運転出来ませんよ!!」
「大丈夫大丈夫ハンドルとアクセルを南国の踏み込んで生息するスライムが食べる海藻類によって粘液がなるほどなるほど。うわ、無修正断面図まで? いいのか、これは。うわ、うわぁ~……」
「教えるならちゃんと教えてくださいよぉおおおおおおおおおおおおお!!!」
やがて魔道駆輪が停車したのは、雨のスリップで高速回転してから山岳地帯を駆け下りて崖からハイジャンプして岩々の上を跳ね飛んで河川に突っ込んでリゼラを落としてフォールが拾ってきりもみ廻転から七回転半ジャンプでフィニッシュしてからだった。
ちなみにその最中もフォールが一度として資料から目を離さなかったのは言うまでもなく、停車した魔道駆輪のハンドルにもたれ掛かるガルスが死にかけながらこう呟いたのは言うまでもない。
「歩いて行きます……」
当然である。
「何だ、街まで行かないのか?」
「死にたくない……」
当然である(2回目)。
「そうか……。是非とも今晩はスライム談義で飲み明かそうと思ったのだがな、残念だ。だが、良い旅路だったぞガッちゃん。次会う機会があるならば、その時こそスライム談義で飲み明かそう。例えその時がいつであろうとも、楽しみにしているぞ」
「ふぉ、フォっち……」
フォールが引き出しから取り出した酒瓶は雨露に濡れ、月光に照り輝いていた。
ガルスは静かにその酒瓶を受け取って、微笑みを見せる。
――――例え一日だけの関係だったとしても、彼等には友情があった。困難を共に乗り越えた覚悟があった。
友情は時間に育まれるものじゃない、心に育まれるものなのだ。いつだって、濃密な時間を過ごせば誰だって友達になれる。
そして、その時間と心は、決してなくならない。時間なんかで朽ち果てるものじゃない。またいつか会えるなら、その時は、今日挙げられなかった祝杯を挙げるとしようじゃないか、とーーー……。
「飲酒運転ダメ絶対」
当然である(3回目)。
「けれど、まぁ」
彼はフォールの指先から酒瓶を受け取り、鞄へと押し込めた。
苦笑と、安堵と、喜びの代わりに。
「またいつか、貴方達とは会えると思います。そんな気がしますから」
「では、その時に、また」
「えぇ、その時にーーー……」
フォールとガルス。二人は雨粒を説かすように、しっかりと手と手を握り合った。
再会を誓い、友情を確かめ、またその時を待つ為にーーー……。
別れではなく、歩みとするために。
「でもスライム資料は返してくださいね」
「や、やだ……」
「駄目です」
当然で以下略。




