【4】
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「ふぁ……」
男は、軽く欠伸をした。
街の見張り台に防人として勤務して既に数年。稀にアドレラタイガーだとかブラックドラグーンだとかが侵入してくるが、それも週に一回あるかないか。その際も大声を掻き立てながら突撃してくるので、見張りが誰かに通達する必要なんて殆どない。まぁ、言ってしまえばこの仕事は窓際左遷のようなものだ。
毎日毎日、酒をかっ喰らって居眠りをこく。そんな自分がここに投げ込まれるのは必然だったのかも知れないが、この小さな高台ははそうしてたって誰にも何かを言われることはない。だから自分にお似合いの場所だと思っていた。今日もまた酒をかっ喰らって居眠りをこくのだろう。それが当たり前のことだから。
そう、思っていたのに。
「んぁ~ん……?」
その日は、違っていた。
「なん、だ、ありゃ……」
彼の脳裏を駆け巡る、現実逃避と現実否定。
思い出すのは幼い頃に母親が読んでくれた御伽物語と、子供達の童歌。
自分はそれをうそぶきだ何だと鼻で笑いながら酒瓶をひっさげて、今日もここに来た。だと言うのに、まさか、何故だ。そんな、有り得るはずがない。
彼の初代魔王が乗りこなした怪物で、世界を七日で崩壊させるという邪龍ーーー……。
奴が、今、目の前に、いる。
「け、警報ーーーーーッ! 警報ーーーーーッッッ!!」
錆び付いた、今まで鳴らされることもなかった鐘が打ち鳴らされた。
頭蓋を揺さ振るような鋭い金属音が街中に響き渡り、洗濯物を干す主婦や、露天で果物を売り捌く店主、果ては裏路地で楽しげに駆け回る子供達までもがその音に跳ね上がる。
滅多に、いや、子供達は聞いたことさえない、けれど親や学校からその音を聞いたら取り敢えず逃げろと教え込まれた、鼓膜を斬り裂くが如き金属の衝撃音。
女子供は誰も彼もが悲鳴をあげて屋内へと逃げ込んだ。男達は誰も彼もが額や頬に汗を垂らしながら武器を構え挙げて城壁へと走りだした。
そして、目にすることになる。恐らく自分が生きている上で、決して見ることはなかったはずの光景を。或いは、決して見たくはなかった光景を。
「じゃ、邪龍ニーボルト……」
大地から伝わる轟音や、その龍の鼻腔から吐き出される唸り声はまだ聞こえない。
聞こえない、と言うのに、その姿はもう目の前にあるかのように巨大だった。距離感を狂わせ、心を折り砕き、恐怖に頭を抱えさせるほどに、巨大だった。
誰も彼もが言葉を失った。あんな化け物に勝てるわけがない、と。
「どうしろってんだ……、あんなの……」
「俺達に戦えってのか……」
「終わりだ……、もう……」
絶望の暗雲、とでも称すべきか。
ある物は武器を投げ出し、ある物は膝を折り、ある者は顔を覆って泣き叫ぶ。既に彼等は降伏していた。邪龍に対し己の身さえ差し出す覚悟だった。だと言うのにその巨大は迫ってくる。一刻一刻と迫ってくる。それがまた、彼等の心を拉げ潰した。
大の大人達の、何と情けない姿であろう。いや圧倒的な恐怖を前にした時の人間など、脆くしてこういうものなのかも知れない。絶望は易く彼等の心に染み入り、希望は難く彼等の心に透き通らない。それは例えるならば、白い絵の具に混じった一滴の黒い絵の具をかき混ぜるように。
だが、だ。
「諦めるのか?」
一人、まだ、白がいる。
いや、白というにはその男の頭髪は輝き、双眸もまた太陽と等しく黄金に輝いていた。敢えて彼の白を言うのであれば、口端の萎びた煙草から漏れる白煙であろうか。
「何もしねぇで諦めるってよ、そりゃ始めっから何もしてねぇのと同じだぜ。葛藤も、苦痛も……、相手は、周りは見ちゃくれねぇんだ」
男は白煙靡かせる煙草を転がしながら、自前のカウボーイハットを深く被り抜いて視線を下げた。
いぶし銀、というか。男の何やら達観したような、それでいて気通すような雰囲気に男達は段々と息を呑んでいく。
そうだ、ここで諦めて何になる。諦めて、頭を垂れて、あの龍に踏み潰されて、何になる。自分達の後ろにある故郷を見殺しにするのか、家族を、仲間を、大切な思い出を、殺すのか。
だったら、無駄だとしても、戦うべきじゃないのか。一億分の一だろうが百兆分の一だろうが、抗うべきじゃないのか。
「この世に無駄なんかねぇよ。どんな事だって、何かを成すモンさ。……行動は必ず何かを変えるんだ」
金髪男の一言に、誰かが頷いた。十人が頷くと、三十人が叫びをあげた。
彼等の覚悟は伝播していく。玉砕上等。邪龍が何だ、ドでかいのが何だ。お前なんかにこの街はくれてやらない、と。
武器を抱え上げる。剣、槍、弓、弓、弓。何が何でもこの街を守り抜いてやる。そんな意気込みを込めて、未だとどかぬ邪龍の轟音に負けぬ咆吼を、がなり立てた。
「……フッ」
そんな様子を見て、男は、それこそ水へと溶け込む白い絵の具のように姿を消していった。
ただ、彼の隣にいた数人の男達がそれに気付いたが、特にそれを口に出すことはなかった。それよりも今の、この熱気に乗ることを選んだからだ。
だから、彼等は気付かない。その男が今まで見たこともない男だったことに、街の人間らしからぬ装備を腰に下げていたことに。そして、皆の咆吼に不敵な笑みを浮かべていたことに。
誰も、誰も、誰もーーー……、気付かない。




