【5】
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「早く! こちらです!!」
突如、追跡者の前から姿を消したフォールとシャルナは民家の中を通り抜け進んでいた。
民家、そう、民家だ。人々が暮らし料理や掃除、団らんをしている民家なのだ。彼等はその中をずかずかと土足で進んでいるにも関わらず、咎められることもなければ叫ばれることもない。誰もが少しだけ驚愕の表情を浮かべるも、直ぐさま何かを察したように道を空ける。
二人の手を引きながら焦燥に駆られた女性の姿を見て、迷うことなくそうするのだ。
「……待て。何故、貴様が我々を助けるようなマネをする」
「いいですから! 早く、急いで!!」
窓から出て、彼等は密集宅地の裏手に出た。そこは家々の壁に囲まれる路地にぽっかりとできた空き地で、陽の光は差し込まず風も何処か淀んでいるように思える。
フォールはその場に出るなり抗うが如く自身の手を引く腕を突っぱねた。シャルナも腕を引き留め、立ち止まる。
彼等を率いていた人物はその衝撃で、いや衝撃というほどのものでもなかったのだが、兎も角すてんと転んでしまった。
それでもなお、その者から焦燥の色が消えることはない。ただただ、喉を締め付けるような焦りが彼女の中から湧き上がってくる。
「ど、どうしてっ……!」
「どうしてもこうしてもあるものか。我々は敵対関係のはずだろう、それがどうして逃亡に手を貸すのかと問うている」
「だから、それを今説明している暇はっ……!」
「だが説明して貰わなければこちらも貴様を信用するに信用できんという事だ。……ユナ第五席」
フォール達の前で転んでいたのは他でもない、十聖騎士の一人であるユナ第五席だった。
額に汗を、頬に泥を、そして唇には息切れを見せる姿は何処か淫靡ささえ感じさせるが、本人の爪先から旋毛までを埋め尽くすのは焦燥ばかり。一刻も早く、一刻も早くという反芻が幾度となく自身を責め立てる。
けれど彼女はその感情を大きく飲み込み、深く息を吐いた。そして『貴方の言うことも尤もです』と頭を下げながら、立ち上がって。
「私の身勝手な行動をお赦しください。……ですが、どうか理解もしていただきたいのです。私には時間がない!」
「言葉の意味が解らんな。追い詰められているのはこちらのはずだが」
「そうではなくて! 私は、貴方達に聞かなければならない事がある!! どうしても聞かなければならないことがっ……、私の、私の夫について!!」
「「夫。……おっと?」」
フォールとシャルナはその言葉に思わず顔を見合わせた。
――――いや確かに未亡人という雰囲気はあるけれど、結婚していてもおかしくない歳ではあるけれど、夫がいたとしても不思議ではないけれど。
どうして、それを自分達に質問するのだろう。自分達の周りに既婚者なんて一人もいないし、そもそも包囲網形成中に逃亡者たる自分達を庇ってまで聞くことだろうか。
解らない。まったくもって、解らない。
「見つけましたよ、賊どもめ」
彼等の混乱に追い打ちを掛けるが如く、天高き屋根からその者は現れた。
夕闇の光を背負いながらフォール達に影を落とす、その者。規則正しい姿勢でフリルを風に揺らしながら佇む、その者。凍てつく大気さえも斬り裂くかのような雰囲気を纏う、その者。
それは女性、いや、メイドだった。ユナ第五席と同じく十聖騎士が一人ーーー……、ミューリー第三席だった。
「……また、十聖騎士か」
「おっと……、妙な動きは見せない事です。既に周囲は部下に包囲させていますから、逃げ道はありません。それでも逃げるというのなら、それもまた一興ではありましょうが」
ミューリー第三席の表情は逆光で滲んでおり、よく解らない。
だからこそだろうか。その淡々とした口調の冷静さが、冷徹さが、冷酷さが嫌に耳へと染み込んでくる。汚物でも見下すかのような、その声色が。
「ま、待ってください、ミューリー第三席! まだ彼等には話があるのです!!」
「お黙りください。ユナ第五席、貴方には失望しました……。素質ある御方だと見込んでいたのに、そのような下劣な者に現を抜かすとは」
「げ、下劣なんて言い方はないでしょう! 確かに彼等は罪人ではありますがそれは我々が勝手に定めた未来の……!!」
「その発言は聖女様を否定するものですか?」
その一言は、残酷に言い放たれた。
ユナ第五席は影を刺す眼光から目をそらし、奥歯で言葉を噛み殺す。そのまま彼女の沈黙は敗北を示す導となり、呆気なく静寂の中へと沈んでいった。
