【5】
【5】
漆黒の空と暗沌の城内に響き渡る、絹を裂くような悲鳴。
後も先も闇に覆われた廊下でそれを耳にした女は飛び上がり、おっかなびっくり前後を見回した。
「そ、側近がやられたか……」
そこにいたのは盟友から走馬燈を受け取れなかった、もとい断末魔を受け取った魔王リゼラ。
彼女は持ち前の魔法を駆使しして自身にブーストを掛けつつ、どうにか二階の廊下辺りまで降りてきていた。あの勇者名乗る男がどれ程の速度かは解らないが、これだけ離しておけばしばらくは追いつかれないだろう。
いや、側近のところに行ったことを考えれば逃げ切れたと言ってもいい。厨房からここまで普通に走っても数十分は掛かるし、あの男がとんでもない全速で走ったって、この薄暗く入り組んだ魔王城をすいすい進んでこれるわけはない。迷って罠にでも掛かればさらに確実。間違いなく、逃げ切れたのだ。
「……側近、御主のことは忘れぬぞ。ここは妾がしっかり逃げ切って力を付け、あの憎き男めを倒してやるかな。明日、いや明後日、いいや来月、いやいや再来年辺りに」
段々と遠退いていく覚悟。明日っていつの明日よ。
ともあれ、彼女は完全に逃げ切った。そうなれば後は魔力を蓄え、装備を調え、覚悟を取り戻すだけだ。何処か、あの男の目に付かない何処かで復讐の機会を待つだけだ。
やってやる、やってやるとも。逃げ切った今なら言える。あの男を倒すのは自分だーーー……、と。
そう、言えると、思っていた。
「ん?」
ゴウン、ゴウン、ゴウン。
何だろうか。天井辺りから響いてくる地鳴りのような音。いや天井から地鳴りというのはおかしいが。
いやいや、おかしくない。天井だけじゃなく、魔王城そのものが激震している。揺れ動いている。
「うぉ、っと……!?」
その衝撃に思わず彼女は蹌踉めいた。
――――蹌踉めいた? 待て、おかしくないか。確かに揺れているしとんでもない音はしているが、そこまでじゃない。これならまだ側近と大喧嘩して魔王城を爆散させた時の方が揺れたぐらいだ。
だと言うのに、立っていられない。頭が奇妙な浮遊感に襲われる。二日酔いや夢心地のように、ふわふわと。
「……お、おかしい」
そうだ、おかしいのだ。
音は天井から、いや、本当に天井か? と言うか、何だ。妙に規則的に聞こえる気がする。
震動だって音に合わせてだし、浮遊感だって。いったい、何が起こっているというのか。
「な、何が起こって……! 何が起こっているというのだぁっ!!」
彼女が知る由はない。知ったとしても、理解する由はない。
どうして勇者はまず側近を追ったのか、それは始まりの場所に側近がいたから。どうして勇者は平然と歩いていたのか、それは彼自身が移動する必要などなかったから。そもそも彼は何をやっているのかーーー……。
それはとても単純なこと。魔王の間がある頂上から、彼女のいる場所まで垂直的に斬り抜けているだけのこと。
「はぅ?」
ゴウン。その音は、魔王城全体が一撃ごとに浮き上がるほどの衝撃を受けている音だった。
そして、それが彼女の鼓膜を破るほどの轟音になった時、魔王リゼラの視界に空が映る。
いや、具体的には魔王城の天辺部分と、側近を小脇に抱えた勇者の姿が、だがーーー……。少なくとも、その光景と、遙か彼方へ吹っ飛んでいく魔王城の一部を理解するだけの余裕は最早、彼女に残されていなかった。
「……まだ逃げるか? 魔王」
紅色の月光照らす男の姿は、背格好と同じく平凡なものだった。
然れど目付きだけが異様に鋭い、いや、据わっている、のか。まるでこの世の地獄を見てきたと言わんばかりに、その双眸は尖っていた。刃のようでさえあった。
「……ぉ」
伏せられていた瞼が、開く。覗いたのは真紅の瞳だった。
ルビー石のような、鮮血のような。何もかも爆ぜ飛んでしまい、月光のみが照らすこの場所で、その紅色だけが煌々と輝いている。
いや、輝いているように見える。それほど美しく、透き通り、何処までも深い紅色だった。
だった、が。魔王がそれを眺めることはない。
「お、ぬし、は……」
彼女は眼を見開いて固まっていた。額や首筋から流れた、滝のような汗が全身を這いずっていく。たわわな胸元へ消えていく。
夜天の端々では翼竜達が飛ぶことを忘れてしまったかのように墜落し、悲鳴を上げることもなく奈落へ消えていく。そんな彼等を見送る雲でさえも雷を轟かせながら、散り果てて、空に浮かぶ月がひび割れ、砕け散ったような気さえした。世界全てが震え喚いたようにさえ思えた。
「御主は……!」
この男に、これといった特徴はない。髪色は灰色が掛かった黒で、そこに立派な角はなければ耳があるわけでもない。歴戦の兵士のように傷痕があるわけでも、何か紋章を刻んでいるわけでもない。ただ、普通だ。違和感ない村人Aだ。
しかし、だからこそ恐ろしい。この男はいったい何者なのだ。平凡が、全てをさらけ出す平らではなく、全てを覆い隠す闇に思える。その真紅の闇が深淵より覗く偉業の牙に思える
この男は、いったいーーー……。
「御主はぁアアアアアアアアアアアーーーッッ!!」
何者、なのか。
「おぉおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオッッ!!」
魔力を収束し、雷撃と炎撃が掌で融合する。
弾け合う衝撃は火花さえも業火となり、魔王城の窓硝子を弾き飛ばした。
魔王自身でさえ驚くほどの一撃。恐怖が彼女の限界を超えさせたのだ。この一撃は終焉の焔剣さえ超えた一撃になる。そう、直感的に理解できる。
窮地で覚醒するのは弱者なぞの特権と思っていたが、いや、この状況、自身でさえもまた一歩先へ進むことができたのだ。
「……心地良いものだ」
だが、そんな一撃を前に勇者が零したのは笑みだった。
嘲ける笑みではない。恐れる笑みではない。それは、慈しみの笑み。
「こ、この……!」
勇者は側近を瓦礫の中に投げ捨てた。
そして、構える。剣をではない。拳をでもない。受け入れるように、両手を拡げて構える。
その姿はまるで、赤子を受け入れる聖人のような。
「触れることができる、幸福というのは」
彼は、落ちるように瓦礫から飛び降りた。
魔王に向かって、高距数百近い、形を持つものならば確実に砕け散る距離。否、それどころか液状化してもおかしくはない、距離。
さらに空中では身動きが取れず、魔王の一撃の、格好の的になるだろう。
敢えて彼はそれを望んだ。楽しげな笑みを浮かべながら、彼女の一撃を真正面から受けることを。
「……そうは思わないか? 魔王」
「狂人めがぁあああああああーーーーーーーーッッッ!!!」
絶叫、微笑。交差して。
―――――無傷の勇者が、階下へと舞い降りた。
「……ぁ」
その身に焔纏い、然れど表情一つ崩すこと無く。
彼は再び、眼下に魔王を刺し殺す。その表情に最早微笑みはなかった。
けれど何処か、核心的なものがあり。
「さぁ、話をしよう」
大切な話だーーー……、と。
その一言を聞いた時にはもう、魔王にあった抵抗の意志は根本から折り砕かれていた。