【4】
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どどんぱん、どどんぱん。
それはもう、隣にいる誰かの話し声さえ聞こえないほど鼓膜に響く破裂音だった。
だが今日に限っては、その隣の誰かも破裂音に負けないほどの大声で叫び、笑い、はしゃぎ回る。
今日はそういう日だ。決して大きくはなく、活気に溢れているわけでもないこの村が、何処の街よりも賑やかになる日。
一年に一回の大行事、大レース大会開催の日である。
「だー! もう、花火がやかましいっ!!」
だがそんな大騒ぎを毛嫌うが如く、空で輝き人々の瞳に鮮彩を描く華に悪態をつくのは我等が魔王サマ。
そんな彼女とシャルナが祭り屋台を行く姿は、何処の道化芸人かと思うほど目立っていた。
今頃、立派な双角を隠す帽子がなければ大騒ぎとなっていたことだろう。もっとも今、目立っているのは彼女の隣にいる四天王の方だが。
「はは、風物や祭事とは決まってこういうものです。やがて慣れれば、中々どうして腹に響く震動が心地良いものですよ」
「ふんっ、妾はそれよか屋台の出し物の方が気になるの。見ろ、畑から取ってきて直接作っとるから鮮度抜群じゃぞ! く、くぅ~、金さえあればっ……!!」
「リゼラ様、魔王たる者がそんな悲しい事を……。しかしそれもフォール達が優勝すれば解決ですよ。屋台食べ放題どころか、屋台を買い占めることだって」
「でもフォールのことじゃからどうせ節約とか言うしぃ~」
「お、お願いの仕方次第では……」
「よし、万が一の場合は御主ルヴィリアの用意した衣装でお願いにゃんポーズな」
「死ねというのですか、私に!!」
「死ねとは言うとらん。犠牲になれと言うとるだけじゃ」
直訳で犠牲である。
「ま、それはそうと……。全ての元凶は何処で何をやっとんのだ? 朝から姿が見えぬが」
「あぁ、彼ならルヴィリアと共に魔道駆輪の整備に……。確かこの辺りにいるはずですよ、ほら」
シャルナが指差した先には、ずらりと魔道駆輪や馬車の並ぶ列。それこそ先日の、平原で見た地平線が如き長蛇を思い出すほどのものだった。
――――彼女達は知る由もないが、盗賊団により妨害があったとは言え、祭りは祭り。相当な人数が集まっているのは違いない。
これでも例年から三割ほど減少したというのだから、マルカチーニョ夫人によるインパクト任せな宣伝も強ち外れているわけではないのだろう。
「……何だ貴様等、来たのか」
「何だとは何じゃ。応援に来てやったちゅーのに」
フォールはそうかと言い返すなり、魔道駆輪のメンテナンスに戻る。
と言うかこの男、普通にメンテナンスしているが知識は何処から持って来たのだろう。
「うわぁああああんリゼラちゃぁあああああん!! 助けてよぉおおおおおおおおおおおおおっ!!」
「ぐべっ!?」
なんて気にする間もなく、彼女に飛び掛かるド変態。
頬を擦り擦り腋をペロペロ太股くにゅくにゅ。シャルナが引き剥がそうとしたらお尻にダイブ。
危うくR-18行きである。
「やだよぅやだよぅムサ苦しい男と一晩だって二人きりなんてやだよぅ!!」
「案ずるな、ムサ苦しいっていうかムサ狂しいじゃから」
「安心できないよぉおおおおおおおおおおお!!」
「と言うか私の股間に顔を突っ込むんじゃない! し、尻を揉むな尻を!!」
「硬ぁい……」
「やかましいッ!!」
「騒ぐのは結構だが、貴様等。そろそろレース開始の時間だ。外に出ておかなければ注意されるぞ」
かちん、と。
フォールは魔道駆輪の螺旋を締めきって立ち上がる。
