(9)泡沫の如く
★集団イジメの表現が苦手な方はご注意下さい。
「お前、受験生じゃねぇの? 勉強はいいのかよ」
「残念でした! 大学には行かないし、就職先まで決まってるのよ! 遊び倒せる最後の夏休みなんだからね」
「じゃ、俺なんか構ってねぇで遊び倒しに行けよ」
「なんか言った? 掃除のおじさん」
昼は昼で、茜の自宅はW大から自転車で十分程度の距離にある。そのせいか、太一郎の休憩時間になると茜はさり気なく顔を出した。
太一郎と同じグループで清掃作業に回るのは四十代から五十代の主婦が中心だ。母の年齢に近い彼女らは、真面目で黙々と働く太一郎に好印象を持っていた。そして、母子家庭で実家の手伝いをする茜のことも、同じように受け入れてくれ……。
「あら? 茜ちゃんが来たわよ。一緒にお昼食べて来なさいよ」
親切心から二人きりにしてくれる同僚たちの誤解を解かぬまま、太一郎はひと時の甘い夢を見てしまった。
茜の行動は気紛れに決まっている。おそらくは、言われっ放しになっている太一郎が面白いのだろう。……それでもいい。ほんの僅か、贖罪を忘れさせてくれる時間があれば、これから先も頑張ることが出来る。それは決して、奈那子を裏切ることではない、と。
だが過去は……彼を赦そうとはしなかった。
その日、茜が叫んだ一言が引き金となる。
「ねぇ! 太一郎ってば。明日は休みなんでしょ。買い物くらい付き合ってよ!」
茜に悪気などあろうはずがない。だが、場所が悪かった。そこは太一郎が六年近くも通った商学部の建物。「太一郎」という名前は珍しくはない。だが、よくある名前でもなく……。
「太一郎って……。藤原の? 藤原先輩……何してるんすか? こんなとこで」
笑いながら後輩の北脇大吾が太一郎に声を掛けたのだった。
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まだ、同級生であれば良かったかも知れない。
彼らは太一郎に群がり、甘い汁を吸った――言わば、同じ穴の狢だ。“金と女”彼らは悪事の片棒を担いだのである。それで太一郎の罪が軽くなる訳ではないが、その連中に責められる謂れはないだろう。
だが、後輩は違った。
ターゲットにする女を連れて来い、と強引に命令した時もある。この北脇もその一人だ。彼の父親は藤原系列の金融会社に勤める中間管理職であった。それを知った時、以前の太一郎が悪用しない訳がないだろう。
「うるせぇな! お前の親父なんか、クビにすんのは簡単なんだぜ。お前をW大から追い出すのもな」
それは、北脇の憧れ続けた女性をターゲットにして弄んだ後の、太一郎の言葉だった。
その数日前、やっと係長に昇進できたと、喜ぶ父の姿が北脇の脳裏に浮かぶ。母はパートで働き、父は小遣いを削ってまで、「お前は頭が良いから」と幼稚園から私立に通わせてくれた。W大に入学が決まった時、両親は本当に喜んでくれたのだ。藤原の冠を被った暴君に逆らうことは、その全てが無に帰することになる。
北脇は唇を噛み締め、引き下がったのだった。
一人に存在を知られたら、後は瞬く間に知れ渡った。
北脇の他にも、暴君・太一郎の下僕にされた後輩たちが、嬉々として仕事中の彼を取り囲む。
「藤原から追い出されたってホントだったんだぁ」
「おもしれぇ~。あの藤原先輩が便所掃除してるぜ」
「なさけねぇな。俺だった死んでも嫌だね」
彼らは口々に太一郎を嘲笑った。
太一郎はそんな蔑みの視線に耐えつつ、懸命に仕事を続ける。逃げるという選択肢は、今の彼には許されていない。
「……掃除中なんだ。出て行ってくれねぇか」
ボソッと太一郎が口にした時、北脇は大声で答えた。
「何、偉そうに命令してんだよ! お願いします、じゃねぇのか? 掃除のおっさん」
騒ぎは少しでも小さく済ませたい。会社や大学側に、問題が起きていると知られては困るのだ。北脇に言われるまま、太一郎はもう一度頭を下げた。
「掃除が終わるまで、外に出ていて下さい。……お願いします」
太一郎に向かって揶揄が飛び交う中、北脇はトイレの隅に積んであったトイレットペーパーを片っ端から床に転がした。白いロール状の塊は、縦横無尽にコロコロと転がる。水に濡れ、床に張り付いて行くのを、太一郎は黙って見ているしかない。
「ああ、わりぃな。落としちまった。片付けといてくれよ。掃除のおっさん」
北脇を筆頭に、集まった六人ほどが一斉に笑った。
不幸中の幸いと言うべきか。ここが男子トイレであったため、他の清掃員には気付かれていなかった。太一郎は急いで膝を折り、使い物にならなくなったトイレットペーパーを拾い集める。張り付いた分はモップで擦ろう、そう思い立ち上がった直後、再び新しいトイレットペーパーが太一郎の前に転がり落ちたのだった。
「おっと、悪いね」
「いい加減にしなさいよ! 大学生にもなってイジメみたいなこと! 汚いわよ!」
入り口から飛び込んで来たのは茜だ。小柄な身体で北脇たちに立ち向かう姿は勇ましい。だが……。
「汚い? そりゃそうだろう。こういうやり口は全部、藤原先輩から教わったんだからな」
「……え?」
茜の視線が太一郎に向けられた。
太一郎には何も反論出来ない。北脇の言う通りなのだ。逆らう人間を集団で吊るし上げ、苛め抜いて来たのは太一郎自身であった。
今、出来ることは、黙ってトイレットペーパーを拾うことくらい……。
無言で床に伸ばした太一郎の手に、厚底のカジュアルスニーカーが乗せられた。踵部分は指を折り兼ねないほどの硬さだ。太一郎は咄嗟に拳を作るが……北脇は全体重を掛け踏み躙った。
「……グッ……くぅ」
奥歯を噛み締めた瞬間、太一郎の喉から呻き声が漏れる。
「ちょっと! 止めてよ」
「ああ、悪ぃ悪ぃ……足が滑った」
「太一郎! どうして何にも言わないのっ!」
太一郎に駆け寄ろうとする茜の腕を、北脇が掴んで言った。
「お前さ、うちの学生じゃないよな? コイツの女か?」
「違う!」
答えたのは太一郎だ。
「そいつは藤原家の使用人だ。社長夫人のお気に入りで、俺の見張りみたいなもんだよ」
「違うわ、私は……」
「うるせぇ! お前が騒ぐからバレたんだろうがっ! 二度と俺の前をチョロチョロすんな……今度こそ犯すぞ!」
茜の目は一瞬で怯えた色に染まった。
「そんなこと……万里子様に言うわよ。い、いわれたら……困るくせに」
太一郎は立ち上がり、茜の前まで行くといきなりTシャツの襟首を掴んだ。そのまま引き摺るように、男子トイレから廊下に突き飛ばす。
「こいつらにバレたのはお前のせいだ! 今度来やがったら、便所の中に引き摺り込んでヤッちまうぞ。――忘れんなっ」
壁に肩をぶつけたのか、茜は痛そうにしている。それ以上に、殴られた時のことを思い出したのだろう。太一郎の顔を見ることもせず、茜は走り去った。
(二度と来るな……頼むから……来るな)
この日から、執拗な北脇の嫌がらせが始まった。