ミューリー第三席はその様子に軽く息を払い、鋭くこちらを睨む賊達へと意識を戻す。
「……さて、先ほど逃亡するならばと問いましたが、えぇ。こちらの手札を全て明かさず選択を迫るのは卑怯というもの。正義たる帝国騎士の象徴、十聖騎士がその様な事をしては名折れです。故に、こちらは手札を全て明かすとしましょうか」
「手札……、だと?」
「えぇ、貴方達にとって最高の切り札を……」
じゃり、と音がした。
それは彼女の雰囲気や声色と同じく、酷く冷たい音だった。
「さぁ、その無様な姿を彼等に見せなさい。……卑しい卑しい、雌豚め」
鎖に引かれ、彼女の足下に這い蹲ったのは見窄らしい恰好の女だった。
奴隷のような衣服に目立つのは四肢を封じる鎖と首に回る雌豚の証。さらに上には自由を奪う厚皮の目隠しと言葉を奪う荒縄のくつわまで。それは正しく、女の尊厳全てをかなぐり捨ててしまったかのような惨めな奴隷そのもの。文字通りミューリー第三席の奴隷である。
――――そう、彼女との信念を賭けた戦いに敗北し、その体を正義の愛撫に晒すことになった、哀れな女。仲間の前に醜態を晒すことになった、愚かな女。
「る、ルヴィリア……!?」
「そうです、貴方達のお仲間……、だった女性です。彼女を捕らえるのは随分と簡単な話でしたよ。何かに気を取られているようで、えぇ、まったく簡単な……、拍子抜けするほどでした。この奴隷を捕らえるのは、えぇ、まったく!」
鉄仮面のような表情のミューリー第三席にしては珍しく高揚しているらしく、表情こそ逆光で見えないものの、その屹立とした姿には僅かな歪みが出来ていた。
まるで何か滴るものを太股で抑えるようなその動きを見るに、彼女達の間で如何なる戦いがあったかは想像に難くない。如何なる激戦を経て、このような形になってしまったのかも、また。
「さぁ! 彼女の醜態をこれ以上晒して欲しくないのならば大人しく降参することです。……ご安心を、帝国の騎士として決して手荒なことは行いません。もっとも、あと一人の少女はこの豚のようになっていただく可能性はなきにしもあらずですが、えぇ、きっと数日もしない内に自分から求めることに」
「フォール、どうする? 包囲網は抜けられそうか?」
「問題ない。最悪ここに人質がいるからな」
「ひとじっ……、わ、私のことですか!?」
「失礼、こちらの話を聞いていただけますか?」
だが勇者と四天王、これを無視。
「いや醜態と言われてもな……。普段が普段だし……、むしろ喋れないだけマシだし……」
「普段からどれだけ酷いのですかこの豚は」
「トートイギセイハザンネンダガワレワレハサキニススマネバナラナイー」
「その鬱陶しい棒読みをやめていただけますか」
「あ、あの、横から口を出すようですが、お仲間なのですしせめて心配ぐらい……」
「「……ハハッ」」
「何ですかその薄ら笑い!?」
結論:人質の価値、ゼロ。
「……そうですか、解りました。貴方達がそう考えるのであれば、こちらも相応の態度を取らざるを得ませんね」
ミューリー第三席により、待機していたメイド部隊に合図が送られる。
何処の大行進かと思われるほどの軍勢があっという間に空き地を埋め尽くし、フォール達を取り囲む人海の檻と化した。
それに対しフォールは直ぐさま抜剣して脱出の路を見極めるも、辺りの騎士よりも異様に統率されたメイド軍団を前にしてはそれも虚しく、解ったのは完全包囲されたという事実のみ。
最早、側で慌てふためくユナ第五席や何故かメイド達の訝しむ視線を集めているシャルナに構っている暇などない程に、その動きは迅速だった。
「ミューリー第三席メイド長! 賊の確保を完了しました!!」
「よろしい、では即時捕縛を。これまでの行動から鑑みて彼等は我々を傷付けることを忌避しています。ならばその甘ったるい性根を存分に利用なさい」
「「「はいっ!」」」
メイド達は捕縄を取り出し、戸惑うことなくフォール達へと飛び掛かった。
まぁ、その縄がそういうプレイ用の縄だったり、捕らえたらご褒美とかいう言葉が聞こえてきたりと色々目と耳を塞ぎたいことがあるものの、その迅速さは変わらない。
さしものフォールも数十人近くはいなしていたが、その奔流に抗うことはできずーーー……。
「イィィイイイイイヤハァアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!」
だが、ここで思わぬ事態が発生する。フォール達を完全に取り囲んでいた、メイドの大軍による包囲網の一部が突如瓦解したのだ。
