【4】
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――――嵐。
一言でそう述べようと、その実、陸の嵐と海の嵐は全くの別物である。
陸地には山があり、建物があり、大地がある。ただそれだけでも風が弾かれ雨が避けられ流水が飲まれるものだ。陸での嵐というものは少なからず大地の加護に護られることで豪雨と豪風の嵐として過ごすことができているのだ。
だがーーー……、海の嵐はその程度では済まない。風はあらゆる方向から吹き荒び、豪雨は銃弾が如く肌を打つ。潮風は白刃のように肌を凍らせば船甲板は右へ左へ大揺れだ。こうなっては立つどころか息をすることさえ難しい。
故に嵐は、海の死神なのだ。
「帆を畳めぇえええええええええええええええええええええええッッッッッ!!!」
「バカ野郎、火薬は積むな! 木箱同士がぶつかったら一発だぞ!!」
「掴まれぇええええええええ! 海に落ちたら洒落になんねぇぞォオオオオオオオオッッ!!」
そしてここに、そんな死神へ挑む蛮勇達の姿があった。
一般的には大規模であるはずの船が豆粒にも劣る矮小な存在と化すほどの嵐の中、彼等が操り支える船は有り得ないほど左右に振られながら進路を辿っていた。否、辿ると表現するほど緩やかに吹っ飛ばされることしかできていなかった。
沈没寸前の綱渡り。普通の船なら今すぐにでも引き返すような地獄を、蛮勇達は必死に歩んでいくのである。
「ぬぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「り、リゼラちゃんが吹っ飛んだぁあああーーーっ!!」
「リゼラ様ぁあああーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!」
ちなみに、ここにもそんな蛮勇達に付き合う無謀者が四人ほどいたり。
「……ふむ、覚悟はしていたが改めて凄まじい嵐だな」
「え、えぇ、俺もこんなに激しい嵐は久々でさァ。何でだか俺も昨日の記憶が……、って言うかお仲間が風に煽られましたけど……」
「奴等ならまぁ、どうにかなる。……それより進行方向に問題はないのか」
「そ、そりゃ帆がイッちまいそうな程ですが、フォールさんの為なら何のその! この程度の嵐で参るようなグレイン海賊団じゃねーですぜ。こんなもん女の涙の方がよっぽど痛ェですとも!!」
「何だ、泣かせたことがあるのか」
「え、い、いや、ないッスけどね? そこは、ほら、あの、比喩っていうか……、ハハッ。ふぉ、フォールさんはあるんですかい……?」
「……週三ぐらい?」
「流石はフォールさんだ……! 格が違ェ!!」
これぞ童貞海賊と勇者の差である。
「それで、キングクラーケンの目撃地まではどれぐらい掛かる? もう視認距離にあるのか?」
「いえ、判断は難しいッスね。この距離だから櫓に上がろうモンなら吹っ飛ばされてオシマイだ。方角はコンパスで測ってるから間違いねェはずだが、距離となると大分怪しい。この雨と嵐さえなけりゃ目測もできるんですがね……、まァ雷がないだけマシかもしれねぇですが」
「……となれば常に警戒していなければならないというワケか。厄介だな」
「この嵐じゃ迂闊に砲弾も詰められねェし速度を出すこともできねェ。真正面から馬鹿正直に突っ込んできてくれねェもんですかねェ」
「そう簡単に話が進めば良いがな」
冷静に状況を分析するフォールとグレイン船長だが、そんな二人から少し離れた甲板上では無様に転げ回る魔王の姿があった。
その華奢な体のせいで先ほど風に飛ばされ、今もなおそのまま海賊達の足元を縫って海水と豪雨に濡れた甲板を転がって、いや、滑走しているのである。
無論、そんな高速スケートをされては魔族二人も追いつけるはずがなく。
「アカンアカンアカン! リゼラちゃんメッチャ滑っとる!!」
「おい馬鹿やめろ御主なんかそれ普段から妾がスベっとるみたいにぃああああああああああああああ!!」
