【4】
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「……ふぅゥーーー」
ふさり、と幼子ほど大きく、それでいて毛並み豊かな尾が畳床をなぞる。
そして、そんな尾に追随するが如く残り八本の尾もふわりと畳を叩いていく。ただその存在だけで並大抵の獣人や半魔族とは格が違うと解るほど美しい九つの尾が、優しく、柔らかく。
然れどその様な神々しき美しさも、彼女の着崩した浴衣や口元から噴き上がる薄紫の煙が妖しく淫らなものへと変貌させ、さらにはこの暗幕に覆われし部屋の闇までもが妖しさに拍車を掛けていた。
「あぁ、頭が痛い……」
そうーーー……、彼女こそ『あやかしの街』の顔役、ダキ・ヒガンである。
彼女は、指先で雫滴るお猪口を転がす様子にさえ淫らさを憶えさせる狐の獣人半魔族だった。暇潰しのように戯れる九本の尾と言い、肘掛けを枕に胸を押し潰しながら項垂れる姿と言い、口元で愛でられる煙管と言い、彼女の一挙一動全てがその淫靡さを際立たせる。
或いは、二日酔いに警報を鳴らす頭を抑える、その様までも。
「詰まらぬ。詰まらぬよ……」
そんな彼女は酷く退屈していた。と言うより苛ついていた。
――――来るはずの男が来ない。先ほど到着したはずの勇者フォールが、来ない。ククル、ワフム、ニアンの三人が引っ張ってきているはずなのに来ないというのは何事か。
もしかして気付かれて逃げられたのか? いや、あの三人がいるののに易々と逃がすわけもあるまい。ルヴィリア様の言う通りであれば尚更、あの三人は奴に対する特効薬のはずなのだから。
「四方や余に恐れを成して尾を巻いたか? 期待外れも甚だし……」
と、そんな彼女の落胆を裏切るように暗幕張りの障子が開かれ、一人の男が現れた。
それこそ誰であろう勇者フォール、じゃねぇ。
「お休みのところ失礼。二日酔いが酷いと伺い、簡素ながら汁物を用意した。熱い物は舌に悪かろうと思い冷まし汁だ。油揚げなるものが好みと言うのでこちらも入れてみた」
「あぁ、板前……、えっ?」
「吸い物と言うらしいな。しかしこの手の料理は初めて作るものでな、口に合えば良いが……」
「ど……、どうも……?」
この男はいったい何をしているのだろう。
どうして悪しき半魔に挑むはずの勇者が板前のようにお吸い物を差し出しているのか。
と言うかそもそも何なのか。割と出来が良いお吸い物も何なのか。
「…………ふ、うふふふ」
だが、この程度で怯むダキではない。
今までこの街の顔役として、彼女に取り入ろうとする多くの者を見て来た。その誰も彼もが何とか彼女に気に入られようと献上品や甘い言葉を持ち出し、中には奇抜な格好や行為で気を引こうとした者も少なくない。それは旅人であれこの街の半魔族達であれ変わらない。
要するに、この様なやり方は見飽きているのだ。まさか彼の勇者がこんなやり方で来るとは思っていなかったので少し面食らったが、ダキは慌てるような事ではないと煙管を一吸いして平静を取り戻す。
いや、それどころか攻勢にさえ転じて見せた。
「驚いたわぁ、急に来るんやもの。主が勇者フォールかえ……?」
「そうだ。それより早く汁物を食していただきたい。冷製だから冷めはしないが出汁が沈殿する」
「まぁまぁそう急かず……、仲良うお話しようやぁ……」
ふわり。フォールの頬を九つのうち一本の尾と薄紫の煙が撫でる。
――――話を戻すが、先ほどダキは今まで幾人もの取り入ろうとする者を見て来たと言った。取り入るのは彼女がこの街の顔役であり、絶世の美貌を持っているからだ。つまるところ権力や色欲のため彼女に気に入られようとする、という事だ。
しかし、その者達の末路は等しく、己の利益など毛先も考えず彼女に媚び従う傀儡である。今フォールがそうされているように頬を一撫でされて平常を保てる者はそう多くない。
「…………」
しかし、フォールは眉根を顰めただけであって特にこれと言った反応は見せなかった。
然れどこれも予想の内。ダキは攻勢を止めることなく彼の体を幾本の尾で絡め取り、甘ったるい妖艶の煙と共に指先を撫でていく。
「フフ、そう難しい顔せんと……。まずは話したいこともあるやろけど、座って話すぐらいなら寝て話そうやぁ。床は幾らでもあるけぇねぇ……」