「むぅ~……、御主、優勝せねば赦さぬからな! 凡骨な御主が優勝できるなどと微塵も思ってないが? まぁ奇跡が奇跡に奇跡れば多少可能性はあるだろう、うん! だが妾はステーキ以外赦さぬ! 明日の夕飯はステーキ食べ放題のみ!! ステーキオンリー!! 解ったか、解ったならば返事をするが良い凡骨めェいっ!!」
「ところで参加賞のジュースを貰ったんだが、いるか?」
「いる!!」
「そうか」
ミックスフルーツ味だったそうです。
「うめぇ」
「では、そろそろ私とリゼラ様は下がるとしよう。応援しているぞ、二人とも」
「えっ、シャルナちゃんがチアガールコスを!?」
「しないからな」
「応援番長コスでも僕はいけるよ!! むしろそっちの方がいいよ!!」
「しないからな」
と、騒ぐ彼等を急かすようにまたしても花火が打ち上がり、けたたましい拡声音が鳴り響く。
レディースアンドジェントルメン、なんて。呪われてんのかと思うほど在り来たりな開幕の合図が、だ。
「さぁさぁ本日もやって参りましたマルカチーニョ家主催レース大会! 未だ優勝者が一人も出ていないこのレースに今年も無謀な馬鹿共がやってきた!! 望むは天国、行くは地獄の大合戦!! 例え頭が吹っ飛ぼーと腕がもげよーと当家は一切責任を取りませんとマルカチーニョォッ!! 行くは地獄で望むのも地獄だったかぁっ!?」
息継ぎナシの早口言葉で司会者は会場を急かすように捲し立て、空に打ち上がる花火を喝采として聞くに堪えない暴言を吐き散らしていく。
リゼラはそんな花火の数倍はやかましい拡声を睨み付けながらも、フォール達に今一度、我が儘を送ってシャルナ共に場外へと退散していった。
「だー、もう、鼓膜が裂けるわ! 限度というモンを知らんのか、限度というモンを!」
「確かにここまでだと耳当てが欲しくなりますね……。あ、帽子を深く被ってみては?」
「…………前が見えんのじゃが」
「も、申し訳ございません……」
なんて間抜けなことをやっている内にも騒音を人の形にしたような司会者は開会式を進行させていく。
まぁ、その殆どがマルカチーニョ家が如何に凄いか、如何にお金を皆の為に使っているか、如何に素晴らしいかを語る、大人の汚い事情が垣間見えるものだったのだが。
人々はそんな駄弁は聞かなくて良いと言わんばかりに、本番に向けて観客席や屋台へと駆けていく。
――――ある者は荷車を引いて屋台へ荷物を運び、ある者は街路樹の飾り付けを急ぎ、ある者は民家の屋根から喝采を送り、ある者は空舞う鳥を見上げ、ある者達は急作りの特等観客席に腰を下ろし、ある者は母親に買って貰った風船を見上げて笑い喜ぶ。
そんな、祭りの一幕。何げない平穏。
だがーーー……、そんな平穏に忍び込むが如き影も、また。
「あ、兄貴ぃ。わたがし売ってたよぉ。食べる?」
「買ってんじゃねぇよアホ!!」
兄貴分は肥満の体を跳ね上がらせて、弟分から怒り任せにわたがしをぶん捕った。
そしてさっさと片づけるように、自身の胃の中へとぺろり。
「今からやってやろうって時に菓子なんか喰ってんじゃねぇ! 気合い入れろ、気合い!」
「でもぉ」
「いいか、あと数分もしない内にレーススタートの特大花火が上がる! その時になったらこの遠隔着火装置を押して爆弾を起動させるんだ。これはお前が持つのは憶えてるな?」
「お、憶えてる」
「絶対無くすんじゃないぞ。あまり離れると使えないが、爆風のとどかないここならギリギリ使えるブツだ。あの豚小屋を吹っ飛ばすには充分な威力がある、帝国の裏通りで作らせた一品モノだぜ。しかも七十万ルグも取られたんだ。もう一回言うぞ、絶対無くすなよ!?」
