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「勇者が発ったというのは本当か? 側近よ」
明けることなき夜に君臨する魔王城。その頂点なる一室にて、玉座に座す双角の女は斯く言い放つ。
たわわな胸とすらりと延びた白脚。如何なる雄をも誘惑する絶世の美貌と数多くの雌さえも惚れ惚れとさせる深淵が如き黒髪。蠱惑の声色放つ妙齢の姿は、万人を魅了することであろう。
彼女は魔王であった。幾千という魔族の頂点に君臨する最強の魔王であった。指先一つで国さえ滅ぼすほどの力を持ち、微笑み一つで種族を傾かせるほどの美貌を持つ、魔王であった。
「は、間違いありません……。北の四天王様から御報告が……」
夜天より降り注ぐ月光を通すステンドグラス。その輝きを受ける女の影に藍色の頭を下げるのは、男物の執事服に身を覆った女魔族だった。
凛々しい顔立ちに、精悍な口調。魔王のように立派な双角こそ持ち得ないが、彼女もまた魔王と同じ魔族である。そして、その名の通りこの一室に存在を赦された唯一にして魔王の右腕とも言える魔族でもあった。
「フフ、そうか……。ならば良い」
魔王は満足そうに指先を振るった。そこには歓喜の色があり、その頬にもまた等しい彩りがあった。
――――現在、王国歴2100年。人類と魔族の戦争が始まってから2000年以上が経過していた。
人々は最古より魔族と争い、その中で諸悪の根源である魔王を倒すため女神の祝福を受けた『勇者』を選出して、その者を筆頭に戦乱を繰り広げてきた。これが歴史の基本事項であり、書物の中には証明として勇者と魔族の激闘が多く綴られている。
だが、それも過去の話。現在では魔族と人類は膠着状態に入って長く、それに連れて勇者と魔王の関係性も形骸化したものになっていった。さらに、十数年前のとある事件が原因で人間と魔族の戦争は完全に離別し、冷戦であって冷戦ではない、非常に極地的な競り合いばかりが続く、そんな状況になっていた。
従って魔王と勇者は畏怖されるものでも称賛されるものでもなく、然れど軽視されるものでもない、奇妙な関係へとなりつつあるわけだ。
「この安穏とした、酷く退屈な歴史に終止符を打てるということだな……」
だが、今代の魔王はその状態を酷く嫌っていた。
勇者と魔王は殺し殺されるべき存在である。浅ましく足掻く人間どもの希望として道化を演じ、其の仮面を踏み潰してやることこそ魔王の役目である、と。
つまるところ、彼女は熱心な魔王であったわけだ。歴史書に綴られる勇者と魔王の関係に憧れ、望み、そう在るべきだと信じて疑わない魔王であったわけだ。
絶対的な自信と確信的な使命によってこの座に君臨した、魔王であったわけだ。
「悲願叶うその時が来た、ということだ。勇者を殺し、人界を恐怖に陥れ、我々が人間どもを殺し倦ねているあの事件を解明する事こそ……、我が悲願!」
「遂に戦いが始まるということですね……。もっとも、目的の一つである人間風情が四天王様達を打ち破り、その証を手に入れてこの魔王城まで辿り着き、結界を解除できるかは怪しいところですが……」
「クックック、確かに四天王達は誰も彼も強者揃い。人間風情に倒せるとは思わぬが……、しかし辿り着いてもらわねば困る」
魔王はこつこつと、台座を指先で叩いた。
それと共に風が巻き起こり、周囲の燭台が、大理石の柱と紅色の絨毯に映る影を揺らめかせた。
「無様に足掻くことこそ、人間の役目……、だからですね?」
「然り。クク、解っておるではないか。愚かしき人間の頭蓋を掲げ、羽虫の村々を潰してやろう。希望の旗印をこの脚で踏み躙ってこそ、価値があるというものだ」
「おや、では如何いたしましょう。四天王様たちが敗すとは思えませんが……」
「奴等では手も抜けまい。ならばこの魔王城の結界を解除して、招待状でもくれてやろうか」
「それはそれは、勇者の身に余り過ぎる光栄でございましょう。……フッフッフ」
「クックック」
「フフフフフフフフ」
「「アーハッハッハッハッハッハッハッハ!!!」」
豪華絢爛、闇夜に濡れる宝玉が如き一室に甲高い嗤いが響き渡った。
これより愚かしき勇者は東西南北の四極を守護する四天王に挑むことだろう。その最中で死すか、それとも彼女達を打ち破るかは定かではない。
しかし、この魔王城に辿り着いた時、その物語は終焉のピリオドを打つ。古来より魔族を滅ぼすべく戦って来た女神の手下が、無様に屍を晒すこととなる。
さぁ、来るが良い勇者よ。幾多の難関を越え、彼の事件の謎を引っ提げ、間抜け面を晒しながら妾達の元へドガッシャァンッッ!!!
