第二幕 第一場 『立会い検事編 執行通告』
第二幕 第一場 『立会い検事編 執行通告』
今日も、いつもと変らない一日が始まった。
いつの間にか机の上に書類が重なっている。退勤時には机の上を整頓し、綺麗さっぱり何も出ていないようにしておくのに、朝になると書類が重ねてある。それを仕分けするのが始業のセレモニーなのだ。
今日は……、自由刑の者を収監することになっているのか。しかも三人。いったい何をしたのかな?
ちらっと罪状をながめると、どれも横着な事件ばかりだ。
運転免許を失効されているのに飲酒運転で事故をおこした者。税金をごまかそうとして何度も摘発された者。もう一人は、従業員の給料を踏み倒した者だ。
そろいも揃ってチンケな罪を重ねた者たちだ。少し我慢しさえすれば、相手の身になって考えれば、決して事件にはならないようなことだ。
警察で絞られ、検事にも絞られ、仕事も棒に振っただろうし得意先の信用も失っただろう。社会的制裁はすでに受けているだろうが、裁判所が下した判断をゆるがすことはできない。
懲役九月に六月、そして六月。刑務所の仕組みに慣れる前に釈放だ。
他は、未決囚から既決囚に変更の者が四人。
その受け入れ手続きだ。
残った罰金徴収は午後にしよう。こっちは事務官に手伝わせればいいだろう。
ざっと書類を仕分けて事務官に連絡をとり、彼女が来るまでの間コーヒーでも飲ませてもらうことにした。
俺は、意気揚々と検事になったまでは良かったのだが、希望していた捜査畑へは進めなかった。ニュースで登場する特捜部(特捜)なんて遥か彼方の世界なのだ。
罪を犯した者を法に照らして罰してやろうとの意気込みは、入庁と同時に敢え無く潰えていた。
難関といわれる法学を専攻し、司法試験にも一発で合格した。年功からくる処遇なら我慢できよう。前途に希望を抱くこともできよう。が、自分に比べて劣っている同僚が捜査畑に進んだことが不満でたまらなかった。
東京ではないにせよ、西の雄である京都を卒業したという自尊心があるのだ。ところが、東京の大学というだけで、私立を卒業した者が表舞台に躍り出ようとしている。所詮、この世界も学閥が幅を利かせているのだろう。
とはいっても、不安定な弁護士から較べれば安定した身分だし、ステータスもある。
こうなったら、在外公館に駐留する道を模索してもいいか。いや、他省庁への出向でも可としよう。
その日の早からんことを願って、退屈な仕事を遺漏なく処理しておこう。
俺はコーヒーをすすりながら暫しの瞑想にふけっていた。
「釈さん、一課長がお呼びです。今日の予定はキャンセルだそうです」
俺のアシスタントというか、俺に配属されている事務官の下田が、ささやかな夢想から現実に引き戻してくれた。そして、急き立てるように書類を抱えてドアを開けて立っている。
「キャンセル? なんだろう、課長は我が儘だからな。まてよ、急な出張かもしれんな。なあ下田さん」
せっかちな課長が機嫌をそこねる前に、さっさと顔を出すのが懸命だろう。飲みかけのコーヒーをそのままに、俺は席を立った。
「おはようございます。今日の仕事はキャンセルだそうですね。どこへ出張でしょうか? それとも、見学会の案内役ですか?」
執行第一課長はそれに答えず、黙りこくっている。
太い黒縁メガネの課長は、見た目に似合わず磊落な人だ。だけど、ソファーに仰け反って腕組みをしている姿は、なかなかに近寄りがたいものである。困ったことに組んだ足先を小刻みにゆすっている。なにを苛ついているのか知らないが、そんなことだから髪が真っ白になったのだ、きっと。
応接セットに深くかけた課長は、度の強いメガネのむこうで大きな目玉をギョロリとさせた。俺にも座るよう促し、じっと下田を見つめていた。
「釈君、もう一人の事務官は今忙しいかね?」
「はい。今日は差し押さえがありますので出張しています。それが?」
「そうか。……今からでも下田君と交替できないかね?」
「あいにく富山の事件ですので、昨日のうちに現地へ行っています。今から交替は……。下田君では不都合ですか?」
「いや、不都合……ではなくてだな、……そうか、困ったな」
やはり課長は難しそうに唸るばかりだった。