「も、もちろんさ兄貴。は、花火が上がったら押すだけだろう? おでだってそれぐらいやれるよ」
「あぁ、信じてるぜ兄弟。俺は今の内に双子豚どもを見張りに行くからな。信頼して任せるんだからな、失敗するんじゃないぞ」
「あ、あぁ、おで頑張るよ。だ、だから兄貴、終わったら甘いの買っておくれよ?」
「おうおう、好きなだけ買ってやるぜ。じゃあ俺は行くからな!」
「いってらっしゃい!」
弟分に見送られ、寸胴な足でばたばたと人混みへ駆け込んでいく兄貴分。
彼はでっぷりと出た腹と脂肪にむくんだ顎の割には素早く、小さな体躯を活かして次々に人を掻き分けて進んでいった。
目指すはあの発情期がきた牛のように喚きまくっている司会者の下にある、仮設テント。
調査通りなら、例年に従ってあそこに豚の親玉とその手下の双子がいるはずだ。
自分の役目は愚かで愚かで同情の仕様もねぇような肥溜めの豚共が慌てふためき、逃げ回るのを笑って、もう手を出さないよう痛めつけてやることーーー……。
「ふぎゃっ!!」
なんて、悪巧みをしていた兄貴分の鼻っ面が何かに当たって跳ね返る。
彼は思わず腰を突いたものの直ぐさま起き上がって、真っ赤になった鼻を押さえつつ何に当たったのかと前を向き直す。
すると、そこにあったのは鉄柱だった。いやいや、そう見間違えるほどすらりと伸びた、彼にはない長い脚だった。
「あ、あぁ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。へへ、悪いな」
――――冗談じゃない。こんな優男に構われて時間を無駄にできるか。
それに、顔を覚えられて得はねぇし、むしろ損しかねぇ。さっさと退散するに限るぜ。
「でも、鼻が赤くなってるし……。えっと、冷やすもの持って来ましょうか?」
「大丈夫だって、はは。悪いな兄ちゃん。急いでんだ」
「けれど足を挫いてたりしたら大変ですよ。あの、お詫びもしたいのでどうぞこちらに」
「い、いいって言ってんだろーが! いい加減にしやがれ!!」
兄貴分は突き放すように怒鳴ると、そのまま素早い速度で走り去ってしまった。
残されたのは唖然と立ち尽くす男が一人。彼は長年付き添った彼氏に捨てられたかのような儚い表情を浮かべつつ、弱々しい声でもう見えない背中に手を伸ばしていた。
「おー、ガルス。飲み物買ってきてく……、何してんの」
「ちょっと怒られちゃいまして……、ぐすん。あ、これ珈琲と水です」
「ん、悪ぃな。……何だこのクソマズい珈琲。俺のが百倍良いの作るぜ」
「カネダさんの珈琲だけは絶品ですものね。……けれど良いんですか? そろそろレースが始まるんじゃ」
「うん今何かサラッと酷いこと言わなかった? まぁ、レースの方はホラ、どーせ自慢話だからさ。ちょいと降りて喉を潤すぐらいの時間はあるって事だよ。メタルの馬鹿は寝てるし」
「……え、じゃあこの水って?」
「そりゃお前アレだよ」
水を構えてメタルに突っ込むカネダ、を全力で止めるガルス。
正気じゃない目ってこういう事だと思うの。
「離せガルス。俺は今、実家に帰るなり喰っちゃ寝して働かない息子に対する母親の気持ちがよく解る……!!」
「やめてくださいカネダさん! 繊細な時期、繊細な時期なんです!!」
戦闘民族は働かない法則である。
「きっとメタルさんもレースが始まったら起きてくれますよ。ほら、今までだってやる時はやる人だったじゃないですか。やらない方が遙かに多い人ですけど……」
「ちょいちょい毒入れてくるよね君!? うんまぁ、そろそろレース始まるし、大丈夫だと思うけどさぁ……」
