【2】
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――――昔、と言っても数年ほど前のことだ。ロゼリア王女と喧嘩したことがある。
今にして思えばその場で不敬を言い渡されてもおかしい事ではなかったが、いや、当時はまだ自分と彼女は姉妹のように親しかった。だからあんな喧嘩をしたのだろうし、事件も起こってしまったのだろう。
「……くっ、駄目だな」
堅牢な、然れど大理石でも鉱石類でもない奇妙な材質の壁面を叩きながらアテナジアは諦めるように膝を突いた。既にこの部屋に閉じ込められて数時間。脱出の糸口は一つとて見えない。
部屋自体は見事なものだ。部屋全体が薄明るく光っている奇妙な鉱石で作られていることを除けば、この部屋はとても良い部屋だ。ベッドや机、椅子なんかも全て一級品。食料や水なんかも置いているし、暇潰しにしても様々なジャンルの書物が部屋の隅に積まれている。ついでに言えば、筋トレ道具なんかも。
この部屋にいて困ることはあるまい。少なくとも一ヶ月程度なら生活することはできよう。
「ロゼリア王女は御無事だろうか……。不甲斐ない、本来は私が共にいなければならないものを……!」
だが当然、アテナジアはそんな部屋に留まるつもりは微塵もなかった。今すぐここを脱出するつもりだった。
――――あの事件は、人からすれば本当に些細なことだったと思う。ロゼリア王女様が『花の街』伝統の道具を一つ壊してしまたのだ。確かに歴史的価値のあるものだったし高価なものだったが、それ自体はどうでも良い。いや良くはないが、重要なのは彼女が怪我をしてしまったことだ。
それは指先を切りつける程度のものだったし、本人も痛がっていたわけではない。あの時の彼女は言い訳もしなかったし自分で片付けようともしていた。何も、問題はなかった。
だけど家臣の一人がそれを止めて、けれど彼女は止めなくて。あの時、自分は家臣と一緒に止めるべきではなかったのだ。彼女にそのまま片付けさせるべきだった。例え危なくてもそうさせるべきだったのだ。
だって、そうだろう。それが彼女のささやかな抗いであり訴えであることに気付いた時にはもうーーー……、遅かったのだから。
「どうする……。既にこの滅亡の帆とやらが飛び立ってかなり時間が経ってしまった……。ロゼリア王女の身が案じられる。他の皆も無事だと良いが……」
アテナジアは覚束ない足取りでベッドに腰掛けると、眉間を抑えて蹲った。
まずはここから脱出すべきということは彼女も解っている。先程から壁から染み出すように振動が繰り返し聞こえるし、そればかりか部屋一帯が引っ繰り返ったかと思うような激震も感じた。何か、得体の知れない陰謀が巻き起こっているのはそれだけでも充分察知できる。
何よりこんな緊急事態に騎士団長として街へいられない事が彼女の背筋に嫌な汗を流す。
「やはり……、やはりあんな男など信じるべきではなかった……! 予想と違って真摯な対応だったし、異性にそういう……、その、そういうアレを向けられたのも初めてで動揺してしまったが、やはり所詮は魔族……! 我等を騙し欲望のままに動く邪悪な連中よ……! まさかあの少女までも裏切るとは……」
まぁその少女も痛い目見て改心して今は協力体勢にあるので赦してやって欲しい。
なおこの後、痛い目に合わないとは言ってない。
「兎にも角にも外に出ないことには話にならん! えぇい、せめて私の槍さえあれば……!!」
と、そんな彼女の叫びが通じたのだろう。突如として部屋の天井辺りから一人の少女が墜落してきた。
少女は奇しくもベッドの上に落下し、ぼよんぼよんと数回跳ねてきょとんとした表情を浮かべる。突如の出現に思わず拳を構えたアテナジアも、そんな表情を見るに彼女が敵でないこと、そしてその者が裏切ったあの魔王ではなく自身が案じていた王女であることを直ぐに判断できた。
「ろ……、ロゼリア王女殿下!!」
「アテナ? アテナっ! 良かった、アテナ!!」
二人は再開に歓喜の抱擁を行うが、アテナジアは気付く。ロゼリアの体に細かな傷があることに。
それは擦り傷や切り傷など、本当に小さなものばかりだ。野山を駆け巡ってきたのかと思うほど衣服も泥汚れや草木の残骸が目立つし、髪の毛もボサボサである。
こんな彼女の姿を見たのは何年ぶりだろう。こんな、喜びに満ちた表情を見たのはーーー……、何年ぶりだろう。