「課長、私のことなら遠慮いりませんよ。もし女だからということで悩んでおられるのなら心配ありません、きっと間違いなく働きますから」
下田は心外だとでもいいたげな表情になった。
「いや、そうは言うがなぁ、……こればっかりは……」
「大丈夫です。なんなら内容を聞かせてください。絶対に逃げませんから」
「……だからさぁ、言えないことだよ。別に下田君でだめということではないけど……。まあ、こっちへかけなさい」
ぶすっとした顔で突っ立っていた下田が、当然だろうとでも言いたげに胸を張った。俺の隣に浅く腰をおろすと、大切に抱えていた書類を課長に押しやった。
「今日の受け入れに関する書類一式と、予定事務の資料です」
「ああ、そうそう。先にそれを渡してくるから、ちょっと待っていてくれ」
課長は、そそくさとドアのむこうに消えた。
なんだよ、もったいぶらずに早く教えろよ。さっさとしてくれないとまた今夜も残業になってしまう。そういう体質がだめなんだと俺は焦れてきた。
「待たせたな」
課長は、事務官に手伝わせてコーヒーカップを運び入れた。
「まあ、飲んでくれ」
課長に呼びつけられてコーヒーを振舞われたことがあっただろうか。それほど珍しいことなのに、眉間に深い縦皺を刻んだままだ。
「なあ下田君、本当にいいのか? まあ、下田君さえ承知なら……。いや、やっぱりなぁ」
一語発しては啜り、一語発しては啜り。そのたびに考え、迷っているのだろうか。
「課長、いいかげんにしてください。今は男女同じ仕事をする社会ですよ、もし私が女だからということで躊躇っているのなら、それこそ機会均等法に反します」
下田の強気な発言が、課長の決断を後押ししたようだ。
課長は、手まねで飲むよう勧め、自分も冷めてきたものを口に含んだ。そのまま嚥下せずに俺たちが手をつけるのを待っている。
俺たちが一口飲むのを待ってゴクンと咽を鳴らした。
「実はな、拘置所から執行の通知があったんだ。それで、他の者は一通り経験しているから、今回は釈に担当してもらうことにした」
俯いたり仰のけたり、課長にしては珍しく落ち着きのない仕草だ。拘置所といっても未決囚ばかりではない。つまり未決が混在している刑務所なのだから、何らかの執行は日常茶飯事だろうに。何を躊躇っているのか俺には理解できない。隣の下田もとんと合点がいかないようで、ポカンとした表情でコーヒーを口にした。もちろん俺も。
「そこでだ、昨日の日付で命令が届いたそうだ。だから期限が二十五日なんだけど、余裕をみて二十四日が当りではないかと思う。だとすると、前日……つまり明日のことだが、悪いことに祝日だ。気の毒だが、明日は休日出勤をしてもらう」
奥歯にモノがはさまったような言い方だった。いったい、どうして拘置所の仕事のために休日出勤をしなければならないのか、俺には理解できなかった。
「どうして休日出勤の必要があるのですか、拘置所の仕事でしょ? それに検事が関係するなんて、おかしいですよ」
出張ではなかったのだ、ぬか喜びして損した気分だ。が、下田はがっかりした様子などみせずにカップを傾けていた。
「だから、落ち着いて聞け。執行命令書が届いたそうだ、死刑の」
俺たちが理解しないことをもどかしく思ったのだろう、課長が早口でそう言った瞬間、下田の眼がまん丸に見開かれ慌てて手を口にやろうとした。が、一瞬遅れたのでコーヒーの霧が宙を漂った。
「そうですか、死刑はわかりました。それで、私たちは何をすれば良いのでしょうか?」
ドキッとはした。だけど、少なくとも俺は男だ。下田のような無様な格好を見られるわけにいかないではないか。ドクンと大きく打った心臓の音を聞かれていないか、まだ冷静な部分は残っていた。
慌てて噴出したコーヒーを拭う下田を気の毒そうに見ていた課長は、意を決したかのように告げた。
「釈と下田君には処刑に立ち会ってもらう。これは法の定めるところのことだから、一瞬たりとも眼を背けてはいかん。いいな」
下田の手前、気丈を振舞っていた俺だが、どうにもならなかった。
処刑ということに気を奪われた瞬間、カップを落としてしまった。
「釈、拘置所長に連絡をとって、立会い検事と事務官の名前を伝えるのだ。すると、先方から連絡が入る。わかってるな? 相手を確認するためのしきたりだ。そうしたら拘置所へ出向いて詳しいことを訊ねてこい。あくまで俺たちは傍観者だ、つまらん横槍は入れるな」
