【2】
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「くふー……くふー……」
獣が歯牙の隙間から漏らすような、吐息だった。
移ろう眼は暗天の端を捕らえ、僅かに動く雲の切れ目に瞳を流す。
――――四肢が痺れ、随が絡まってしまったかのようだ。泥が冬場の毛布のように自身を絡めつけ、深眠への誘いとなる。耳への空鳴りが呼応して酷く五月蠅いが、それでいて頭の中はとても静かなものだった。
今、どうなっている? どうしてこんなにも体が動かない? 自分が見上げている黒いものと白いものは何だ? 剣はあるのか、腕はあるのか? いやそもそもどうして剣を握っている? 自分は、何を、して、いたのか?
「……あぁ、クソ」
見えている黒は雲だ。見えている城は城壁だ。
そしてそれを覆う土色はーーー……、足だ。
「楽しいじゃねェの」
泥の布団から弾けるように飛び出た閃光がアストラ・タートルの爪先を斬り裂いた。
いいや、爪先と言うよりは爪先だ。人として爪を持つ者ならば、爪切りを使う程度の白爪。
故に無論、怪亀からすればそんな斬撃など被害のひの字もないようなものだろう。激震は未だ止まらず眼前の城壁へその巨躯を叩き付け、重圧な壁へ破槌による軋轢の雨を降らす、かに思えた。
しかし未だアストラ・タートルは城壁ーーー……、恐らく数度の体当たりで崩壊するであろう屈強ながらに脆弱な壁へ向かうことはしなかった。あと数歩で辿り着くその数キロ先へ当たることはしなかった。
必然だ。この怪亀には城壁へいく理由、自身を惹き付ける剣よりもまず潰すべき存在が、あったから。
ちらちらと舞う蝿のようで、その実は牙を持つ獣。その男の存在が、あったから。
「クケァハハハハハハハハハハハハッハッッッッ!!」
爪先を裂いた斬撃はそのまま螺旋を引くように巨足ーーー……、幾多に纏めた大樹より太く塔よりも高いアストラ・タートルの足を駆け上がる。
怪亀はそれを嫌ったのだろう、即座に土鍋のような巨躯から伸びる一足を振り払って男を叩き落とした。 男は水瀬に投げた小石のようにぱちりぱちりと跳ね回り、それだけで数百の間を吹っ飛んでいく。常人なら大凡耐えられないであろう距離を、同じく耐えられるはずもない衝撃を受けながら。
「くふー……は……くふー……はァ……ァハ……ハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッ!!!」
負傷の疲息がそのまま戦乱の嗤叫に繋がる。この男は、そういう男だ。
闘争を楽しんでいると言えばそれまで。しかし実際は八つ当たりに等しい。
求め続けた男に逃げられ、剰えその男と知らず優雅な追いかけっこを楽しんでいた身だ。荒れない方が無理と言う話である。
もっとも、その男が今、奇しくも彼が護っていることになっている帝国で、その城で、激戦を繰り広げることになろうとは、彼自身も知る由はないのだろうけれど。
「ィヒヒッハハハハハハハハハハハハハハハッッ!!」
獣は喋らない。ただ吠える。
しかし皮肉か、獣同士の戦いにも拘わらず彼等の実力差は余りにかけ離れていた。否、実力差と言うよりは体格差ーーー……、蛮獣闘争で言えば然りであるが、体格差がそのまま実力差になっているのだ。
彼、メタルの機動力を持ってしてもアストラ・タートルの体躯を駆け上がることは難しく、また攻撃力を持ってしても厚い殻鱗を斬り裂くことは難しい。先程そうであったようにアストラ・タートルも足や体躯と違って降り積もった土嚢や殻鱗に覆われていない自身の頭部が弱点であることは理解しているからだ。そこまで行かせるわけがない。
「頭ァー……、頭ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
然れど未だ、獣は吠える。嗤う。牙を剥く。
圧倒的に不利な闘争にも拘わらず、幾度となくその巨体へ、背中に一つの島を持つ怪亀へと挑み続ける。
愚直に足を登り、その度に振り落とされ続けるという狂劇具合だ。常人なら、いや常人でなくとも既に満身創痍だし、少なくとも猿以上の知能を持つのなら別の手段を執ろうと思いつくものだろう。
しかしこの男、戦闘時において猿以上の知能がない。叫び走る斬る嗤う以外の選択肢がまるでない。
幸運にもその単純性がアストラ・タートルをその場に足止めする要因となっているわけだがーーー……、このままでは男の無謀もいつかは削り切られてしまうというものだろう。
「ァィヒヒヒイハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!」
まぁ、無限に果てがあればの話だが。
「ィイイイイイイイイイイイイイイヤァアアアハハアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
