【エピローグ】
【エピローグ】
ぱちり、ぱちり。焚き火の中で枯木が砕ける聞き慣れた音だ。
しかし音に混じって、毛布にくるまったまま雑魚寝する魔王や獣、変態の寝イビキが聞こえて来る。がぁがぁごうごうむにゃむにゃと、全く夜の風情などあったものではない。酒が入ったせいもあって下着が見えることもお構いなしに大股拡げて眠る魔王のせいで尚更だ。
草木を揺らす肌寒い風も、こんな連中は避けて通って行くことだろう。
「…………」
けれど、フォールはそんな焚き火の前でただ静かに揺れる焔を見つめていた。
いつも通りの無表情で、喜びも怒りも哀しみも楽しみもないような、彩り一つない表情で。けれど何よりも彼らしい、表情で。
「隣、いいか?」
そんな彼の隣、同じ枯れ木にシャルナはすとんと腰掛けた。
彼女の体には龍紋衣ではなく毛布が掛かっていて、そんな様子を見てだろう、フォールは何も言わずに焚き火の鍋から珈琲を一杯彼女へと注いで渡す。
砂糖一つとミルクを少し。いつも通りだ。
「ん、すまないな……。うむ、美味しい」
「そうか、それは結構だ。……で、何か話があるから起きていたのだろう。用件は何だ?」
「いや、まぁその通りなのだが……、貴殿はもう少し、何と言うか、風情というか……。いや期待するだけ無駄だったかな……」
苦笑混じりに掌で珈琲の杯を転がしつつ、彼女は星空が映るほど澄んだ水面へ視線を落とす。
――――ほろ苦いようで、けれど甘い。この旅路で幾度も飲んできた彼の珈琲だ。
彼が砂糖の数とミルクの量を聞かなくなったのは、いつ頃からだっただろうか。初めは珈琲さえ滅多に飲まなかった自分がこうして自分の味好みを見つけて飲むようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
思い出すも遠いーーー……、刻のことだ。
「……貴殿の体は、どうなっている?」
「やはりその話か」
フォールは呆れるように珈琲を自身の杯にも注ぎ、鍋を焚き火へと戻す。
その際にふと、彼の袖口から泥の欠片が零れ落ちた。いいや、彼自身の欠片が、だ。
「……七割、程度だな。激しく動けば体の泥が砕け落ちる」
「やはり……、もうその状態まで……」
「日常生活程度ならば不便はないだろうが、うむ、戦闘はもうできないと考えた方が良い。元より今の実力は並の冒険者以下だ。辺りを一人で歩いていれば瞬く間に魔物の餌食だろうよ」
「…………戦わなくても、その体は保つのか?」
「どうだろうな。だが、今の進行状況からして恐らく保って数ヶ月と言ったところじゃないか? 弱体化の封印は大きな浸蝕の後に徐々の浸蝕を起こす。その点から考えても、俺が土塊になるのが早いか、それともーーー……」
ほとり、と黒い水面に一際の波が立つ。
フォールはその波を起こした雫に気付くと、何処か呆れたような、けれど不思議そうに眉根を顰めて問い掛けた。
「何故泣く? 解っていたことだろう」
「……あぁ、いや、うん。解っている。解っているさ。貴殿は教えてくれたことだ」
「何も……、そう悲観することでもあるまい。あくまで数ヶ月という期間は俺の推測だ。明日の決戦までには有り余るほど間に合うし、森を抜けるまで獣に出会わず最短の距離を駆け抜ければ数時間あれば充分だろう。少し獣道を進むことになるだろうが、既にルートも確立してある。問題はない」
「そういう、事じゃないんだ。そういう事じゃないんだよ、フォール……」
ほとり、ほとり、と。
「解っていても、知っていても……。例え未来を予知できたって、どんなに解りきった事だったとしても、それとこれとは別なんだ」
