表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/64

(9)泡沫の如く

★集団イジメの表現が苦手な方はご注意下さい。


「お前、受験生じゃねぇの? 勉強はいいのかよ」

「残念でした! 大学には行かないし、就職先まで決まってるのよ! 遊び倒せる最後の夏休みなんだからね」

「じゃ、俺なんか構ってねぇで遊び倒しに行けよ」

「なんか言った? 掃除のおじさん」


 昼は昼で、茜の自宅はW大から自転車で十分程度の距離にある。そのせいか、太一郎の休憩時間になると茜はさり気なく顔を出した。

 太一郎と同じグループで清掃作業に回るのは四十代から五十代の主婦が中心だ。母の年齢に近い彼女らは、真面目で黙々と働く太一郎に好印象を持っていた。そして、母子家庭で実家の手伝いをする茜のことも、同じように受け入れてくれ……。

「あら? 茜ちゃんが来たわよ。一緒にお昼食べて来なさいよ」


 親切心から二人きりにしてくれる同僚たちの誤解を解かぬまま、太一郎はひと時の甘い夢を見てしまった。


 茜の行動は気紛れに決まっている。おそらくは、言われっ放しになっている太一郎が面白いのだろう。……それでもいい。ほんの僅か、贖罪を忘れさせてくれる時間があれば、これから先も頑張ることが出来る。それは決して、奈那子を裏切ることではない、と。

 


 だが過去は……彼を赦そうとはしなかった。



 その日、茜が叫んだ一言が引き金となる。

「ねぇ! 太一郎ってば。明日は休みなんでしょ。買い物くらい付き合ってよ!」

 茜に悪気などあろうはずがない。だが、場所が悪かった。そこは太一郎が六年近くも通った商学部の建物。「太一郎」という名前は珍しくはない。だが、よくある名前でもなく……。


「太一郎って……。藤原の? 藤原先輩……何してるんすか? こんなとこで」


 笑いながら後輩の北脇大吾きたわきだいごが太一郎に声を掛けたのだった。



~*~*~*~*~



 まだ、同級生であれば良かったかも知れない。

 彼らは太一郎に群がり、甘い汁を吸った――言わば、同じ穴のむじなだ。“金と女”彼らは悪事の片棒を担いだのである。それで太一郎の罪が軽くなる訳ではないが、その連中に責められる謂れはないだろう。

 だが、後輩は違った。

 ターゲットにする女を連れて来い、と強引に命令した時もある。この北脇もその一人だ。彼の父親は藤原系列の金融会社に勤める中間管理職であった。それを知った時、以前の太一郎が悪用しない訳がないだろう。


「うるせぇな! お前の親父なんか、クビにすんのは簡単なんだぜ。お前をW大ココから追い出すのもな」


 それは、北脇の憧れ続けた女性をターゲットにして弄んだ後の、太一郎の言葉だった。

 その数日前、やっと係長に昇進できたと、喜ぶ父の姿が北脇の脳裏に浮かぶ。母はパートで働き、父は小遣いを削ってまで、「お前は頭が良いから」と幼稚園から私立に通わせてくれた。W大に入学が決まった時、両親は本当に喜んでくれたのだ。藤原の冠を被った暴君に逆らうことは、その全てが無にすることになる。

 北脇は唇を噛み締め、引き下がったのだった。



 一人に存在を知られたら、後は瞬く間に知れ渡った。

 北脇の他にも、暴君・太一郎の下僕にされた後輩たちが、嬉々として仕事中の彼を取り囲む。


「藤原から追い出されたってホントだったんだぁ」

「おもしれぇ~。あの藤原先輩が便所掃除してるぜ」

「なさけねぇな。俺だった死んでも嫌だね」


 彼らは口々に太一郎を嘲笑った。

 太一郎はそんな蔑みの視線に耐えつつ、懸命に仕事を続ける。逃げるという選択肢は、今の彼には許されていない。

「……掃除中なんだ。出て行ってくれねぇか」

 ボソッと太一郎が口にした時、北脇は大声で答えた。

「何、偉そうに命令してんだよ! お願いします、じゃねぇのか? 掃除のおっさん」

 騒ぎは少しでも小さく済ませたい。会社や大学側に、問題が起きていると知られては困るのだ。北脇に言われるまま、太一郎はもう一度頭を下げた。

「掃除が終わるまで、外に出ていて下さい。……お願いします」

 

 太一郎に向かって揶揄が飛び交う中、北脇はトイレの隅に積んであったトイレットペーパーを片っ端から床に転がした。白いロール状の塊は、縦横無尽にコロコロと転がる。水に濡れ、床に張り付いて行くのを、太一郎は黙って見ているしかない。


「ああ、わりぃな。落としちまった。片付けといてくれよ。掃除のおっさん」


 北脇を筆頭に、集まった六人ほどが一斉に笑った。

 不幸中の幸いと言うべきか。ここが男子トイレであったため、他の清掃員には気付かれていなかった。太一郎は急いで膝を折り、使い物にならなくなったトイレットペーパーを拾い集める。張り付いた分はモップでこすろう、そう思い立ち上がった直後、再び新しいトイレットペーパーが太一郎の前に転がり落ちたのだった。


「おっと、悪いね」

「いい加減にしなさいよ! 大学生にもなってイジメみたいなこと! 汚いわよ!」


 入り口から飛び込んで来たのは茜だ。小柄な身体で北脇たちに立ち向かう姿は勇ましい。だが……。


「汚い? そりゃそうだろう。こういうやり口は全部、藤原先輩コイツから教わったんだからな」

「……え?」

 

 茜の視線が太一郎に向けられた。

 太一郎には何も反論出来ない。北脇の言う通りなのだ。逆らう人間を集団で吊るし上げ、苛め抜いて来たのは太一郎自身であった。

 今、出来ることは、黙ってトイレットペーパーを拾うことくらい……。


 無言で床に伸ばした太一郎の手に、厚底のカジュアルスニーカーが乗せられた。踵部分は指を折り兼ねないほどの硬さだ。太一郎は咄嗟に拳を作るが……北脇は全体重を掛け踏み躙った。

「……グッ……くぅ」

 奥歯を噛み締めた瞬間、太一郎の喉から呻き声が漏れる。


「ちょっと! 止めてよ」

「ああ、悪ぃ悪ぃ……足が滑った」

「太一郎! どうして何にも言わないのっ!」

 太一郎に駆け寄ろうとする茜の腕を、北脇が掴んで言った。

「お前さ、うちの学生じゃないよな? コイツの女か?」


「違う!」

 答えたのは太一郎だ。

「そいつは藤原家の使用人だ。社長夫人のお気に入りで、俺の見張りみたいなもんだよ」


「違うわ、私は……」

「うるせぇ! お前が騒ぐからバレたんだろうがっ! 二度と俺の前をチョロチョロすんな……今度こそ犯すぞ!」

 茜の目は一瞬で怯えた色に染まった。

「そんなこと……万里子様に言うわよ。い、いわれたら……困るくせに」

 

 太一郎は立ち上がり、茜の前まで行くといきなりTシャツの襟首を掴んだ。そのまま引き摺るように、男子トイレから廊下に突き飛ばす。

 

「こいつらにバレたのはお前のせいだ! 今度来やがったら、便所の中に引き摺り込んでヤッちまうぞ。――忘れんなっ」


 壁に肩をぶつけたのか、茜は痛そうにしている。それ以上に、殴られた時のことを思い出したのだろう。太一郎の顔を見ることもせず、茜は走り去った。


(二度と来るな……頼むから……来るな)



 この日から、執拗な北脇の嫌がらせが始まった。


 

  

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