既に、叩き落として何度目だ。数え切れない年月を生きるとは言え獣である怪亀も無限の無謀に辟易としてきた頃合いか。
未だ衰えを見せない獣に対し、怪亀は地面へ伏す男に対して大きく息を吸い込んだ。気流が乱れ暗雲の流れが変わるほどの吸引だ。
――――そう、火炎放射である。
「来るかァアアアアアッッ! アストラ・タァアアアアアトォオオオオオオオオルゥウウウウッッッッ!!」
爆炎の雨に降られながら、男は狂気の笑みを浮かべ刃を振るう。
焔の上昇気流が頬を焼き、鼻先を焦がし、眼を乾かせる。衝撃の濁流か、滅火の慟哭か。
どちらにせよ、この一撃はーーー……、躱せ、ない。
「じゃあこっちも行かねェとなァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
躱せないのなら、突っ込もう。それだけのことだ。
メタルは真正面から勇猛果敢たる軍隊が如く突っ込んでくる火炎の波に対し、戸惑うことなき突撃を見せた。肌が焦げ衣服の端々が燃え髪先がちぢれようと構わない。ただ、突っ込んだのだ。
その結果が生むのは、跳躍。火炎の凄まじい勢い故に爆風が城壁に跳ね返り、そのまま彼の体を押し上げたのだ。そこに元来の跳躍も加わればアストラ・タートルの頭までとどく刃となろう、が。
怪亀もまた、それが解らぬほど耄碌しているわけではない。
「……クソ亀め」
爆炎の波を抜けた先にあったのは、土色だった。大地だった。
あの巨体で、龍ではなく竜と呼ぶべき寸胴な体で、自身の頭に目掛けて飛空してくる男に対し、踏み付けを放ったのである。
――――その結果がどうなるかは語るまでもあるまい。山一つ島一つと称される巨躯が全体重を駆けた踏み付けを行ったのだ。それだけで城壁に隔てられたはずの帝国の家々は揺れ動き、旧いものならばそのまま倒壊してしまうほどの地震が巻き起こったのである。
無論、その下敷きになった男は後千年は残るであろう亀裂の中でーーー……、生還していた。
「フー……、ヒハハハッ、フー……!!」
――――耐えている。この男は、耐えている。
柔らかい草原の泥地が衝撃を吸収したか? それとも慣れない体勢での脚撃故、そこまで威力がなかったのか? いやはや、或いはもっと別の要因があったのか、と。
怪亀はひたすらに思考を巡らせる。獣の脳で、足下で耐えている男に大して考えを巡らせる。
そして同じ獣故に、等しき怪物故に、一つの応えに辿り着くのだ。それは決して難しいことではなかったが、同時に男の成している難易を理解するものでもあった。
「ハハハハハッ……! ァ、ア、ハハハッ……!!」
成長しているのだ、この男は。
「何見下げてンだ、テメェ」
獣の本能が幾度と無く警報を繰り返す。白日の下、天敵を目の前にした草食動物のような激報だ。
――――この男は危険だ。羽虫でも草食動物でも、ましてや肉食動物の類いでもない。己の島背に住まわせようものならば全てを喰らい全てを滅ぼす、異貌の徒だ。何よりも知恵者である風を装っておきながら何よりも貪欲で単純な、怪物ーーー……。
これが、人間か。
「頭を……、垂れろ」
巨足に耐えていた腕が弾き飛び、巨大な大地を天へと弾き挙げた。
自身の瞳ほどもない羽虫が、その体躯を浮き上がらせたのだ。アストラ・タートルからすれば脅威以外の何ものでもない。踏み潰せば踏み潰すほど肥大化していくこの男の狂気と戦力など、最早、脅威以外の何と言うのだろう。成長ではなく変貌を続けるこの男を脅威以外の、何と。
「ゲ、ェ、ア、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!!!」
メタルの嗤叫はアストラ・タートルにとって虫の羽音ではなく、獣の呻きと化していた。警告であり主張であり宣言である呻きと化していたのだ。
幾度叩き落とそうと業火を喰らわせようと踏み付けようと、この男は止まらない。止まるはずがない。
「俺にィイイイイイイイイイイイイイイイ!! 頭を垂れろォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
城壁を背に、繰り広げられる激闘。
対峙するは神鳥、神魚に続く『神獣』アストラ・タートルと、急速な変貌を遂げ続ける『最強』を求める男、メタル。
本来であれば誰もが祈り、そして運命さえも然りと認めたこの戦いを知る者はいない。
人々が願うのは裏の戦い。本来の運命になど決して存在しなかった、存在してはならなかった決戦の決着。
表であるべきだった裏、裏であるべきだった表。その二つが交わるべきでないと言うのなら、どちらが表で、どちらが裏であるべきだったのだろう。そしてそれ等が交わるとするのならその時、いったい、何が起こると言うのだろうーーーー……。
それを知る者は未だこの決戦の渦中に、いない。