雨雲が来ているのなら、誰かが雨という。風が肌寒いのなら、誰かが冬という。稲穂が実ったのなら、誰かが収穫という。それは解りきっていることだ。それらは全て、解りきっていることだ。誰も彼もが解っていて、その死を受け入れ、その生に祝福を送る。そういうものだ。
けれど、これは違う。皺枯れた手を掴んで死を悟る者はいよう。ひび割れた硝子を見て滅びを知る者もいよう。腐り落ちた欠片を見て終わりを語るものさえ、いよう。
しかしそれを悟っていても、知っていても、語っていても、誰一人として理解はしていない。その存在を真に理解できる者など、一人も、いないのだ。
「貴殿は言ったな。旅の終わりは始まりだ、と……。いつか、また新しい日々へ歩き出すことができるのだから、うん、その言葉は正しいと思う。けれど、フォール……。貴殿の終わりは誰にとっての始まりでもないのだ……。私にとっても、リゼラ様やロー、ルヴィリアにとっても、誰にとっても……」
フォールは答えない。ただ、静かに、珈琲の苦みで唇を濡らす。
「貴殿は! ……いつもの事だから、解っているのかも知れない。私だって理解している。この旅の終わりが貴殿の終わりであることを、解っている。やがてではなく、これより訪れるモノだと、解っている。……けれど、その真実を理解することはできないんだ。いつでも、いつからも、いつまでも」
何故か、シャルナは瞳から零れ落ちるそれを止められずにいた。
頭では解っているはずなのに、感情は静かなはずなのに、表情はいつも通りのはずなのに、何故か。
「……『星空の街』で貴殿の告白を聞いた時から、必ずこういう時が来ることは解っていた。それが遠くないことも、今すぐなのかも知れないということも。だから、私は貴殿と話をしておきたかった」
涙を拭い、張れた目元を袖で擦りながら、それでもなお流れる涙に構うことなく彼女は視線を前に挙げる。
そこにはもう、女々しく優柔不断な怯えなどなかった。ただ、彼女にとって真っ直ぐな、この旅で培った決意の姿だけがあった。『最強』という称号に捕らわれた彼女ではなく、試練に怯える彼女でもなく、ただ、シャルナ・セイリュウという一人の女の意志があった。
「我が儘だとは解っている……。解った上で、私は……、泣き言を言いに来たわけじゃない。貴殿に慰めて欲しくてここに座ったわけじゃない。愚痴を言うつもりも、引き留めるつもりもない。助けて欲しくて、珈琲を淹れて貰ったんじゃない……」
「……ならば、何とする」
「貴殿に、聞きたかったんだ。貴殿は明日の朝、森を抜けて『始まりの街』の前にある草原へ進むだろう。そして、そこで貴殿の求めるものと出会うだろう。……だが、それは同時に貴殿にとって最後の戦いになるんじゃないか。如何にそれが弱くても、魔物は魔物だ。モンスターなんだ。今の貴殿の実力と状態では、きっと」
そこから先を、敢えてシャルナは言おうとはしなかった。
フォールの全てを悟った双眸が、そうさせたのだ。
「……貴殿は、その結末を恐れないのか? 恐ろしいとは、思わないのか」
彼女の問いに双眸は瞼を伏せ、物言うことなく空になった杯を地面に置いた。
僅かに残った雫が杯を伝って地面に墜ちて、やがて音無く消えていく。雨のように雲を晴らすこともなく、冬のように息吹を残すでもなく、稲穂のように種を残すでもなく。ただ静かに、消えていく。
或いは、誰に知られることもなく、静寂の中に溶け落ちるように。
「……『爆炎の火山』のあの時、貴様は俺を恐れたか」
「え?」
「別に『爆炎の火山』に限った話ではない。帝国や、『花の街』でも地底都市でも、何処でも構わないが……、貴様は戦うときに恐れを成したか? 我が刃に震え、勝てるわけがないと膝を折ったか?」