床に飛び散ったコーヒーのことも、課長の注意も、一切が耳の奥に届かない。滴を吸ったズボンのことも床に広がる褐色の水溜りも、映画を見ているようで現実とは思えなかった。
「口で言っても覚えられないだろうから、お前のすることを書いておいた」
課長は気の毒そうに、やけに大きな文字の並んだ紙を一枚よこした。
「時間が限られているから、すぐにこの通りのことをするんだ。釈! いいな」
たしか大声で名前を呼ばれた気がする。
……そうだ、それで俺は我に返ったのだった。我に返って、咄嗟になんと言っただろうか。どうして自分がそんなことに立ち会わねばならないのかと抗議したかもしれない。女性の下田には無理だろうと抗議したかもしれない。
そのときに、検事の職務を、検察事務官の職務を再確認させられたような気もする。とにかく、ボーッとしたまま自分の部屋に戻ったのだ。
酷く咽が渇くのをおぼえた俺は、出がけに置いたままの飲みかけを一気にあおった。下田も同じように冷めたコーヒーをカップで二杯、たて続けに流し込んだ。
課長のメモには、『拘置所長に電話』とある。そうだった、まずは連絡をしなけりゃならない。しかし、電話をしようとしてはたと困ってしまった。電話帳がみつからないのだ。下田にも手伝わせて探すのだけれど、普段使っている電話帳がみつからない。
どこだ、どこだと二人して探したあげく、机の透明マットの下に挟み込んであることに気付いたのだ。
裁判所や警察署に混じって、管内の刑務所や拘置所が載っているではないか。互いにばつが悪くて顔を見合すことすらできなかった。
「地検の釈と言います。所長に取次ぎをお願いします」
しばらく待たされて、熊澤と名乗る男の声がした。
「所長の熊澤ですが、どんなご用件でしょうか?」
落ち着いた声だった。少々のことには動じない肝っ玉を感じさせる声音だ。
「地検、執行一課の検事、釈 幸雄です。このたび立会いを命じられました」
課長に教えられた通りのせりふだ。余分なことは一切口にしていない。
「執行一課の釈検事ですね、折り返しますので暫くお待ちください」
熊澤も無駄な言葉を一語も発しなかった。
ほんの一分も待っただろうか、机の電話が唸りをあげた。
「拘置所長の熊澤という者ですが、釈検事をお願いします」
地検の代表番号にかけてきたのだろう、さきほどとは違って最初から身分を明かしていた。そして、詳しい話をするから来てくれということだった。
検事による拘置所での尋問は珍しいことではない。また、拘置所には多くの部外者が立ち入っているのだが、誰であれ門で身分を明かし目的を告げねばならない。
が、それを省くためか護送車の利用を認めてくれた。
検察庁にはひっきりなしに護送車がやってくる。多くは警察の護送車だが、拘置所が管理するものもある。それが客待ち、つまり、取調べが終わるのを待っているはずだから使えということだった。護送車なら門で一時停止するだけで通用口に横付けできる。つまり、人目に着かずにすむということだ。
拘置所の通用口は外部からの視線を完全に遮断している。そこへ護送車が横付けすると、外に一人の職員が待機していた。
「地検の釈と、事務官の下田です」
「管理部長の野上です」
野上は、事務官として同行した下田が若い女性なので、驚いた表情で俺を見た。男でも気の弱い者では勤まらない仕事だからだ。
「大丈夫ですから」
何かを言おうとしながら、それをのみこんで、野上は所長室へ俺たちを導いた。
廊下を進むと鉄格子で行き止まりになっている。そこをくぐるたびにガシャーンという堅く冷たい音が響く。いったいいくつの格子をくぐっただろうか、そのたびに立ち止まり、野上が鍵を差し込んで廻すのだ。検事である俺が聞いても気持の良い音ではない。
熊澤は、白髪混じりの紳士だった。休日に買い物などしていたら、誰が熊澤の職業を当てられるだろう。銀行マンか役所勤めといった実直な印象だけで、その実、誰にも語れぬ役目を負っているとはみえない。見た目と同じで、立ち居振る舞いも紳士だ。
身分証を提示し、立会いを命じられたことをあらためて告げると、熊澤の表情が曇った。