「ロゼリア様……、どうしてこんなところに!? 貴方は街にいるはずでは!?」
「フォールに連れて来られたのよ! でも、えっと、そのフォールが四肢と戦ってて、リゼラちゃんは私を行かせるために覚醒不魂の軍とかいう化け物を足止めしてて、このままじゃ『花の街』どころか世界が危なくて……! と、兎に角!! 早くここを脱出して制御室を探さないといけないの!! この滅亡の帆を止めなくちゃ!!」
「制御室……、あの部屋のことですね。大丈夫、幸いにもその部屋ならば私が先程までいた場所です。ここまでの道程ならば殆ど一本道でしたし、移動にそう時間は掛かりません。今すぐ向かいましょう」
アテナジアの言葉に少女の擦り傷だらけな顔は歓喜の色を見せるが、その色は直ぐさま色褪せることになる。
次に、同じくアテナジアが放った言葉によって、だ。
「しかし、そこに行くのは私だけです。ロゼリア様はどうかここでお待ちください」
「……え?」
「四肢の言葉を信じるわけではありませんが、ここは滅亡の帆の中でも中枢に近く恐らく安全と言える場所には違いないでしょう。ご覧の通り水や食料もありますし、既に私が毒味をしてあるから問題はないはずです。もし何者かが様子を見に来てもロゼリア様ならばベッドの下に隠れることもできますし、きっと……」
「……何でよ」
「は、はい?」
「何でそんなこと言うのよっ……! 折角ここまで来たのに!! アテナのこと心配して来たのにっ!! 一言目がそれ? またそれなの!?」
「た、確かに心配していただいたことは感謝しております! ですがそれとこれとは話が別です。貴方は王女で、私は騎士だ。この国の為にも貴方様の身の安全は何より優先されるべきで」
「私には国なんかより貴方の方がよっぽど大事だわ!! いつも、今までも!! ずっと!! 貴方のことが心配だった!! 貴方に大変な思いして欲しくなかった!! 貴方と一緒にいたかった!! 私を守る騎士様より、私とお話ししてくれるお姉ちゃんでいて欲しかった!! けどっ……、それは無理って解ってる! 仕方のないことだって!! だからせめてお姉ちゃんの苦労をちょっとでも肩代わりしたかった!! それがいけないことなの!? たった、それだけがーーー……!!」
それは、癇癪のようだった。年相応な、立場なんか関係ない叫びだった。
だってそうだろう。ロゼリアという少女はまだ小さな子供なのだ。家族のいない、それでもこの国の重責に潰されそうになりながらもちっぽけなプライドだけで立っている一人の少女なのだ。
多くを望んでいたわけじゃない。王様のように崇め讃えろだとか、帝国なんて国に従いたくないだとか、全ての責任を放り出してしまいたいだとか、そんなことを望んでいたわけじゃない。
ただ一人、姉のように到っていた人物と楽しくお話しして、町娘のように楽しく日々を過ごして、やがてその責任に立ち向かって行くことになるのならそれで良かったのだ。彼女は年相応に日々を過ごせればそれで良かったのだ。
立場も婚姻も使命なんかも忘れて、ほんの少しの間で良い。ただそれだけの間で良いから、昔みたいにーーー……。
「……喚きは、それだけか?」
だが、そんな彼女の癇癪を退けるように静かな、然れど重々しい声が二人の耳に届く。
気付けば先程まで存在しなかった扉が現れ、そこに扉よりも高い巨躯を持つ大男が佇んでいたのだ。
「え、四肢ッ……!!」
「何で貴方がここにっ……! だって貴方はフォールが!!」
「墜ちたよ、アイツならな」
その言葉で、ロゼリアの表情から希望が消えーーー……、はしない。
彼女の双眸は未だ強く四肢を睨めつけ、一歩として引き下がる様子を見せなかった。何かに隠れるわけでもない、アテナジアに庇われるでもない、ただ自分より遙かに大きく凶悪で強靱な男に向かって立ち向かったのだ。
そんな彼女の行動の意味を真に理解したのはアテナジアか、それとも。
「それでも私のやるべき事は変わらない……。そこを退きなさい、四肢!! 私は制御室に行く!!」
「…………テメェみたいなガキに、何ができる。行ったって無駄だ」
「無駄と無意味はイコールじゃない!! 私は知ってる……。諦めない意味を!! 『何事も諦めない』強さを!!」
一歩。