「「ぅぁあああぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁあーーー……」」
何故だろう。全てがゆっくりと、空より降り注ぐ天粒を見上げたようにゆっくりと。
ステンドグラスが散り砕ける。自分達の声が間延びしている。燭台の焔が掻き消える。暗闇に光の雨が降る。その刹那に影が落ちる。
そして時は動きだし、衝撃の乱気流が彼女達の笑い声を掻き消した。
「…………は、は」
完全に笑い声が尽きた時。
魔王と側近は数秒の停止から、ステンドグラスの残骸と落ちてきた影を交互に指刺して確認する。しかし事実は変わらない。
脳裏を過ぎるのは魔王就任の御祝いで改築した時の思い出。確かあのガラス120万ルグした気がする。これ良いんじゃね? あー良いですねー的なノリで購入して経理係にめっちゃ怒られたっけ。うふふ、懐かしい思い出ーーー……。
「……魔王は何処だ」
静かに言い放たれた言葉は、男の腰元から引き抜かれた白銀に等しくーーー……、月光に照り赫うていた。
「…………えっと」
「…………誰です?」
事態の把握が追いつかない魔王と側近は、力無く項垂れた指を向けたまま、唖然と口を押っ広げるしかなかった。
飛び込んできた、うん。窓から、この男は飛び込んできた。ステンドグラスをブチ破って、飛び込んできた。
いやしかし、おかしい。ここはとても高くて有翼モンスターでも飛んで来れない高度だし、っていうか四天王達の結界が張られてるし、そもそも魔王城だし、そこら辺のモンスターとか来ちゃダメなトコだし。魔族とか来たら死刑待ったナシだし。と言うことは、そう。この男はアレか、反逆者か。
「勇者だ」
勇者だった。
「……き、貴様ァアアアーーーッッ!! どうして先ほど村を出たはずの貴様がここにいるのですかぁあああーーーっ!!」
「走ってきた。で、魔王は何処だと聞いている」
「え、だって魔王城の結界……」
「そうだな、少し痺れた。で、魔王は何処だ」
「「質問にちゃんと答えろぉおおおおーーーッッ!!!」」
「貴様らこそ答えてくれ。魔王は何処だ」
ぜぇぜぇと息を荒げながら勇者を睨み付ける魔王。彼女はやはり未だこの現状を理解しきれていなかったが、大きく息を吐いて呼吸を整えた。
そうだ、落ち着け。奴が勇者なはずはない。側近の言う通り、勇者はついさっき『始まりの街』を出たばかりなのだから、ここまで来れるワケがない。それにこの魔王城の結界は初代魔王から続く最強の隔絶だ。これもまた、超えられるわけがない。そう、超えられるわけがないのだ。
「ふ、ふふ……」
それに、どのみち奴がどんな方法で来たとしても関係ないではないか。ここは魔王城で、自分は魔王だ。ならばやるべき事は一つ。相手が勇者を騙るならばそれも良かろう。良い予行演習になるというものだ。
「出口を塞げ、側近よ……」
そこには威厳を取り戻した魔王の姿があった。
彼女の堂々とした姿を見て、側近も冷静さを取り戻したのだろう。彼女は一度の頷きと共に乱れた吐息を調える。
「この愚か者に現実というものを教えてくれようではないか!!」
「はっ!」
側近は両腕を拡げ、禍々しい骨の翼を出現させる。そして跳躍、否、飛行。天井を蹴り飛ばして加速し、勇者を名乗る男の頭上を軽々しく飛び越えて魔王の間にある、唯一の出入り口(※現在は二つ)前へと降り立った。