「……座敷、と言うらしいが二階の隔てを全て取っ払って一部屋にし、暗幕を垂らしているのか。確かに床は幾らでもあるな」
「そうよぉ。だから主の好きなこと幾らでもやってえぇんやぇ?」
彼の指先に囀る右指の爪はそのまま掌、内手首、脇肘、胸元でくるんと一筋の円をなぞり、彼の唇に当てられる。左指の爪は尾と同じように背中を這って彼の背筋と腰の間辺りをなぞり取っていく。
ここまですればもう耐えられる男はいない。否、女でさえもダキの妖艶に呑まれ彼女の為すがままに肉欲へ溺れるだろう。
が、勇者フォールは未だに揺らがない。彼の無表情は依然として眉根のしかめっ面を保ったままだ。
「……自信なくなるわぁ。フフ、もしかしてただやるだけや満足せんのかぇ?」
然れどダキもまた引き下がるつもりはない。初めからこの男はこうして堕とすと決めていたのだから。『これ』を使うまでもなく、『あの子達』に手を出させるまでもなく、『今晩』を迎えるまでもなく、堕とすと決めていたのだから。
そう、男ならばどのような形であれ、興奮するものだろう。そして今まで自分に興奮しなかった男は一人としていない。
つまるところ未だ自分はこの男のツボを抑えられていないだけであってこの男も必ず興奮するものなのだろう、とダキは判断する。いや、それ以外に考えるはずもない。
このような妖艶さに迫られて耐えられる男など、いるはずがないのだから。
「せやったら、好きなようにしてくれてえぇんやよ……?」
ダキは態と胸元をはだけさせ、肌を密着させるようにフォールへと擦り寄った。
いやらしく煽る唇は彼の首筋へ添えられ、頬まで生暖かい蜜を擦り付けていく。
そればかりか、柔らかな指が彼の襟首へと入っていくではないか。擦り寄る膝が彼の股座をぐいと押し上げるではないか。ふわりと薫る九つの尾が彼等を覆い隠していくではないか。
そこは最早、彼等だけの世界だ。ダキの九尾に覆われ肉欲に溺れゆくばかりの、世界だ。
然れど、それでも、未だ、フォールの表情は変わらない。否、それどころか口端さえ下がっているかのようですらある。
ダキは未だ肉欲に堕ちぬ彼に驚愕するも、その色を隠すが如く躍起になってさらに淫靡さを強めていく。
「今はだぁれも見とらんのやから、ねぇ? ここで、余と、どんあ風に乱れてもえぇんやよ……? ほら、例えばこんな風に……」
彼の胸元を這っていたダキの指先がするりと抜け落ち、足元の汁物を掬い上げる。
そしてその椀を豊かな胸の谷間に垂らし、フォールの前へずいと差し出した。『舐め取れ』と、そう言わんばかりに。
「ぜぇんぶ、主さんのもんやえ……?」
繰り返される淫欲なる誘惑で、遂にフォールの糸は切れた。
彼は歪ませていた表情から力を抜き落とし、そしてーーー……。
「…………ふぅ」
と、そんな風になっている部屋のことなどいざ知らず。
ダキとフォールのいる二階の座敷部屋の前には、手土産の人形を抱き抱えながら正座して彼等を待つ、マリーの姿があった。
本来であればあの場所にも彼女がいて二人の話し合いを進行、監視するはずなのだが、何故かククル、ワフム、ニアンの三人に入室を咎められてしまったのである。
無理に入るのであれば武力行使も厭わないとまで言われては流石の彼女も押し入るわけにはいかず、こうして大人しく座敷部屋の前で星座待機しているというわけだ。
「ごめんなさいね、本当は通して上げたいのだけれど命令ですの……」
「……いえ、お構いなく。この島の管理を任されているのは此方ですが、実質上この街を支配しているのはダキ様です。それに貴方達はあの方直属の部下。となればどちらの命令を優先するかは語るまでもないことでしょう」
「……その割には不機嫌に見える。何が不満?」
ニアンの問いに、マリーの瞳は窓から見える雲を眺めた。
昼も過ぎ、そろそろ太陽も落ちてきた頃合いだ。まだ夕暮れには時間があるものの、気を抜けば直ぐにあの太陽は落ち、夜が来るだろう。
だから気は抜けない。今の自分がそうであるように、あの太陽から気を抜くことはできない。
「別に、そういうわけではございません」
「まったく、ニアンは鈍いでありますな! マリー殿はきっとアレが待ち遠しいのであります!! ……ます!!」
「ワフム姉様、うるさい」
「くぅん……」