「退きなさい、四肢! 貴方なんかが私の道を遮れると思わないで!! 私は諦めない……! 絶対に諦めたりなんかしない!! 例え貴方を倒す腕力がなくたって、覚醒不魂の軍達を抑え込む知力がなくたって、この滅亡の帆をどうにかする技力がなくたって! そんなこと私には関係ない!!」
そしてまた、一歩。
少女の歩みは決して大きいものではない。四肢の片腕ほどもない歩幅だ。
しかし、四肢は気圧された。その少女の小さな歩みに、何倍も大きく一歩引き下がったのだ。
ロゼリアはそれを見逃さない。彼女はそのまま、四肢が引き下がった隙を見計らって彼の脇を走り抜けていった。四肢も止めようとすれば止められただろう。しかし、今の彼にその少女を止めることはできなかったのだ。
腕力ではない、もっと違う何かの力に押し負けていたのだから。
「ろ、ロゼリーーー……っ!!」
だが、四肢にも意地がある。
魔族三人衆として、強者としての意地がある。
「なっ……」
瞬間、四肢は扉をその豪腕で粉砕し、アテナジアの前に立ちはだかった。
ここを通せば制御室まで殆ど一本道。誰一人として逃がすわけにはいかないし、それが顔貌との取引条件だった。ただ一人、彼女だけは護ると決めた四肢が飲んだ条件だったのだ。
「……除け、四肢! 私はロゼリア様を護らなければならない!!」
「テメェを……、通すわけにはいかねぇ。ここでテメェを通せば俺でも庇い切れねェんだ」
「私はロゼリア様を護らねばならない! あの方を護るために私がいる!! 除け、四肢!! 例え武器なきこの身であろうと、例え如何に無謀であろうとも!! 貴殿を相手に退く理由にはならん!! ロゼリア様の為ならばーーー……」
「どうしてテメェの為だと理解できねぇ!? 顔貌は本気だ! この決戦はマヤカシでもなんでもねぇんだよ!! 解るか? 運命は既に定まってる! 世界は滅亡すんだよ!! 既に滅亡の帆は降下を開始した!! 間もなく神代の矛が完成するッ!! 止めることも、撃ち落とすこともできねぇ絶対防御のこの滅亡の帆がだ!! 解るか? 顔貌も、その後ろにいるあの御方も!! テメェ程度が抗える相手なんかじゃねぇ!! 自ら滅びてェのか!? これからそうなる、この世界のように!!」
「ロゼリア様のいない世界など意味があるかぁ!!」
叫び、轟き。四肢はまた一歩引き下がる。
しかしその踵が当たったのは自身が打ち砕いた扉の瓦礫だった。自身が引いた、境界の線だった。
「私は……、私はロゼリア様を護ると決めたのだ! この身が騎士たればこそ、あの御方を護ると決めたのだ!! その為ならば、私は……、どのような戦いにも挑むだろう!!」
――――これだ。嗚呼、これだ。
「無謀は百も承知である! しかし!!」
『花の街』ーーー……。あの御方より告げられた策謀を為すべく訪れた街。
あの時の俺にとってその街はただの通過点でしかなかった。まるで炉端の蟻の巣のようにどうでも良い存在だった。いや、今もそれは変わらない。人間どもなぞ蟻にも劣る連中だ。貧弱、脆弱、崩弱。殴れば遙か彼方まで吹っ飛ぶ程度の連中でしかない。
顔貌はそれ故に魔族が優等人種だとか、無駄な思想で動く者は下劣だとか、兎に角として訳の分からないことを抜かすがその辺りはどうでも良い。自分にとってその街が通過点で、その街にある滅亡の帆の起動鍵を奪取すれば良かった。
途中まで、順調だったのだ。街の外でグーマンとかいう男率いる盗賊団に帝国叛乱の話も付けたし、後は街に潜入してやれば良かった。ただ、それだけで良かった。
その前にちょっと遊んでやろう、とーーー……。そんな事を考えたのが事の始まりだった。
「私はそれでも護ると決めた! あの人に傷を負わせるわけにはいかないと!!」
元々細かいことは嫌いな主義だし、顔貌に命令されるのも気に食わなかった。だが、かと言って心臓ほど周到に準備できるほど気が長いわけでも、顔貌のように対応できるほど頭が回るわけでもない。だから所詮、それは暇潰し程度の、けれど『達成できるならばこれで良いではないか』という具合に始めたものだったのだ。
「だから、私はーーー……」
そこで、出会った。
他の兵士が拳一つで打ち砕かれていくのに、決して敵わないと解っているのに。
何回打ちのめされても何回投げ捨てられても、決して諦めない女と。
「貴様と戦う! 四肢ァッ!!」
自分にない何かを持っている女にーーー……、出会ったのだ。