そして両腕を交差させてから何かを呟くと、翡翠を帯びた透明の半円体が魔王と勇者名乗る男を覆い、さらには魔王城の頂上一角を球体状に包み込んだ。
そう、勇者の逃げ道を防ぎ、戦いの余波から魔王城を守るための結界である。
「フフ……、奴の結界魔法は妾も認めんとするところ。この城に張り巡らされた結界と併せれば、妾の攻撃にさえ凌いでみせようぞ!」
その上、と魔王は付け加えて。
「側近があそこにいる限り、御主はこの部屋を出ることすらできぬ。即ちこの部屋こそ御主の棺桶ということだ!!」
表情こそ陰ってよく見えないが、よくよく観察すれば男の装備はそれはもう貧弱なものだった。
流浪の旅人かと思うほど貧相な服に、街角で売っているような冒険者向けの剣。盾は持ってないし、それらしい魔法装飾品だって携えている様子はない。
何とまぁ滑稽なことか。こんな男、自らが処分しなくともそこら辺に放り出しただけでモンスター達の餌だろう。いや、それでも構わないが、折角の文字通り降って湧いた好機だ。ここで一端練習しておくのも悪くはない。
そしてこの男をズタボロにして人里へ送り返してやれば我々への畏怖も高まるというもの。ステンドグラスを失ったのは痛手だったが、こんな馬鹿をプレゼントしてくれるとは意外と幸先が良いのかも知れない。いや、良いに決まっている。
「……奴が出口を固めたということは、貴様が魔王か?」
「その通り。妾こそ第二十五代魔王……、カルデア・ラテナーダ・リゼラである!!」
誇り高き初代魔王カルデアの名を継いだ栄光の証。その名を聞いた者は恐怖に震え、汚らしい天へ祈ることも忘れ彼女に頭を垂れる。
歴代最強の魔力を有すと讃えられ、傾国の美貌は如何なる者をも魅惑の渦へと投げ込むほどだ。
自惚れでも傲慢でもなく言おう。妾こそ最強の魔王である、と。この豊満な胸も白雪のような指も美脚も、美貌も魔力も、妾こそが最強である、と。
この、カルデア・ラテナーダ・リゼラこそが。勇者を打ち破り、この世界を闇に染め上げる最強の魔王なのだ。
「臆せ怯えろ泣き喚けッ! 魔王リゼラの前に恐怖の嗚咽を零すが良いッ!!」
両腕を拡げた彼女の周囲に展開する幾千の火炎球。
視界全て、否。魔王の間全体を埋め尽くすほどの業火。それ等は轟々と猛り狂い、絨毯や装飾を端々から燃やしていった、融かしていった。
夜天に輝き世界を照らす業火にさえ劣らぬ、極天の炎だ。触れれば万物を融かし、擦れば骨を燃やし、近付けば肉を焦がす。
人間一人なぞ、毛先一本さえ残さない。
「……魔王よ、取引したいのだが」
「今更命乞いなど聞くものかッ! 妾の業火に灼き尽くされるが良いわ、虚言者めがッ!!」
全ての火炎が一点に集中し、魔王リゼラの頭上に極大の刀剣を作り出す。
終焉の焔剣ーーー……。幾千の業火を収束させて創り出す、終焉を刻む焔の剣。これこそ彼女が持つ最大級の一撃であり、最上級の火炎魔法である。この一撃を真正面から受けて耐えられる者はおらず、余波でさえも防御の結界魔法を極めた側近にしか耐えられる者はいないだろう。
