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(8)眩しい少女


 太一郎が『名村クリーンサービス』に移って三週間が過ぎた。カレンダーは八月に入り、奈那子も妊娠七ヵ月半ばである。


「いってらっしゃいませ」


 日に日に狭くなる玄関口に立ち、奈那子はニッコリと微笑み太一郎を見送った。

「なあ、ちゃんと食ってるか? 電気代が勿体ないとか言って、エアコン切ってるんじゃないだろうな? 金が必要なら言えよ、俺がどうにかしてくるから」

 太一郎の見る限り奈那子は小食で、僅かな栄養は全て子供にやってる気がする。心配ではあったが、ほとんど傍にいられないのも現実だった。


「わたしより……太一郎さんのほうこそ、昼間働いて夜もなんて。お願いですから無茶をしないで下さい」

「俺は平気だよ。丈夫なだけが取り得なんだ。最近は見掛け倒しじゃなく、少しは筋肉もついてきたしさ……。でも、お前は子供がいるんだから、絶対に無理はするなよ」

「……はい」


 『名村クリーンサービス』の給料はこれまで以下で、とても二人が生活していけるものではなかった。太一郎は週四回、ビルの夜間警備員の仕事を増やしたのである。

 子供が産まれる十一月までは、奈那子の所在を彼女の父・桐生代議士に知られる訳にはいかない。加えて、この騒動に卓巳らを巻き込む訳にもいかないのだ。

 保険も公的支援も期待できない分、出産に掛かる費用は何をどうしても太一郎が工面する必要があった。その為なら、食事も睡眠も削れるだけ削る。命すらも削る覚悟だ。たとえ今、奈那子に宿る命が太一郎の子供でなくとも……。それは彼が人生をやり直すためにも、決して避けては通れない道だった。


 奈那子自身の体に何かあれば、すぐに救急車を呼ぶように教えてある。そして、太一郎と丸三日連絡が取れなくなれば……。その時は助けを求めるようにと、宗の名刺を奈那子に持たせた。

 何も無いことを願っている。だが、郁美はかなり欲の深いタイプだ。藤原から金を引き出せるチャンスを、このまま見逃すとは思えない。


「行って来る。帰りは明日の朝になる」


 鈍い音を響かせ、太一郎はアパートの階段を降りる。彼は人生で初めて背負った“責任”の重さを、痛いほど実感していた。しかも、片足には女郎蜘蛛の吐き出した糸が絡まっている。

 ふと見上げれば、奈那子が二階の手すり越し、懸命に手を振っていた。愛情と信頼を詰め込んだ笑顔だ。

 太一郎は軽く手を挙げ、微かに覚えた後ろめたさを振り払ったのだった。



~*~*~*~*~



「あ、またコンビニおにぎり一個だ」

 小窓から顔を押し込み、中を覗き込んでいるのは……見なくても判る、佐伯茜だ。再会してから二週間、なぜか太一郎の周囲を徘徊している。

「お前な……。店の手伝いはどうしたんだよ。弟妹の面倒はみなくていいのか?」


 茜は顔を引っ込めると、ドアの方から管理人室に入って来た。大きめのTシャツにショートパンツ、小柄で幼さの残る顔だが、ボディラインは一人前の女だ。生足にサンダルを履き、小麦色の太腿を見せ付けられるのは……今の太一郎にはちょっとした拷問である。


「うっさいなぁ。午前中手伝ったからいいの! 下も中学生だもん、最近じゃ部活だなんだって家にいないよ」

「また、勝手に入って来るし……」

「ちょっと太一郎! ここを紹介してあげたのは、私だってこと忘れてない?」

 

 そうなのだ。このビルの一階に和菓子屋『さえき』があり、六階が茜一家の住居であった。

 随分昔は佐伯家が土地も所有しており、ここは二階建ての店舗付き住宅だった。しかし、営業不振や代替りが続き相続税などの問題も生じて、茜の父親が藤原系列の不動産業者に売却したのである。今は六階建てのビルの建物だけを所有していた。その所有権を担保にした借入の返済が滞り、それが切っ掛けで茜が藤原邸に勤めることになったのだが……。

 “伊勢崎”は本名ではないので証明書が何も提示できない。怪しい仕事は幾つもあるが、それでは藤原の名前が知られた時に、卓巳らに迷惑を掛けるだろう。宗にばかり頼ることも出来ない。

「夜……どっかで働かしてくれねぇかな」

 太一郎が漏らしたそんな一言を聞き、茜はビルの管理室に話してくれたのだった。


 おまけに、

「それにさ……とおーっても貧乏で可哀想な警備員さんに差し入れよ! ハイ!」

 と言っては弁当を作ってきてくれる。

 最初、太一郎には訳が判らなかった。なぜなら、茜は去年の十二月、太一郎に襲われ殴られたのだ。レイプは未遂とはいえ、自分を殴り、無理矢理キスまで奪った男に近づく心理が、太一郎には不可解としか思えない。

 だが、

「こないだまで、何度も夢の中に出て来て怖かったのはホントよ。でも……毎日一生懸命掃除してるし、夕食は一〇五円のコンビニおにぎり一個で我慢してるし、前みたいにお酒の匂いはしないし、ね。なんか、今の太一郎に逢って、怖い夢を見なくなったの」

 茜ははにかんで頬を赤らめつつ、そんな風に話してくれた。


 ――太一郎が死んでも誰も救われない。

 あの時、万里子が言った言葉の意味がようやく判った気がする。きっと、太一郎があのままだったら、或いは、あのままで死んでいたら、茜は一生恐ろしい夢を見続けたのかも知れない。

 そしてそれは今も……。



「……お店はさ、あんまりいないほうがいい気がして……」

「例のお袋さんの“お気に入り”か? 何かされたのか?」

「ううん。太一郎が私にしたようなことは何も」

「……いちいち引き合いに出すんじゃねぇ」

「でも、目がね。嫌な予感がするんだ……再婚とか言いだされたら、どーしよー」


 父親が亡くなったのは四年前だという。夫婦で店をやっていた為、母親がそのまま老舗の味を継いだ。いずれ、娘か息子に引き継いで貰おう、と。それが、この春から少し変わって来たのだと茜は話す。原因は春に採用した三十一歳の菓子職人……。

 茜の母は若くに結婚して子供を産んだ為、まだ三十七歳であった。三人の子持ちなだけあって、見た目落ち着いた和菓子屋の女店主だが、あの郁美と年齢は大差ない。貞淑な女性であっても、心も体も揺れる時はあるだろう。その相手が新しい菓子職人、新田祐作にったゆうさくだった。

 新田の姿は、太一郎も何度か見かけた。彼は地方出身ということで、このビルの五階に住んでいる。社宅替わりだと茜の母が住まわせているらしいが……その母が度々新田宅を訪れるのが茜の悩みになっていた。

 新田は、太一郎の目にはそれほど危険な男には見えない。だが、人を見る目は今ひとつ、という自覚はある。何より茜が、新田の目からかつての太一郎のような気配を感じると言うのだ。


「それにっ、今の太一郎って超安全じゃない!」

「あのなぁ」

「なんか、狂犬病の治ったセントバーナードみたいで」

「……それは褒めてんのか?」


 そんな、何気ない話をしながら、太一郎は差し入れの弁当を平らげる。

 茜は、元々が借金返済の直談判の為、万里子に会いに来た少女だ。中々踏ん切りのつかない太一郎からすれば、羨ましいほどの行動力である。

 そんな茜に、何のために金が必要か……話せずにいる太一郎だった。

 



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