「そ、それは……」
「折ったことはないはずだ。俺の知るシャルナは、そんな事で膝を折りはしなかった。貴様を挫いたのはいつだって自分だったはずだ。恐れも弱さも、己の中にあったはずだ。……誰にも戦いの結末など解らないのだから、当然だ。貴様が負けていたのはいつだって、結末を騙る自分自身だったはずだ」
「……ならば、貴殿の恐れは、自分なのか?」
「さてな。俺は貴様ほど優柔不断でもないし迷いもしない。ただ、結果だけを見る。そしてその結果に近付けるよう全力を尽くしているだけだ。今までも、これからも……、明日も、そうだ。だから俺にとって恐怖とは自分自身でも未来でもない。敢えて言えば、過去にある」
フォールは、僅かに瞼を伏せる。
「これは俺にとっての贖罪だ。ケジメと言い換えても良い。……俺は、決して赦されない罪を犯した。例えそれが仕組まれたものであろうと、『消失の一日』は俺にとって赦されない大罪だ。この身に宿る幾千の魂も、この身に宿ることもなかった幾億の魂への鎮魂に他ならない」
だがーーー……、と。
「それと同じく、いや或いはそれ以上に……。俺は目標を、スライムを欲している。愛している。この感情だけは何者に造られたものでもなく、ただ、俺の感情だ。俺の為の、俺だけの感情だ。運命だろうが試練だろうが邪悪だろうが譲るつもりはないし、譲りもしない。俺は俺の目的を果たす。敗北や恐れなど見るよりも前に、ただ……、それだけを為す」
幾度語ろうと、幾度繰り返そうと、幾度確かめようと、それは決して変わらない。
始まりは一つの願いだった。終わりも一つの願いだった。ずっと、永遠に、決して変わらない。それだけは、フォールの証明でありフォールの意味でありフォールの存在であるそれだけは、決して変わることはない。
「あぁ……、そうか。そうだな。それこそがーーー……、貴殿だったな」
いつの間にか、褐色の頬を伝う涙は止まっていた。ただ真っ直ぐな眼差しだけがそこにあった。
優柔不断が貴様の悪い癖だと誰かが言った。真っ直ぐ過ぎる不器用さこそ貴殿の短所だと誰かが言った。けれど、それ等は補うことができる。補い合い、共に進むことができる。雨に濡れても、冬に噴かれても、枯れ果てに躓いても、彼等なら、進んでいくことができる。
「ならば私は貴殿のその願いを叶えよう。あの日、『爆炎の火山』で……、いいや、今まで私を救ってくれた貴殿に報いよう。それこそが……、それだけが私が貴殿にできる唯一の恩返しだ。貴殿に背中を押して貰った私が、貴殿の進む道を護る剣になろう」
その道の果てにある運命への決着であろうともーーー……、二人なら。
「……まるで二度目の告白だな。返事は全て終わった後に返すと言っているのに」
「ばっ……、ち、違う! そういうんじゃ、ない……。からかうな! ま、真面目な話なんだか……。い、今は……、うん……。ま、まぁ、意味としてはそう捉えることもできたかも知れないが、決して、そういうのではなく……。何と言うべきか、その……」
「何だ、別に悪いとは言ってないだろう。ただそう聞こえるという話をしているだけでだな」
「君ねぇ、こういう時は『ならば俺がお前の鞘になってやる』とか言うトコだぜ? あ、でも普通は逆か。フォール君が鞘じゃ相当ハイレベルなプレイだし。でもまぁ僕なら剣にも鞘にもなれるけどネ!!」
「控えめに言って最低ダナー。フォール、ローはずっとお前のこと好きだぞ-? ずっとローの婿だからナー。ローはフォールだけのモノだからナー?」
「何だ貴様等、起きていたのか。いつから起きていた?」