衝撃で城は半壊しようが、構うものか。虚言吐く愚かな男にくれてやるには派手過ぎるこの一撃が良いのだ。この魔王リゼラを侮辱したことを後悔させながら、近い将来燃やし尽くす勇者の姿を空想きながら放つには。全ての始まりとして撃ち上げるには、この一撃こそが。
「地獄の淵で懺悔し、女神めに頭を垂れるが良い! 己は魔王を欺くことができませんでしたとなぁ!!」
「魔王、話を」
「くらぇええええええええええええええええいッッッ!!」
勇者を名乗る男は一息つくと、緩やかに剣を引き抜いた。
見た目通りの鈍らだ。終焉の焔剣の紅飛沫により刃が溶けているではないか。それを振り切った頃にはもう、きっと刀身だった液体を振り飛ばすだけの玩具に成り下がっているだろうに。
にも関わらず、男はその剣を構えることなく、我流にしても余りに乱雑な型で振り抜いた。同時に魔王はまるで子供の喚きだなと失笑染みた軽蔑の視線を向けながら、灼炎の一撃を撃ち放つ。
さぁ、狼煙をあげよう。これから平和に欠伸する世は終わるのだ。魔族と人間の戦乱に惑い、誰もが妾に恐怖する世界が始まるのだ。太古より有り得た、初代魔王カルデア様が望んだ憎悪と破壊の世界が来るのだ。
魔族と人間が在るべき姿で闘争する世界が、来るのだ。
「聞けと……、言っているんだ」
例えるならば、それは。
遠方から眺めた魔王城を一枚の絵としてーーー……、そこに真っ白な筆を奔らせた、であろう。構図だとか完成形だとか、そういうのは一切無視して。
閃光とも爆炎とも取れぬ一撃が振り抜かれ、夜天に浮かぶ星を比喩でも何でもなく根刮ぎ奪い取った。剣筋で塗り潰すように、空舞う翼竜も、白き雲も、煌めく星も、全てを。
「……ん?」
気付けば、魔王の頭上にあったはずの終焉の焔剣は消失していた。
最大級の一撃とか最上級の火炎魔法とかいう煽り文句も、カルラ・ジ・エンドとか頑張って付けた名前も、呆気なく消えていた。
思い出すのは側近に怒られながらも夜中2時までノートにペンを走らせた思い出。やっぱりそのまま剣にするんじゃなくて一回火炎級を拡げて剣にした方がカッコイイなぁ、なんて。そんな事を書いていた思い出。そうそう、雷撃と迷ってこっちにしたんだっけ。名前もグレン・オブ・ディスティニーと悩んで、うんーーー……。
違うこれ走馬燈だ。
「……おい」
「は、はへっ、あ、あ、ぁ、ぁああああああああああっっっっっ!!!」
腰を抜かし、絶世の美貌は何処へやら。顔中を汁だらけにして泣き叫ぶ魔王。
そこには誇り高き初代カルデアの名を継ぐ魔王の威厳などなく、ただ爆ぜ飛んだ魔王城の瓦礫に頭を隠す無残な女の姿があった。
有り得ない。あの一撃を剣で、あんな鈍らで。我が最高の一撃を壊し、結界張った魔王城を破壊し、空の光さえ塗りつぶし。いや、何故だ。何者だこの男は。何だ、何が、何なのだ。勇者、この男は本当に勇者なのか。いや違う勇者がこんな化け物なはずはない。レベル99どころじゃない、こんなのはレベル1億ぐらいの化け物だ。有り得ない、有り得ない、有り得ない。
有り得て良いはずが、ない。
「魔王よ」
瓦礫を引っ繰り返し、剣速により研がれた剣を突き付けて。
怯えることしかできぬ女に、彼は低く鋭い声と眼孔を突き付けた。
「契約しろ」
そしてーーー……、物語は冒頭へと巻き戻る。
勇者騙る男と、最強名乗る魔王が対峙したその刻へ。
運命の歯車が回り出す、その瞬間へと。