【9】
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メタルは死を覚悟していた。
幾多の戦場を越えてきた中で、これ程の戦慄を感じたことは他にない。
恐怖、しているのか。この俺が。最強の傭兵と、戦場の死神と恐れられた、この俺が。
恐れーーー……、怯えているのか。
「紙が、ない」
詰んだ。
「いやいやおかしいだろ。そんな事があって良いはずねぇだろ。待て待て待て待て……」
そうだ、思い出せ。パニックになっていたとは言え、この俺がそんな事を失念するはずがねぇ。
と言うか幾ら何でも控え一つないってのはおかしいじゃないか。と言うかこのトイレ、何だか質素過ぎやしないか? 紙がないのは勿論、扉とかにも装飾だとか彩りがない。違う、そうじゃない。剥がされているのだ。扉淵の飾りだとかが、べろんと。
「……あ?」
それだけじゃない。手荒い用の砂、火山地帯では灰砂で手を洗浄すると聞いたことがある、もない。
と言うよりはそれを入れていたであろう桶がない。灰砂はそこら辺に散らばってるのに、入れものだったであろう桶だけがない。
この便器も妙に張り付くと思ったら、容器を覆う外皮がないときたものだ。
「おいおい、紙がねぇどころの話じゃないぞ、これ……。オークや盗賊どもでもここまで取らねぇよ。いや、大飢饉が起きたってここまで徹底し……、て?」
飢饉。
「……待てよ、そうか。そうじゃねぇか」
当然だった。あんな事が起こったのだから、こうなるのは当然ではないか。
何が頑固者だ、何が伝統だ。それがあるから奴等はこんな事をやっているのだ。
生き残るためにこそ、この手段を執ったのだ。
「そういう事かよ……」
頬端を、指先で掻きながら。
「間違いねェ。ドワーフ共は」
そんな、メタルの言葉を肯定するように扉の向こう側から怒声が響き渡ってきた。そして数度の発砲音も、だ。
ドカドカと砲弾でも落としてるのかと思うような足音が幾つも響き、闇の静寂に覆われていたはずの家が一瞬にして騒音の吹きだまりと化した。
そして、その吹きだまりから噴出した突風は、トイレの扉さえも打ち破って。
「……よぉ、ドワーフ」
剣と槍が、メタルの眉間に向けられる。
然れど彼は冷や汗一つ見せず、にぃと口端を裂いてみせた。圧倒的優位であるはずの屈強なドワーフ達が思わずたじろいでしまう程の殺気を纏って。
「テメェ等ーーー……」
獣の様な牙が紡ぐ、一言。
それに連れてドワーフ達の顔色はみるみる変わっていき、やがては武器を降ろして口々に狼狽を語り合うまでになった。
彼等の様子に、頬を伝う汗に、メタルは確信する。
間違いない、だからコイツ等はこんな下らないことをやっているんだ、と。
だからこそ、彼はその言葉を繰り出した。
「どうだい、寸胴ども」
牙を、歪ませ。眼を半円に描き。
狂気の悦楽を、刻み込みながら。
「テメェ等の魂を、俺に預けてみる気はねェかい?」
悪魔の誘いが如き、一言を。
「あと紙ください」
序でに懇願も。
下半身半裸で格好を付けている辺り、一々決まらない男である。