「下田さんは、何の立会いをするのかをご存知ですか?」
「課長から聞いています」
いつもと違って震えを感じさせる声で下田が答えた。
「ほかに事務官はいないのですか?」
「あいにく出張しています。下田君と交替させようと検討したのですが、今から戻しても帰着は夕方でしょう。だからしかたなく」
「しかし、失礼だが私の娘と同年代ではありませんか。自分の娘には絶対にさせたくない役目ですよ」
熊澤は下田を気遣っている。『男ならかまわないのかよ』俺は心の中で毒づいていた。
俺だって嫌だ。はっきり言うことが許されるのなら断りたい。誰が代わりに立ち会うかなんてどうでもいい。自分がそんな禍々しいことに加わりたくないのだ。
が、下田はそれを受け入れようとしている。その証拠に……、下田は出されたコーヒーカップに手を伸ばしたではないか。
松岡鉄夫 六十二歳。殺人及び死体遺棄、並びに損壊。放火の罪で六年前に死刑が確定している。係累はなく、生体や遺骨にかかわらず遺体の引取り手はない。執行期限が十一月二十五日なので、前日の二十四日に処刑する予定らしい。それは課長の推測通りだ。
俺のすべきことは、裁判記録を読み返しておくこと。そして処刑の一部始終を見届けて報告することだ。裁判記録といっても単に判決文をさすのではなく、起訴から最終判決の言い渡しまでのすべての記録だ。読んでどうするものではないし、異議をはさむものでもない。ただ読むのだ。それは死刑が確定した直後になされていることだが、裁判に関わった者が処刑に立ち会うのではないことから、止むを得ない作業とも思えた。
執行当日の朝、遅れることのないように念を押された俺たちは、所長の公用車で地検へ送り届けられた。
それからは時間との格闘だった。
課長に正式なスケジュールを報告すると、またしても紙を手渡された。執行開始時刻、死亡時刻、死亡に至る時間。そして終了時刻を記入するようになっていて、ご丁寧に執行官の氏名欄まで用意されていた。
「釈、俺たち検事は犯罪者を裁判で裁いてもらうのが勤めだ。犯した罪に見合う罰を裁判で求めるわけだが、時として法に忠実になりすぎることがある。書類だけ読んで、これは懲役だ、これは無期だ、これは死刑だってな。たしかに死刑を求めるだけの理由はある。が、一方で、法の定めに苦しむ人がいることを忘れてはいかん」
課長は。いつにまして厳しい目で俺を見据えた。
「お前、山の経験はあるか? 登山だ」
かぶりをふると、課長はそうかと言ってポケットをさぐった。
「じゃあな、キャンプならどうだ? それならあるだろう」
俺の目を覗き込みながら安物のライターで火を点し、深く煙を吸い込んだ。つられるように俺は軽く頷いた。
「たかがキャンプでも、明け方は冷えるよなぁ。寒くて目が覚めることもある。懲役って簡単に言うけど、その辛さを知っているか? こんな大都会でもな、凍傷になることもあるんだぞ、想像できるか?」
俺はただ黙って立っていた。
「……今言っても意味ないか。ただな、これからも検事であり続けようと思うのなら、刑の辛さをよく理解しろ。だからといって罰を軽くしてはいかん、わかるか?」
なんなんだ、気が滅入っている時に説教かよ。
「検事は求刑する。裁判官は刑を言い渡す。どっちもヌクヌクした部屋の中だ。だがな、現場の職員は寒い暑いを受刑者と共にしなけりゃならん。ましてや、今回みたいに死刑となれば、無抵抗の者を殺すのだぞ。いくら法の定めとはいえ、殺人者だ」
「課長は死刑を否定するのですか? それとも求刑するなと?」
「否定はしない、求刑もする。だけど、その裏で苦しむ者をつくってしまうのも事実だ、その苦悩を想像しろ。逆の立場から見てみろ、俺たちはな、法をふりかざしてひどいことをする鬼だ。……今回はちょうど良い機会だ、究極の苦悩をからだに叩き込め」
そこで課長は下田に向き直り、しばらく黙っていた。
「下田君は、副検事の登用試験を目指しているのだったね。そして将来は検事を目指している。……なら、体験しておいて損にはならん。が、本当に大丈夫なのか? 別の者に交替させようか?」
おい、そいつは自分から志願したんだぞ、俺を交替させろよ。
「そうか、強いなぁ。だけど、無理するなよ」
課長は、意外に穏やかな態度だった。