プロローグ1
【呪詛】
神仏や悪霊などに祈願して恨みに思う相手に災いが降りかかるように祈る事。
呪う事。
「悪念深く侍りたうぶらむ」
【愛憎】
愛する気持ちと、憎む気持ちが同じ程度存在する事。
混ざり合った状態。
【スズランエリカ】
科名:ツツジ科
属名:エリカ属
エリカ属の花言葉
孤独、休息、裏切り、謙遜
スズランエリカの花言葉
幸せな愛を
【隆明】
目の前の女が俺に呼びかけている。
懐かしくて切ない声…
答えようとしても声が出ないんだ。
なぜなんだ…身体が動かない。
女が背を向けた。
そのまま向こうへと歩いていく。
待ってくれ
行かないでくれ
必死で呼び止めようとしたが声が出ない。
俺はいつも…ここで見てるだけだ。
菜々子…待ってくれ…
「さよなら」
女が呟いた。
瞬間、女は落ちた。
深い深い、闇の中へと。
「………!!!」
ガバッと跳ね起きた。
全身にビッショリと汗をかいている。
夢だ…
また…いつものあの夢…
「…どうしたの?」
隣で寝ていた美里が起き上がった。
眠気まなこをこすりながら俺を見ている。
「隆明…大丈夫…?」
「…ああ、大丈夫…」
目が覚めてしまったのか。
美里は起き上がって台所へと歩いて行った。
冷蔵庫からお茶取り出して戻って来る。
「お茶…飲む?」
「うん、ありがとう…」
喉が渇いていた、冷たいお茶を一気に流し込む、少し…落ち着いた。
「悪いな…起こしちゃったね」
「ううん…いいよ、どうせもう起きる時間だし」
美里が立ち上がって電気をつけた。
暗闇に慣れた眼に眩しい光が染みる。
時計を見た。
時刻は夕方の4時を指している。
朝ではない。
夕方の4時。
昼夜逆転の生活をしている俺たちにとって、夕方は朝の時間だ。
「今日はタカさんと同伴するから、よろしくね」
美里が風呂場に向かいながら言う。
「ああ…あの建築関係の社長さんか…」
「そっ!先にお風呂入っていい?」
「どうぞ」
美里は風呂場に入って行った。
俺は煙草に火をつけた。
寝起きの煙草は何故か美味く感じる。
フッーッ…
立ち昇る紫煙を見上げながら先ほどの夢を思った。
いつものあの夢…
あれから数年の時間が経ったのに、未だに傷は癒えていならいらしい…
いや…癒える事はずっとないのかもしれない…
忘れるな
そういう事なのだろうか?
俺の中の無意識の部分が、罪の意識を思い起こさせているのだろうか?
それとも、菜々子の魂が何かを伝えに来ているのだろうか?
「…菜々子」
しばらく考えていたが、答えは見つからなかった。
何年もの間考え続けて来た事だ。
今更簡単に答えが出るとも思えなかった。
とはいえ
ずいぶん長い間思考したらしい。
煙草は根本の部分まで灰になっている。
俺は考えるのをやめた。
考えても仕方がないことだ。
それに今は美里もいる。
美里と付き合い始めて、もうずいぶん経つ。
美里とは同じ店で働く同僚でもある。
キャバクラだ。
俺はマネージャーで彼女はキャスト。
美里は俺が街でスカウトして来た。
最初は恋人関係にだったのだが、美里が働きたいというので入店させた。
男子従業員とキャストが付き合っているのはあまり良い事ではない。
あらかじめ店長に説明はしてあるが、通常許されない事だ。
実際、店の女にボーイが手を出すのは風紀と呼ばれる違反行為である。
店によっては100万単位の罰金を課しているところも多い。
風紀は水商売において禁忌とされる行為だ。
だが不思議な事に風紀を犯すボーイとキャバ嬢は数多い。
制約があるほど恋は燃え上がると言うが、つまりそういう事なんだろう。
俺と美里は水商売においてかなり特殊な形だ。
一緒に暮らし始めて約2年の時間が経過していた。
「お風呂入っちゃいなよーもうすぐ出勤でしょ?」
風呂から上がった美里から声をかけられた。
身体中から湯気が立っている。
「はいよ…」
返事をして、俺も風呂へと向かった。
風呂に入り、ヒゲを剃る。
髪を乾かした後にシャツとスーツに腕を通した。
スーツを着込むと不思議と気合いが入る。
美里はその間に化粧を済ませてしまっていた。
この娘の化粧は早い、しかも薄化粧でほとんどすっぴんと変わらない。
「じゃあ私、行ってくるから」
「ん?あぁ、気をつけてな」
「はーい、いってきまーす」
女によって違うもんだ、と思った。
菜々子…あいつは化粧も出かける支度も恐ろしく長かった。
「………」
いつの間にか菜々子と美里を比べている自分に気が付き、ハッとした。
(バカだな…おれは)
美里は…本当にいい娘だ。
明るくて朗らかで、一生懸命俺に尽くしてくれている。
それに…
菜々子はもう…死んだんだ。
いつまでも過去に縛られている訳には行かない…しかし…
時計を見た、もう4時45分だ。
俺も行かなくちゃな。
5時半までに店に行かなくてはならない。
今日は金曜日だ。
きっと忙しいだろう…
俺はドアを開けて外へと出ると、店へと向かった。