【3】
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「ふぃー……、危なかったねぇ」
夜風に緋色の髪を靡かせながら、ルヴィリアは灯火揺れる甲板の高台へと身を乗り出していた。
既に夕焼けも暮れ果て、薄暗く雲の懸かる空に見下ろされる甲板には、常駐の海賊が数人ほどしかいない。あの抜け駆け海賊もどうやら降ろして貰えたようで、水平を染め尽くす漆黒のように辺りは静かなものだ。潮風に消えるほど擦れた自身の口笛が鮮明に聞こえるほどの、静寂だ。
「あのテの奴は一度暴れ出すと手が付けられんからな。落ち着くまで放置するか強制的に落ち着かせるに限る」
「素晴らしいブーメランだね。お幾ら?」
「プライスレス」
お、ねだん以上。フォール。
と言う訳でそんな甲板の高台にはもう一人、ルヴィリアと同じく二名ほど見捨てて逃亡してきた勇者の姿があった。ついでに、その手には昼間の残りである炙り刺身と海賊達からお裾分けされたのであろう東洋酒及び盃の姿も。
大体、今すぐ部屋に戻っては魔王達が怒鳴り込んでくるのが目に見えてるからほとぼりが冷めるまで雲隠れしようーーー……、とそんなところだろう。
「にゅふっ、にゅふふふふ。それにしても気が利くじゃないかフォール君! にゅふ、にゅふふふっ!! 炙り刺身に東洋酒とは解ってるねぃ!!」
「まぁ、ただ暗闇の海を見つめるだけというのも味わいがあるまい。嵐雲さえなければ星をつまみにしても良かったが、この闇だ。どうせなら酒の一つでもなければな……」
「ひゅぅー解ってるぅ! いやはや、フォール君ってばお酒とか滅多に呑んだりしないから弱いのかと思ってたよぉ」
「一応子供がいるのだ。目の前で呑むのは常識的にな……」
「うーん、今なんか君の口から出ちゃいけない言葉が出た気がしたかな!」
常識。
「にしても、初めてじゃないかい? 君と僕とのサシ呑みなんて。たまぁーにシャルナちゃんも含めて呑もうとすると絶対リゼラちゃんが起きてくるからねぇい」
「酒もかっ喰らうからな。検問所前の平原ピザ祭りでは大変な目に遭った……」
「にゃははは! 懐かしい懐かしい!!」
楽しげに手を叩き会わせるルヴィリアと、その隣で酒とつまみの準備を進めるフォール。
いつもは蒼き水平を見つめるばかりの、二人も入ればいっぱいいっぱいな物見櫓の高台。いつの間にかそこは小さな宴の会場になっていた。
「いやぁ珍しいね、フォール君がここまで優しいなんて。いつもは僕を身代わりにさっさと逃げちゃうのにさ」
「……何、妖怪島の話を聞いてから貴様とは一度ゆっくり話さねばと思っていた。丁度良い機会だ」
「へぇ、ペット論についてかい?」
「それでも構わんが、もっと話すべきことがあるだろう。……お前も解っているんじゃないか」
ルヴィリアの目の前に差し出される、盃に注がれた漆黒の東洋酒。
いや、その湖面は全てを映し出す鏡が如く透明なのだろう。ただ、空が黒いだけだ。
映すべきものが、黒いだけだ。
「……鋭いね、君は。いつかの湖の側で話したことを思い出すよ」
「あの時は酒などなかったがな」
「ウフフ~。酔わせて何するつもりだぁ~い?」
「海と空、どっちが良い」
「待って何で大砲の方見るのやめてやめて」
沈むか飛ぶかの二択である。
「はぁ、解ったよぅ。君からの追求を逃れられるとは思わないし、話ぐらいするさ。お酒とおつまみまで用意されちゃ逃げ切れないしね」
「何だ、意外と素直だな。貴様ならばはぐらかすと思っていたが」
「流石の僕だってここまできたら『え? 何だって?』で流すみたいなことはしないさ。これでも耳は良い方なんだよん」
「そうか。ところで最近、リゼラとシャルナが下着窃盗犯の処刑に対する証明を提出して来たわけだが」
「え? 何だって?」
「突き落とすぞ」
沈むのがお好みなようで。
「……ま、まぁ、それは兎も角さ。聞きたいことはそんな事じゃないんでしょ?」
ただでさえ狭い高台に足を放り出しながら、ルヴィリアは差し出された盃をぐいと一気に飲み干した。
フォールもその足を避けつつ、盃を仰ぐ。海賊達が持っているだけあってかなりアルコール度は高いようだが、この程度で潰れるほど二人も弱くはない。むしろ潮風に痺れる唇を舐めて味わいを深める余裕があるほどだ。
いやいや、元よりこんなつまみを前に潰れる方が勿体ないというものである。
「僕だってさ、別に隠してるわけじゃない。だけど物事には明かすべき時期ってものがある。……でしょ?」
「……一理、あるな」
「君には君の為すべきことがあるように、僕もそうさ。君が知るにはまだ早い」
「だがいつかは知ることだ。違うか?」
「だろうね。君ならいつかは必ず知るはずさ。……それでもそのいつかまでを待つことに意味がある」
炙り刺身を摘み上げ、ルヴィリアは口へと放り込んで指についた脂をなめ取った。
しっとりとしていて冷めてなお香ばしい香りが口の中へと拡がっていく。彼女はそれを漆黒の酒で流し込んで。