「別にそういうワケではございません。確かにこの街で、いえ、この島で今晩辺りから始まるアレを気にしない者はいないでしょう。もしかすれば既に始めている者もいるかも知れない程です。……しかし、今はその様な事を考えているわけではありません」
「では、何を考えていらっしゃるのかしら?」
「……ダキ様の元へ彼を一人やっても良かったものか、と」
ため息のような彼女の飛ぶ焼きに、ククル、ワフム、ニアンの視線が交錯する。
そして彼女達は微笑むようにして肩を揺らしてみせた。
「確かにダキ様の堕落具合は有名ですわ。今頃、中はどうなっているか……」
「しかしマリー殿が気にする事でもございますまい! 些細なことです!!」
「どうせ変わらないこと。気にするだけ……、無駄。ボク達はおこぼれだけ気にしてれば良い……」
投げかけられる言葉に、やはりマリーはため息を零し手元の人形を抱き締めるばかり。
――――確かに、もう座敷の中では、今までの旅人や漂流者達がそうであったように、彼はダキの魔の手に弄ばれているだろう。時を忘れ、このまま堕落の中で果て絶えるだろう。
予測していなかったわけではない。可能性としてはルヴィリアも予想した一つだが、まさかこんなに簡単に終わるとは思いもしなかった。いや、どのみちか。アレが来れば例えどんな歴戦の戦士であろうとも逃れることはできない。既にこの島へ降り立ったその時から犯され、捕らわれているのだから。
それが今、あのダキによって誘惑に負けただけのこと。アレを待たずして、負けただけのことーーー……。
「兎角、そう慌てぬことです! きっと夕方までには終」
――――ダン! ダン!! ダンッッッッッ!!
「「「!?」」」
「い……、今の、今の音は何です!?」
突如として鳴り響いた三連続の破裂音にマリー達は一斉に立ち上がる。
座敷の中で何かがあった事は間違いないのだろうが、そこから争う音どころか声や物音さえも響いてこないとなれば側近部下であるククル達が乗り込まないわけにもいかなかった。
そうして彼女達は座敷の敷居を蹴り飛ばすように開き、衝撃の光景を目にすることになる。
「1つ、人の話は聞け。1つ、飯は粗末にするな。……そして、1つ」
その衝撃の光景とは、そう。
お椀を顔面から被って尻を突き出しながら気絶するダキ・ヒガンの姿であった。
「風呂に入れ。臭い」
「「「だ、ダキ様ーーーーーーーーーーーーッッッ!!!」」」
大変なことになりました。
「ふぉっ、フォール殿! 何をしているでありますかぁ!!」
「臭かった。ただただ、臭かった。何だコイツは、風呂に入っていないのか。水浴びをしていないのか、せめて体を拭くぐらいはしろ。連日酒浸りのせいで果てなく臭い。途轍もなく臭い。大変臭い。風呂に入れろ、何よりもまず風呂に入れろ。構わん頭から凍り水を被せて川に投げ込め。何なら足に重りも付けて沈めてしまえ。臭い。コイツはとても臭い。性格以前に体からゲロ以下のにおいがプンプンするほど臭い」
「そこまで言わなくても良いじゃありませんかっ! ダキ様、あぁ、ダキ様!! ご無事ですの!? いったい誰がこんな事を!!」
「クルル姉様はお願いだから下がってて……! 話が進まない……!!」
「フォール様、今から情報を貰うべき御方に対してこれは流石に……」
「臭かった。本当にただただ臭かった。これならまだ筋トレ上がりのシャルナの方がマシだ」
さらりと臭い宣言される四天王である。
「良いか? 情報を聞くにもこの臭さは異常だ。俺の飯を粗末にしたことも問題だが、それよりもまずこの臭さのせいで怒る気にもならん。風呂に入れろ。何よりもまず風呂に入れろ。ブチ込んでこい。その体臭だの酒だの煙草だのが染み込んだ尻尾を洗ってこい。話はそれからだ」
「ぶ、無礼な! フォール殿、この街にいる限り貴方がダキ様のご命令を聞くことはあっても貴方がダキ様にご命令できるとは思わないでいただきたい!! この街はわふぅん♡」
「よーしゃよしゃよしゃよしゃよしゃ」
「わふっ、わふっ♡」
「ワフム姉様、完全に調教されてる……」
「あの子、人懐っこいから……」
「お願いですからまともな話し合いをしていただけますか」
それができりゃ誰も苦労していないという話しである。
「……さて」
と、気を取り直して、大体の原因である勇者はワフムをあやしつつ衣服を整え直してみせた。