「割と余裕ありませんかリゼラ様!?」
だが、魔王に余裕はあっても距離に余裕はない。ツルツルと滑っていく彼女はあっと言う間に甲板の淵まで辿り着き、木製の手摺りへ激突する寸前だ。いや、激突するだけなら体を強く打つだろうが問題はない。
だが、もしそれを超えるような事があればその先はーーー……、全てを深淵へと屠る濁波が、待ち構えている。
「させるかぁっ!!」
そんな魔王の危機へ真っ先に反応したのは、ルヴィリアだった。
彼女は魔眼により海賊達の人混みを最速で駆け抜けるルートを選出。ただ走るだけならば決して追いつけない事を瞬時に把握し、迷わずスライディングを行うことでその狭間を駆け抜けた。
このまま行けばリゼラが海へ放り出されるよりも前に自分も淵の手摺りへ辿り着けるだろう、が、ここで問題が発生する。
――――カァンッ。
「あ」
「えっ」
リゼラ、まさかの双角が手摺りに突き刺さり停止。
ルヴィリア、そのまま手摺りで股間を強打して海へGO。
「「あのアホーーーーーーーーーーーッッッ!!」」
ミイラ取りがまさかのミイラに。
リゼラは直ぐさま角を引き抜いて甲板から手を伸ばし、白目を剥いて泡を吹くルヴィリアの手をつかみ取る。
しかし仮にも少女の体だ。その細い腕でルヴィリアの体を支えられるはずもなく、さらには雨と海水のせいで掴むことさえ難しい。彼女の指はリゼラの手からするりするりと抜け落ち、危うくそのまま落下しかけるが、リゼラはそれを両手で掴むことでどうにか阻止してみせる。
しかし、ルヴィリアがあの海面へ落下するのは時間の問題だと言えよう。
「おいルヴィリアァアアアアアアッ! 御主が落ちてどうするぅ!! 目覚めぬかアホぉおおおおッッ!!」
「き…切れた。ぼくの体の中でなにかが切れた…。決定的ななにかが……」
「御主の中に切れるモンなぞ無かろーが! 良いからはよ上がれ!! 無理! もう普通に無理!! 重すぎるわこの無駄乳めぇ!!」
「た、耐えてぇリゼラちゃぁああ~……ん……! おち、落ちたらマジで死ぬ……! 上がるからもうちょい耐えてぇえ……!! ぼ、僕との日々を思い出してパワーにするんだぁああ……!!」
「お、御主との日々を!?」
リゼラの脳裏を駆け巡る、四天王ルヴィリアと過ごした日々。
長閑な昼下がり、魔界の瘴気に揺られながら盗まれたパンツ。静かな夜、星を眺めつつ盗まれたパンツ。賑やかな朝、目覚めと共に盗まれたパンツ。四天王達との日々、盗まれたブラ。魔王謁見のあの日、椅子に変化していた変態。
「リゼラ様ぁあああーーーーっ! ご無事ですかぁああーーーーっ!! まだ耐えられますかぁああーーーっ!?」
「大丈夫じゃー! 今から重荷が減るからぁー!!」
「待ってやめてマジ勘弁してホント赦してリゼラ様お願いします何でもしますからぁあああああああ!!」
マジで見捨てる三秒前。
「でぇい騒ぐなマジで落とすぞ! と言うか御主、翼あるんじゃからはよ上がってこいや! 飛べよ!! フライ! ユーキャンフライ!!」
「無茶言わないでぇ……! この強風で飛んだりしたらそのまま飛ばされぅ、ふっ……! って言うかその前に股間がぁああああああ……!!」
「ンなこと言うとる場合か! こっちも手が限界……!! シャルナぁー! まだか、シャルナぁあああーーーっ!!」
リゼラの悲痛な叫びに応えるが如く、大きな手が伸ばされた。
その手は危うく落ち掛けていた彼女達を支えてくれたが、リゼラとシャルナの瞳に希望の色が灯ることはない。と言うか逆に、絶望の色が見事に灯ることに。
当然だろう。確かにその手は彼女達を支えてくれたが、いや、その足は彼女達を支えてくれたが、引き上げると言うよりーーー……。引き摺り込むために支えているのだから。
「……え、ちょ、これ」
「いやぁもうダメかもしれんね」
キングクラーケン、出現である。
「フォールさん! キングクラーケンの野郎が出やがりましたぁ!!」