「「『ん、すまないな……』の辺りから」」
「話始めどころか本当に始めの始めからじゃないかクソァッッ!! ウォオオオオオオ死ねぇえええええええええええ!! 死んで全ての記憶を抹消しろォオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
「まぁまぁそう恥ずかしがることもないよシャルナちゃん。明日への決意、僕達も聞かせてもらったぜ。いやまぁ実際ただの遠回しな告白だったけどね。これで何回目? 三回目?」
「ローは初めての告白でフォールを婿にしたからナー。褐色筋肉馬鹿より愛されてるからナー。フォール撫でロー撫でロー! 喉を撫でるのダー!! わしゃわしゃするのダー! 甘やかすのダー!!」
「よーしゃよしゃよしゃ」
「にゃごろ、ふふっ。にゃ~ん♡」
「はっはっはローちゃんに先手を取られッブねェ!? ちょっと待ってシャルナちゃん覇龍剣振り回す前に君の旦那が、アッハイまだ旦那じゃないですかそうですか待って待って覇龍剣はマズいやめて助けて解った、まだじゃないんだね!? まだでもないんだね!? でもどうせフラグ立ててんじゃァボゥッ!! 助けてローちゃん死ぬ! 僕が死ぬ!! 最終兵器リゼラちゃんを動かす僕が死ぬゥ!!」
「仕方ないにゃー。てやっ」
ドスッ。
「「「あっ」」」
「最終兵器の方が死んだぞ」
流れ弾ならぬ流れ覇龍剣にて魔王死亡。一晩で五回以上死ぬ魔王が未だかつていただろうか。
最後の最後、夜の果てまで大騒ぎ。どうやら彼等には悲壮どころか平穏さえ似合わないらしい。
だが、それで良い。彼等の旅はいつもそうだった。『魔王城』『死の荒野』『沈黙の森』『爆炎の火山』『高樹地帯』『平原の海』『帝国』『あやかしの街』『知識の大樹』『廃城』『地平の砂漠』『花の街』『凍土の山』『氷河の城』『広き平原』と続いてきた彼等の旅は騒がしく、ドタバタと街どころか国さえ荒らして、雨どころか嵐のように、冬どころか絶対零度で、稲穂どころか大地さえ甦らせて、進んできた。歩いて、いや、走り抜けてきた。全速力で、いつだって。
だから、これで良いのだ。これより来たる決戦に頭を垂れて向かうことも、背中を向けることも、涙を流して進むこともない。ただいつも通り、中指でも突き立てながら真っ直ぐに進めば良い。たったそれだけで、良い。
それこそが彼等のーーー……、この旅路の締めくくりに相応しいのだから。
「……ところでリゼラちゃんこれどうしよっか」
「埋めときゃ何とかなるんじゃないカ?」
「馬鹿虎娘にしては名案だ。埋めよう」
「おいやめろ阿呆共、この辺りの大地を汚染することになったらどうする」
「確かにリゼラ様ならこの形態でもぽんぽこ生えて来そうだ……」
「除草剤もないしナー」
「いやまず埋めるって言う選択肢がどうかと思うんだけど」
「解ったなら大地に優しく完璧に燃やしておけ。証拠も消せて一石二鳥だぞ」
「「成る程」」
「成る程じゃないよ? 成る程じゃないよ!? ねぇ待ってやっぱりこれ魔王ハードだよね!? この形態に戻ってもリゼラちゃんの扱い変わってないよね!? 起きてリゼラちゃんゲッタァップ!! 燃やされ、ちょ、油を保ってくるな油を!! リゼラちゃんゲッタァアーーーーーーーーッップ!!」
それはそうとして旅の締めくくりが死体遺棄はちょっと勘弁して欲しい。
まさか世に語り継がれる勇者がそんな事をして良いわけが、わけ、穴を掘って、いやあの、十字架作って、あのだから、わけが、あの、棺、あ、はい。
――――以上、決戦前夜の出来事である!!
読んでいただきありがとうございました