「僕はね、フォール君。義務や責務なんて言葉はあんまり好きじゃない。ただ、そうしなければならない理由があるモノってのは解ってるつもりさ。……僕の立場と君に対しては、特に、ね」
「そこまで秘匿するものなのか。貴様が隠す理由は解らんでもないが……」
「あぁ全く秘匿するものだとも。勘違いしないでおくれよ? フォール君。僕は君のことをリースちゃんの一件で信頼するようにはなったが、信用となるとまた話は別なんだ。……僕はまだ、君を信用しちゃいない」
「……ふむ」
フォールもまた、炙り刺身を持ち上げて盃と共に仰ぎ呑む。
然れどその指を舐めることは、しなかった。
「リゼラちゃんやシャルナちゃんは、確かに君を信用してるかもしれない。それが良い意味か悪い意味かは置いておいてね。けど僕はそうはいかないのさ。智将だからこそ、僕はまた別の視点を持つべきだと考えてるんだ」
「義務や責務という言葉は嫌いなんじゃなかったのか」
「……そうだよ。けれど理由は解ってるから僕は義務や責務を果たすんだ。隠し通すことは大変だし、きっと成し遂げられることはないだろうけれど、ただほんの僅かな時間稼ぎとして僕の役目はあると思ってる」
「随分と重苦しく背負う奴だ。そのように偽る理由が解らん」
「おいおい、偽りも続ければいつかは真実になると僕に教えてくれたのは君だぜ? 有り得ないけれど、有り得てはいけないけれど、いつかその偽りの真実が真なる真実になることを夢見るのが僕なのさ」
盃へ、緋色の瞳が揺らめいた。
漆黒を照らす灯火よりも明るく、果てなく続く闇よりも深い、瞳。その瞳が見つめるのは勇者でも自分自身でもなく、もっと、先にあるものだ。
いいや、先ではなくーーー……、或いは過去にあるものかも知れないけれど。
「……僕は思うのさ。フォール君」
「何がだ」
「君は嘘も貫き続ければ真実になると言った。僕はその言葉も、うん、嘘じゃないと思ってるよ。帝国での聖女エレナのことがそうさ。あの国は権威と伝統のために彼を聖女としたが、後々彼は本当に聖女になった。いや、役職や立場は変わっちゃったけど……、信仰や尊敬される立場という意味でね」
「…………ふむ」
「これはさ、君が帝国で行った宣言のように……、いや、宣言そのものだと思う。それはいつしか嘘ではなく宣言となり、実現すべきものとなった。つまるところ、君が貫き通せば真実になると言ったものは、嘘であり真実でもある二面性を持つわけだ。……嘘を真実にするためのモノなのだから、当然だけれどね」
「では……、貴様もその二面性を持つと?」
「ううん、僕はその二面性を夢見る者であって、何処まで行っても嘘のままさ。僕は真実を夢見る嘘なんだ。……そう、僕はね」
緋色の瞳を映していた漆黒の酒が、フォールの盃へと注がれる。月もなく、星もなく、天地さえも存在しないこの世界に赦された唯一の光を差し向けるかのように、その雫は流れゆく。
ただ、彼の盃へと満たされるかのようにーーー……。
「君はどっちだい? フォール君」
――――フォールは、言葉を発することはなかった。ただその一献を仰ぎ呑み、再び彼女の盃へ酒を注ぐ。それを返答としたのだ。
答えることを拒否したのか、問い自体を拒否したのかは定かではない。だがその拒否という行為そのものが彼の答えであることに違いはなかった。
「……少し、話が逸れちゃったね。僕が秘匿するのに君は喋れっていうのは酷い話だ」
「いや、こちらも追求した以上、文句は言えまい。……貴様の隠し事については自分で突き止めることにしよう。酒の席でこれ以上の問答も無粋というものだ」
「はぁ、そっちも結構無粋なんだけどなぁ。……ま、僕としては挑戦状として受け取っておくよ。その分、僕も君を全力で潰」
「スライムの生息地は天命が如く与えられるものだからな……」
「えっ」
「えっ」
えっ。
「……いや、秘匿」
「何だ、スライムの生息地を知ると俺が単独行動するから隠していたんじゃないのか」
「いや、それもそう、いや、だから、いや、ちょ、いや、おま、いつかは、だって、いや? あれ? うん? あるェエ!?」
ルヴィリアはそのまま、数秒のフリーズと満面の笑みを経てフォールの顔面に蹴りをお見舞いした。
まぁこんな狭い場所でまともな蹴りが放てるはずもなく、軽くいなされて引っ繰り返ることになったり、その際に彼女と酒が落ちそうになってフォールが迷わず酒を取ったせいでルヴィリアが夜の海に落ちたりと、やっぱりしんみり夜長の晩酌風情などでは終わってはくれないのだがーーー……、明日に起きる事件の前には些細事として片付けられよう。
誰もが目を覚ました時にその豪雨と豪風を聞くことになり、陽の輝きを失ってしまった嵐の中で起きるであろう、事件に比べれば。
――――そこから始まる、事件に比べるならば。
「フォール君助けてぇええええええええええええ! 夜の海超怖えぇええええええええええええええええええ!!」
「む、いかんな。つまみがもう無い。序でだルヴィリア、ガロラ・マーダイウンフィッシュをもう数匹ほどだな」
「悪魔か君はぁああああああああああああああああああっっっ!!」
些細事、かもしれない。たぶん!




