【プロローグ】
これは、永きに渡る歴史の中で、――を――続けてきた――。
――なる運命から行動を共にすることになった、そんな彼のーーー……。
「…………始めると、しようか」
――――存在するための、物語である。
【プロローグ】
「はぁ……、はぁ……」
少女はその身を隠していた。赤子ほどしかない大理石の瓦礫に全身が隠れるわけもないのだが、それでも彼女はその身を隠していた。隠さざるを得なかった。
だってそうだろう。滅亡の帆中層の草原、生命の息吹が潤うその場所には死の悪霊達が跋扈していたのだから。何処か斯の大魔道士が創り出す楽園を思い出す光景も今となっては悪夢の惨劇にしか思えない。
少なくともこの少女ーーー……、ロゼリアからすれば、膝が震え喉が詰まる恐怖を感じるには充分過ぎる光景だ。
「ここからどうしろって言うのよ……」
――――リゼラと別れ、数十分。どうにか廃城の中層まで降りてきた。
けれどこれ以上は進めそうにない。リゼラの言う制御装置のある中枢、そしてアテナジアがいるであろう下層まで行くにはあの群れを突き抜けなければならないが、いいや無理に決まっている。だってフォールもリゼラもゼリクスもアテナジアもいない。守ってくれる者が、誰もいない。
こんなの、進めるわけがない。
「逃げられない……。助けられもしない……。だって無理に決まってるわ。私なんて……」
解っている。解っているのだ。彼女は何よりも自分の無力さを解っている。
幼き頃に両親を亡くし、それ以来誰かに従って生きてきた。いいや、従うというのは正しくない。誰かに願われて生きてきた。『そうしろ』ではなく『そうしてください』という願いの元に生きてきた。国政も生活も勉強も何もかも、そうして生きてきた。
それが悪意故に誰かに歪められたものなら、きっと彼女も何か憤りあって生きてきただろう。しかしこの国は平和な国だ。国政を営む大臣に国を支配してやろうなんて野望はなく、生活の世話をしてくれるメイド達に財宝をくすねてやろうなんて欲望はなく、勉強を教えてくれるアテナジアにも何かをしてやろうなんて羨望はない。
この国は、平和なのだ。とても平和だ。ただ歴史的な負の遺産ーーー……、かつての帝国統一に抗い続けたという勇気を除けば。
「私なんて、ただのお人形なのに!」
それさえなければ、きっと彼女は平和な国の平和な女王様として余生を過ごしただろう。
帝国との密約により将来を決められていなければ、彼女に幼さ故の夢心地な願いがなければ、彼女に同情せず冷血に現実を教える者さえいればーーー……、こうはならなかったかも知れない。全ては運が悪かった。ただそれだけで片付くほどに、些細なことの積み重ねだったのだ。
けれど、積み重ねた結果が彼女なのである。帝国のエレナ王子との婚姻は彼女から夢を奪い、現実を否応なしに突き付ける。そしてそれが仕方のないことという、誰かの幸せの為の試練であることも聡い少女には理解できてしまう。
だからこそ、彼女はーーー……、町娘のように過ごしたいという小さな願いを持った。この重責と定められた運命から逃れたいという願いを持ってしまったのだ。そう、今この時から逃げたいという願いを。
「早く、逃げないと……。逃げなきゃ……! こんな、こんなところからっ……」
仕方ないことなのだ。嗚呼、これはどうしようもなく仕方ない。
だって、彼女は立場こそ王女だけれどまだ少女なのだ。幼く、誰かに咎められることなく生きてきた少女なのだ。まだ、その程度の少女なのだ。
ここから見える景色から解る。間もなく、そう半刻もしない内に滅亡の帆は砂漠の遺跡と合体し、神代の矛へと進化するだろう。そうなれば彼女にできることは何もない。いいや、誰にだってできることはない。
だから、仕方ないのだ。例えその刻であろうと今であろうと、こんな、華奢でどうしようもない人形にはーーー……。
――――『LESSON5、信じろ』。
「…………!」
そんな人形の頭を引っぱたいた魔王がいた。そんな人形の頭に拳骨を叩き落とした勇者がいた。厳しい現実を教えるどころか、一人の王女に叩き付けてやった者達がいた。『逃げたい』という仕方のない、当然の願いを真っ向から否定した者達がいた。
彼女に進む道を示した、者達がいた。
「無理よ……、無理……。だって無理に決まってる。どう考えたって、どうしようもない。あんな、触れられただけで死んじゃうみたいな……」
――――『LESSON4、見極めろ』。
「だって……、だって……!」
ロゼリアは解っている。そんなのは言い訳だ。
確かに覚醒不魂の軍達が徘徊する草原を駆け抜けることはできない。しかし、彼女の小さな体を持ってすれば瓦礫と瓦礫の間、リゼラが散らかした残骸の間を這って進むことができる。覚醒不魂の軍の歩みは何処か虚ろだし、きっと気付かずこの草原を抜けることができるだろう。
「私なんかに……! 私、なんかに……っ」
フォールが彼女に教えたのは、生きる術だ。いいや、生き延びるという意味ではなく、生きて行くという意味での、彼女が彼女らしく活きる術だ。
しかし生きる為にはそんな教えより、何より欠かせないことがある。何よりも欠けてはいけないものがある。
「……私が」
本人の、意志だ。
「するしか……、ない……」
彼女の意志なんてちっぽけなものだろう。その背丈と歳に見合ったか細いものだ。
けれど、勇者と魔王はそれに賭けた。お前ならば、とそう信じた。ならばーーー……。