「では最後の選手を紹介するぜ! 唯一魔道駆輪での参加は……、えー、フォレーとレーーー……?」
妙に息詰まった困惑の選手紹介に何だ何だと壇上を見上げてみれば、見覚えのある怪物、もとい夫人が満面の笑みで役目を終えた司会から拡声器を受け取っていた。
確か予定表ではあの人が開始合図をするんでしたね、とガルス。ちなみにカネダはその隣でトラウマ再発により嘔吐していた。
「あ、水飲みます?」
「ちょうだい……」
無駄にはならなかったようで何より。
――――さてはて、そんな事をしている内にも司会は進み、マルカチーニョ夫人の自慢話も終わりを迎える。
人々はやっと終わったかと言わんばかりに居を直し、屋台の人々や道行く人々までもが司会の壇上へ視線を向けた。
大騒ぎの祭が一瞬の内に静寂となり、誰もが息を呑む。
一年に一回の大イベント。その開幕に、誰もがーーー……。
「ほう、遂に」
リゼラはようやく訪れた静寂に感心しながら、ジュースを仰ぎ飲む。
しかし不意にそれを手から零してしまった。中身はもう飲み干していたが、だからこそ杯はからんと跳ねて人混みの中へ消えていった。
リゼラはそれを追おうとするも、既に密林の木々が如く集まり動かぬ人々に阻まれて、手を伸ばすことさえできずに。
「えぇ、それでは挨拶が長くなりましたが……」
そんな事など露知らず、マルカチーニョ夫人は汗ばんで滲んだ化粧により、さらに怪物染みた顔をにこやかに緩ませながら、開会式の挨拶を終えようとしていた。
とある商人はその様をふと余所見する。荷車を動かしながら、何となく見上げてみる。
足下に転がってくる杯に気付かず、何げなく。
「私は今年もレース大会が開かれたことを喜ばしく思い」
商人はその杯に転び、荷車を引っ繰り返した。
中から缶詰や置物や装飾品が飛び出し、空を舞う。
そしてそれは、街路樹を飾り付ける者の頭に激突しーーー……。
「今まで優勝者がいないというこの難関のレースを」
その者は倒れ、隣の街路樹の飾りに引っ掛かる。そしてその者のせいでまた隣の者が倒れて飾りに引っ掛かり、倒れて飾りに引っ掛かり。
やがて凄まじい重量を持った連鎖は街路樹さえも薙ぎ倒す。
「今年こそは、何方かが成し遂げてくれると信じております」
街路樹が倒れた先は豪邸の隣にある民家だった。
民家は抉るように薙ぎ倒され、屋根上で司会を見物していた男は枝に弾かれて空高く吹っ飛ばされる。
「我がマルカチーニョ家は皆様に絶対の信頼を寄せ」
男は空を泳ぐように藻掻き藻掻き跳ね飛んで。
思わず、目の前に現れた鳥の羽をつかみ取った。
「皆様からも絶対の信頼を寄せられる一家であります」
鳥は落ちてたまるかと必死に羽ばたきを繰り返し、その焦燥に叛して緩やかに降下していく。
だが男はそうもいかず、羽ばたく翼から指を滑らせてかなりの高度から落下した。
地上へ、助かるはずもない高度から。
「故に此度のレースも、互いの信頼の元に成り立つレースにございます」
男は消え入るような叫び声と空から零れ落ちた。
しかし、木枝から落ちた果実のように、その体が弾けることはない。
どうやら彼はこの日のために急作りされた特等の観客席に落ちたらしく、奇跡的に無傷で済んだのだ。
だが、運良く運が悪かった。彼本人は助かったものの、彼が落ちたことで急作りな特等席が崩壊し、機材諸々を背後の豪邸へなだれ込ませてしまったのだ。
それこそもう、豪邸の壁床を貫かんばかりの勢いで。
「そういうわけで、この信頼によって成り立つレースを開始したいと思いますわ」
夫人が手を掲げると、会場から一斉に拍手が湧いた。
とある風船を持った少女は周囲の大人達や母親がそうしているように自分も両手を打ち付けてみる。