何故か? それは民家の壁を突き破ってとんでもない物が吹っ飛んできたからだ。彼等を覆う夕闇の摩天楼よりも巨大な異形の化け物と、それを斬り倒す異貌の追跡者が、吹っ飛んできたからだ。
「……あー、ンだこりゃァ。メイドの集会に突っ込ンじまったかァ?」
メイド軍団を押し潰した化け物の巨体からその様を見下しながら、追跡者は至極どうでも良さそうに吐き捨てた。
しかし、その飽き飽きした表情も軍団に苛まれるフォール達を見つけると、僅かではあるものの喜びの色が宿る。
「ンだよ、こんなトコにいたのかァ? そろそろコイツ等にも飽きてきたし、まだテメェと追いかけっこしてた方が……」
――――もしも。
もしも、不運というものが、あるのなら。
「フォールさん、今の内に逃げてください!! ここで捕まったら、貴方はーーー……」
それは起こるべくして起こるものなのだろう。
突如訪れる不運などありはしない。何かの因果が巡り重なって、一つの結果に結びつく。そうして不運というものは起こるのだ。
「……フォール?」
そしてその不運はーーー……、誰にも避けられない。
「フォール、だと?」
瞬間、空気が一変した。肌を焼き付けるようなそれが、怨嗟猛る煉獄の業火と成り果てたのだ。
メイド達は次々に恐怖で腰を抜かし、ユナ第五席は呼吸を亡失する。ミューリー第三席の顔からは鉄仮面が剥がれ落ち、シャルナは無意識の内に臨戦の刃を構え向ける。
彼女達は皆、その男の豹変に危機を超えた何かを感じたのだ。それが人間なのか、人間の形をした何かなのかを疑ってしまうほどに、恐怖したのだ。
「フォールと、言ったのか?」
そして、彼は。その殺意を真正面から向けられた、彼は。
静かに抜剣した。余りに静かに、靡くように、抜剣した。
それは、覚悟の抜剣だった。
「テメェが……、フォールかぁあああああああアアアアアアアアアアアッッッッッッ!!」
歓喜と狂気の入り交じったそれは、全てを破壊する。
化け物の頭蓋を飛び越えて刃を構え、追跡者は彼へと斬り掛かった。
誰もが覚悟しただろう。その激突が起これば自分は無事で済まないと、確信に近い覚悟を決めただろう。そしてそれは事実、彼女達の身にも降りかかった。
咆吼によるものでも激突によるものでも、追跡者と逃亡者さえもが予測していなかった衝撃が、彼等の身に降りかかったのだ。
「―――――――――――――――!!!」
フォールの眼前から、飛翔したメタルの姿が消え去った。
彼は隣接する壁面に叩き付けられ、それでもなお倒れまいと垂直に靴底を叩き付ける。然れどその体が動くことはない。
当然だ。その場にいる、誰もが動けなかったのだから。いいや、帝国中の誰もが動くことなどできなかったのだから。街行く騎士も憲兵も、屋内で泣く赤子もあやす母親も市で声を張り上げる男も、帝国城閣で憂う少年も、誰も彼もが、動くことなど赦されなかったのだから。
天から降り注ぐ果てなき咆吼の重圧に、誰もが、その身を縛られていたのだから。
「まさか……」
フォールは直感的に感じ取る。それが、神獣アストラ・タートルのものであることを。
帝国城近郊まで接近した、あの大山さえも躙り潰す怪竜の咆吼であることを。
「……いや、好機だ」
彼はその呟きと共に、抑え付け縛り付けられる脚を無理やりに動かした。彼からすれば疾駆とも呼べぬ鈍重な動きだったが、それでも動くことに成功した。
そうして消え行く彼の後ろ姿を、いったい誰が止められよう。重圧を超えた咆吼に誰もが膝を屈する中、歩むことを赦された者を誰が止められよう。
「く、がッ……! が、かッ……!!」
否、ここに一人。
壁面から咆吼の重圧に叩き落とされ、醜く地を這う男が一人。
然れどまだ男は諦めなかった。例えその身が泥に塗れようとも、二人の女を抱えて遠ざかっていく男の背を追うことを、諦めなかった。
牙から零れ流れる怨嗟の言葉に刃を振るう。体の底から湧き上がる熱情に眼を見開く。それでもなお、渇きが癒えることはない。絶対的な闘争への渇望が消えることはない。
彼はこの瞬間から心に決めていたのだろう。その姿を、その気配を、その匂いまでもを、必ず追い詰めると。必ず戦ってみせると。
「フォォオオオオオオオオオーーーーーーーーーーーーーーーールッッッッ!!」
荒れ狂う咆吼の嵐に、僅かな慟哭の雨が降り注ぐ。
然れどその雨は嵐の風に擦り切れ、消え去った。決して抗えぬはずの重圧から逃れる者達の背へ、ただ、投げかけられるその雨はーーー……。