「あぁ、確認している。砲門を解放して援護しろ。俺が突貫する」
「え、お仲間いますけど……」
「……………………では、やめておこう」
「今一瞬悩みませんでした!?」
「悩んでいない。変更しただけだ」
「つまり一回見捨てるのは決定したと!?」
「いいや、それもあるがそうではない」
「あっちゃ駄目でしょォ!?」
それが勇者クオリティ。
「何、貴様の言うことも一理あるが……」
「万里だと思います、フォールさん」
「あの巨体なのでな、砲撃を行っても当たるまいと血度は考えたが、逆だ。あの巨体に砲撃など無駄だ」
フォールが見上げるキングクラーケンの巨体。それは最早、海洋生物と称するには余りに巨大過ぎた。
確かに今まで彼が出会ってきた邪龍や神鳥、神魚、神獣に比べれば見劣りするだろう。だがそれらと比べる次元にあるほど、その巨体は途方もないものなのだ。
十ある足の一本はこの海賊船の主柱数本を纏め上げたモノよりも大きく、その巨体たるや天の嵐雲さえも突き抜けるほど果てしない。ぎょろりと剥き出しになった眼などは最早、太陽の煌めきさえも彷彿とさせるもので、体表に到ってはその巨大さ故かフジツボやコケと言ったものがひしめき合い一種の古代遺跡のような威厳さえも放っていた。
つまるところ、そう。それは余りにデカ過ぎる。想像とか想定とかそういう次元ではなく、一生物として余りに巨大過ぎたのである。
「た、確かにこりゃァ昔話や御伽噺の方が慎ましいってモンですぜ。頭が見えねェ……」
「いや、頭は見えている。貴様が言っているのは体のことだな。クラーケンは下から足、頭、体の順に構成されている。ちなみに足も十本のうち長い二本は触腕というもので……」
「いやフォールさん、豆知識講座の前にお仲間を救った方が良ろしいんじゃねェですかい!?」
「む、そうだな。講義は後回しとしておこう。今はキングクラーケンの捕か……、いや、討伐だ」
フォールは海雨滴る剣柄に指を掛け、白刃を豪雨の中へ晒し抜いた。
――――成る程、確かに強敵だろう。この脚場、この天候、この空間で戦うには余りに不利過ぎる。なおかつ生け捕りときたものだ。決して安易に終わることはないだろう。
だが、想定の範囲内。例えこの規模であろうと戦い方がないわけではないし、所詮は生物。如何様にも気絶させる術はある。さらにこちらにはシャルナ、ルヴィリアという手駒もあるのだ。安易ではなくとも、失敗する要素など一つもない。
となれば、遅延させる理由などあるまい。一応リゼラとルヴィリアも捕らわれている様だし、さっさとあのキングクラーケンの眉間に一撃を撃ち込んで気絶させてーーー……。
「…………」
「……フォールさん? どうしたんですかい?」
「グレイン。人間というのは単純なことを見落としやすいと思わないか」
「は? え、えぇ、はぁ」
「そしてそれが時として致命的な欠陥となることも多々あるものだ」
「そう、ッスかねぇ?」
「うむ、例えば……」
フォールは構えを解き、長靴の先を甲板に擦らせながら振り返る。
彼が何を言おうとしたのか全く理解できていなかったグレインだが、その動作に連られて振り返るなり全てを一瞬で理解することになった。嫌でも、理解しなければならないことになった。
真っ白というには余りに濁り、白濁というには余りに汚れたその巨体。天雲を貫き壁と言うよりも山に聳える遺跡が如き荘厳さを誇る、その巨体。最早見上げることさえも拒否することを望んでしまうほど絶望的なまでの、その巨体。
――――二つ目の、巨体。
「巣というものはつがいが作るものではないか、とかな……」
「あぁ、なるほど……」
暴れ狂い、荒れ狂い、乱れ狂う嵐の中。浮かび叫ぶは白き塔。
これより始まるのは勇者一行とグレイン海賊団の英雄譚たる戦いか、それとも巨大モンスターによる海の藻屑を作る変わらぬ日常か。
その先を知る者はただーーー……、この場に一人しか、いない。