けれど、そうすれば風船から手を離してしまう事を幼い少女は思いもしなかったのだろう。
空へ浮き上がっていく風船と、それに気付く少女。しかし小さな手は既にとどくはずもなく。
「それでは、始めましょう」
ぼよんっ。
だがしかし、風船は空に弾かれるようにして少女の元へと戻って来た。
彼女は紐を掴みながら、母親に戻って来たよと微笑みかける。母親は何だろうと首を捻り、背後で倒壊する特等席と豪邸に目を見開いた。
「レースーーー……」
知る由はない。誰も彼も知る由はない。
夫人の声に息を呑み、手綱やハンドルを握る参加者達も、人並みを作る見物人達も、それを起こした当人達でさえも。
幾重の偶然と幾重の奇縁が積み重なって、ほんの小さな変化を起こしたことを、知る由はない。
ほんの小さなものを動かす程度の変化を、起こしたことを。
「開っ」
「い、今だ!」
カチッ。
――――盗賊団の弟分は素晴らしいタイミングで爆弾を起動した。マルカチーニョ夫人の号令と同時、花火が打ち上がると同時の、これ以上ないほどベストな、兄貴分も満足であろうナイスタイミング。
ただ一つだけ、彼は確認を怠った。本来ならば必要もないであろう、確認を。
|爆弾は今何処にあるのか《・・・・・・・・・・・》という、確認を。
「……あ、あれ?」
かちん。かちん、かちん。
何度押しても、爆発音が聞こえない。マルカチーニョ家の豪邸が崩れ爆ぜる音が聞こえない。
レースは普通に開始され、馬車や魔道駆輪が次々に出発していく。その様を憎きマルカチーニョ夫人は笑顔で見送っている。
何故だ、何故だ。確かに爆弾は起動させたはずだ。豪邸が吹っ飛んで観客がパニックになって、その隙にあそこの賞金を奪うはず、だったのに。
「どうなってるのぉ……」
まさか、こんな大事な局面で不備とは何と運の悪い。
振り返ってみれば、やはり豪邸は何ら変わらぬ様子でーーー……。
「……えっ」
弟分は驚愕した。
邸宅が予想通り全くの無傷だったから? それとも何故だか邸宅から煙が濛々と舞い上がっていたから?
否、そのどちらでもない。現状として正確に述べるなら後者ではあったが、どちらでもない。
何故なら弟分の後ろには、自分より大きな人を見たことがない彼が唖然と見上げるほどの、異貌がいたのだから。
彼を片手で抱え上げられそうなほど巨大で凶悪な、豪腕を持つ猿の異貌が。
「ひゃ、ひゃああああぁああぁああああぁああぁぁぁあああっ!!!」
奇しくも、会場に騒ぎを巻き起こしたのは彼だった。
弱々しくも怯えきった叫びは人々に伝播し、混乱と逃走を巻き起こす。
次々とマルカチーニョ家から溢れてくる猿の異貌はそれを獲物と見たのか、自分達を抑えに来た警備を敵と見たのか、全てを次々に薙ぎ倒していく。
参加者達の背中が地平線に消えたときにはもう、誰もそれを気にする余裕などなかった。
「あ、あれは、バーゾッフとビーゾッフに任せていたっ……!」
だが、ただ一人。
決して落ち着いているわけではないが、事態を把握できている者が一人。
「夫人! マルカチーニョ夫人!! 早く壇上から降りて避難を。な、何やらあの奇妙なモンスター達がこちらにっ……!!」
「解ってるわよ、モーガモンキーは高いところと群れた獲物を好むのだから!! ほら、あんたがこっちにくると奴等に目を付けられるだろう! そんな事も解らないのかい、このマヌケが!!」
夫人に蹴落とされ、司会者は悲鳴を上げて階段を転がり落ちていった。
その間にも夫人はのっそのっそと自身の腹を抱えながら階段を下りて、仮設テントの中へと逃げ込んでいく。勝手にやってな、という悪態まで吐き捨てて。