「私が……、アテナを助けるしか……!!」
彼女は瓦礫に潜り込み、腹ばいに進んでいく。
瓦礫の中はまるで洞窟のように薄暗く、彼女一人分より少し狭い程度の広さしかない。いざ進めば衣服が何処かに引っ掛かって解れるのも、肘を擦り剥くのも当然のことだった。フォールに持たされた盾のせいで身狭になったこともあって尚更だ。
しかしそれより恐ろしいのは時折隙間から見える有象無象の怪物である。濁った体も虚ろな眼も統一性のない体躯も、全てが恐ろしい。
恐ろしい。嗚呼、どうしようもなく恐ろしい。ロゼリアはただ進むだけでも必死に声を殺していた。疲労の吐息も恐怖の息吹も、殺していた。そうしなければ見付かってしまうと全身が、本能が叫んでいるから。
「…………!」
けれど、それが諦める理由にはならない。
ここで引き返し、隅っこで蹲る理由なんかにはならないのだ。
「はぁ……! はぁ……!!」
彼女はそのまま息を殺し続け、覚醒不魂の軍達に気付かれず、どうにか瓦礫の穴を抜け出せた。
その代わり衣服がぼろぼろになり、頬には土が付き膝は擦り剥いてしまったが関係ない。
それぐらいの傷なんかで止まれるほど、彼女の中に燻る思いは軽いものではなかった。
「次はーーー……!」
眼前に拡がる草原は背の高い草木が多く、ロゼリアの身長ならば中腰で進めばどうにか姿を隠せる程度のものだった。
真後ろの廃城付近ほど多くないとは言え、未だ草原には覚醒不魂の軍が徘徊しているのだ。もし捕まろうものなら、いや、想像するのも恐ろしい。
「捕まってたまるもんですか……!!」
ロゼリアは草原の中を進んでいく。高度のせいか草木の地面は泥まみれで一歩歩む旅にぐにゃりと嫌な感触が指先を伝うし、葉っぱの腹は白く桃色がかった肌を切りつけるが、いや、それでも彼女は進んでいく。瞳に涙浮かび、じりじりとした痛みが全身に染み渡るが、進んでいく。
鼻先をつんと突き刺すような草木の香りが臭い。肌を張ってくる羽虫がキモチ悪い。けれど、悲鳴を出すことはできない。出せば直ぐにでも、ほんの数メートル隣を進む覚醒不魂の軍に見付かってしまうからだ。
まぁ流石に毛虫が足元に落ちてきた時には悲鳴を上げかけてしまったが、不意にリゼラの『食えるか食えないかで言えば、食える』と言わんばかりのドヤ顔が浮かび、どうにか難を逃れることができた。流石にやめておいた方が良いと思う。
「……あ、あれは」
さて、やがて草木を掻き分け、覚醒不魂の軍を避けながら歩んでいく彼女の前に現れたのは一つの塔だった。廃城から大分離れた場所ーーー……、いや全体的に見ればそこも廃城の一部なのだが、その塔の中心辺りに下層へ続く階段が見て取れたのだ。
――――あそこからなら下層へ行ける。アテナがいるはずの、制御室がある中枢へ続く、下層へ!!
「ッ…………!!」
しかし、事はそう簡単には運ばない。
「覚醒……、不魂の軍っ……」
下層へ続く階段には三体の覚醒不魂の軍がいた。
相変わらず虚ろな眼と覚束ない体躯をゆらゆらと揺らしているが、その場から動く様子は見受けられない。
「他の奴らみたいに動き回らないの……? み、見張りってこと? ちょっと、動きなさいよ……! じっとしてないで!!」
空を掻き分けるようにジェスチャーを繰り出すも、覚醒不魂の軍の虚ろな瞳は何処かを眺めたまま動かない。
要所に見張りを置くのは当然のことだ。だが、今はその当然が果てなく遠い。勇者のように無慈悲でなく、魔王のように無謀でない彼女にとって、それは余りに遠すぎる。少なくとも彼女一人に打ち破れる試練ではない。
ただそこにいるだけの怪物の目を欺けるほど、少女は強くない。賢くない。巧くない。
「……見張り?」
だが、強くなく賢くなく巧くない王女には、強くなく賢くなく巧くないやり方がある。
「見張りなら……」
ロゼリアはふと、足元にある小さな石ころを拾い上げた。
そしてそれを自分とは正反対の方へ投げてみる。こつんこつんと音がして、覚醒不魂の軍はその音を捕らえた瞬間そちらに走り出した。周囲を見回っていた覚醒不魂の軍までが、彼女の投げた石に反応して集結するほどだ。
別に、大したことをしたわけじゃない。ただ城を抜け出す時にそうしている事をしただけだ。たった、それだけのことだ。たったそれだけのことで、戦えた。
「…………私、でも」
――――簡単な話ではないか。そうだ、フォールがそうしていたように、奴等はとても単純なのだ。真正面から戦うことなんてしなければ自分だってどうにでもなる。信じ、見極めればそんなこと当たり前だったのだ。
「戦える……」
こんなに小さな体でも、戦える。剣を振ることができなくても良い。槍を持つことができなくても良い。
岩を砕くことも炎を放つこともできなくて良い。音より速く動くことも、誰かを率いることも、全てを見通すことだってしなくて良い。ただ、それでも戦える。
たった、それだけでーーー……。
「…………だったら、私にもできるかな」
ロゼリアは走り出す。盾一つを背負い、傷だらけの体で、しっかりと拳を握り締めて走り出す。
それは無謀なことだ。幼き少女が、触れれば死は免れない怪物達の狭間を通り抜けて、この終焉の要塞を走り抜けるなど、果てなく無謀なことだ。
けれど少女の足取りにはもう迷いはない。その強さを初めから持っていた彼女に迷いなどあるはずもない。
ただ気付けば良かった。たった、それだけのことなのだから。
「私にも、貴方をーーー……」