ぎゃあぎゃあと騒いでいる内に外はいつの間にか薄暗く、もう数十分もすれば夕暮れと呼ぶに相応しい頃合いとなっている。流石の彼もこのまま戯れに時間を潰すのは良策とは言えないと判断したのだろう。
それに何よりもう間もなく海賊達の元へ戻ると約束した時間だ。この腐臭駄狐を風呂に入らせる入らせない問答で無駄に時間を費やすほど余裕はない。
「まずは何よりも貴様に話を聞かねばな、ダキ・ヒガン。穏便にと考えていたが……、こうなった以上そんな悠長な話し合いは不可能だろう。力ずくでもルヴィリアの秘密とやらともう一人の顔役についても聞かせてもらうぞ」
彼の威圧的な問いに、ダキは顔からお椀を滑らせつつ彼を睨め付ける。
しかし自身の淫靡なる自信を打ち砕かれた彼女の双眸には当然ながら敵意しかなく、穏便にであろうと力尽くであろうと話し合いが上手く進むはずがないこと明らかだった。
「えぇ度胸やね……。この余を……! 『あやかしの街』が顔役、ダキ・ヒガンをコケにしてただで済むとでも……!?」
「下らん傲慢に胡座をかく小娘が顔役とは笑わせる。俺を誘惑したくばピンクスライムを持って……、いやいかんな、刺激が強い。もっとマイルドなもので頼む」
「麓の巻物屋にスライムの交尾場面が乗っている学術書ならありますけれど……」
「馬鹿な、18禁になるぞ!!」
「……マリー・クレチノフ。この男を連れて来た貴方を恨む」
「言わないでください。今全力でルヴィリア様を呪っているところです」
下らぬ喧騒の中、侮辱に侮辱を重ねられたダキは憤怒に肩を震わせていた。
――――今まで様々な者がいた。間抜けな者から賢い者、礼儀を知らぬ田舎者や奇抜なだけの者、堅物からただの変態まで様々な者がいた。
けれどそれ等全てが自分を崇めた。讃えた! 誰も彼もが頭を垂れ、やがては己の傀儡となった!! 頬で撫でられることも鞭打たれることにも涙を流して歓喜する者ばかりだった!! だと言うのに、何だこの男は? 何だこの無礼者は!?
こんなにも、こんなにも自身を侮辱した者が未だかつていただろうか。いいや、いない。そしてこれからもいて良いはずがない! 赦されるわけがない!!
「フ、フフフ……」
「……何だ、何が可笑しい? ダキ・ヒガン」
「いや、フフ。流石はあのルヴィリア・スザクが認めただけのことはある思うてなぁ。破天荒やとは噂に聞いておったけれど、この破天荒さはいただけん。こっちの流れもあっちの流れも何もかんも無視して我道を突き進む真っ直ぐさ……、それは時に危ういものやぇ。いや、何より危ういのはそれに気付きながらも突き進み続ける主の存在そのものやねぇ……」
「……ルヴィリアめ、やはり要らん知恵を振りまいたな」
「フフ、余がルヴィリア・スザクから貰うたんは知恵だけやないよ。勇者フォール、主を倒す為の知恵も貰うとる。……ほんまは余だけでやるつもりやったが、嗚呼、ここまでコケにされたらなりふり構っとる方が阿呆らしくなるなぁ」
こつんーーー……。
彼女の抱えていた煙管が煙草棚の縁を叩き、燻りを吐き出した。しかしそこには煙草の草など詰まっておらず、かと言って他に何が詰まっているわけでもない。ただの空吹かしだ。
だが先ほどダキが薄紫の煙を吐き出していたのもまた事実。ならば彼女はいったい何を吐き出していたというのか。
フォールはそんな思案に視線を細め、部下達の反応を探るべく横目を逸らす。そこにはまるで遠足を明日に控えたかのように嬉々と震えるククル、ワフム、ニアンの表情と、何かを理解したのか瞬く間に青ざめていくマリーの表情があった。
全く正反対の二つの表情が、あった。
「……何をするつもりだ」
「何やと思う? ……ホンマはなぁ、余はこんなやり方は好まんのよ。あの子やあるまいし、通すもん通したらキッチリ話して見極めよう思うたけれど、フフ。余の誘惑に耐える奴なぞまともでないわなぁ。当たり前やものなぁ。ほんなら、無理やりにでも沈めるだけやよぉ?」
こつん、と。
「『最智』は言うた。力で敵わず心で敵わず、頭で切迫するのならば、愛に溺れさせよ、と……」
ダキの麗しい唇に煙管の筒が浸り、すぅと息が吸い込まれる。
そして暗幕に覆われたこの部屋に、先程よりもいっそう濃い紫色の煙が舞い踊るのだ。
「ほな……、枯れ果てて貰おうか?」