「ちっ、バーゾッフにビーゾッフめ。飯抜きどころじゃ済まさないよ……! 妨害から帰って来たら思いっ切り撲ってやる!! あぁ、警備の奴等もアレはダメだ、もうダメだ。来年からもっと良いのを雇わないとね。あの猿共のことはどう誤魔化すか、今回の責任はっ……」
表の騒動など露知らず。マルカチーニョ夫人は机の上に契約書の束を拡げて次々に漁り並べていく。
全ては自己が負債を被らないため。責任の追及から逃れるため。人々の被害よりも、己の財貨のため。
夫人は狂気を孕んだ眼で次々に資料を整理していく。悲鳴を背に受けても動じることさえなく、ただ。
「はん、やっぱり男はダメだねぇ。私が、私でないと護れない。そうよ、私にはっ……!」
――――あの財貨を納めた金庫さえあれば、良いのだから。
マルカチーニョ夫人はこの窮地を笑い飛ばすかのように、醜い吠え面を晒す。
街がどうなろうと知ったことか、無能な夫や息子達がどうなろうと知ったことか。
全ては金のため。全て、全て、全ては! この執着が生み培った金の山のため!!
「ひ、ひーひっひっひ。ぃひひひひ~ひっひっひーーー!!」
脂肪に押し込められた首をがくがくと振るわせながら、夫人は資料を掻き乱す。
狂気に染まった眼はさらに血走り、剥き出しになった歯茎からは唾液が飛び散り、乱れ溶けた化粧が汗に流されていく。
その様は違いなく狂気だった。金と妄執に取り憑かれた豚の、無残な狂気だった。
「こ、こちらに! 急いで!!」
そしてそんな狂気なぞ知る由もなく、人々は会場から必死に逃げ惑う。
ただ、ここに一人。逃げることもなくその逃亡を補佐するのはガルス。彼は惑う人々を必死に先導し、安全な道程まで導いていた。
彼本人も何が起こったかは解らずパニック状態であるが、何をすべきかだけは知っていたからこそ、そうしていた。そうする事ぐらいしかできなかった。
「アレは、確か、モーガモンキー……! 極南に生息する知能の高い凶暴なモンスターっ……!!」
――――モーガモンキーは南部の島国に生息する群れを作る種族のモンスターで、希少な雌を護るためにも非常に排他的なことで有名だ。
排他的と言えばいつかのラグラバードを思い出すが、彼等にあの怪鳥ほどの体積がないとは言え、驚異なのは変わらない。
理由としてその体躯や怪力もそうだが、何より知能の高さが挙げられる。調教すれば人の命令を聞き分けるほどの知能を持ち、裏の界隈では兵器として売り買いされることもあるという。
だが、一つ制御を誤ればこのザマだ。今すぐ人々を避難させないと、いつ被害者が出るかーーー……。
「あっ……!」
瞬間、彼の目に留まったのはモーガモンキーに囲まれながら、唖然と立ち尽くす少女だった。
数体の魔猿が少女一人を睨み付けている。今にもその華奢な体を押し潰さんばかりに、睨み付けている。
少女はその様に恐怖を通り超して驚愕しているのだろう。手足を震わせながら、動く事もできずにその様を見上げるばかりで。
「…………ん?」
いや、何か、違うような。
少女が恐怖を通り超して驚愕しているのは間違いない。
ただ、何と言うか、その、モーガモンキーも驚愕しているようなーーー……?
「……ナが」
ふと、少女は呟いた。
目の前にいる数体のモーガモンキーに対して、声を震わせながら、呟いた。
「しゃ、シャルナが増えた……!?」
「ウホ、ウホホッ……!?(どうしてこんなところに仲間が……!?)」
「ま、まさかアレはモーガモンキーの雌!? こんな希少種まで……!」
「…………」
四天王、謀叛を決心した瞬間である。




