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(7)光の齎すもの


~*~*~*~*~



「あ、伊勢崎くん、今度はそっちお願いね」

「はい。ゴミはどうしますか?」


 茜は学生用のトイレを借り、手を洗って外に出たところだった。

 聞き覚えのある声に、思わず振り返る。

 


 佐伯茜さえきあかねはつい先日十八歳になった。老舗の和菓子屋の長女である。彼女は昨年、藤原邸でメイドとして勤めていた。万里子が嫁いだ頃から、今年の一月までというほんの短い間であったが……。彼女にとっては忘れられない経験だ。高校を卒業したら、ぜひまた勤めたいと思っている。

 しかし、それには一つ気掛かりが……十七歳の彼女を襲った藤原家の息子、藤原太一郎の存在であった。

 

 太一郎は粗野で乱暴な男だ。年配のメイドから充分に気をつけるように注意されていた。もちろん、茜も可能な限り避けていたのだ。

 しかし、先輩のメイド永瀬あずさに言われ、仕方なくクリーニングを届けることに。入り口で手渡すつもりが室内に呼ばれ、クローゼットに片付けて行けと言われたのだ。茜はあずさに警告された通り、入り口の扉を少し開けたまま中に入った。その直後である。太一郎は茜の腕を掴み、グレーのメイド服を引き裂いたのだ。懸命に「私は高校生です。十七歳なのよ!」と叫んでいた気がする。だが、太一郎はそんな茜を鼻で笑った。


「だからなんだ? 履歴書なんて簡単に書き換えられるんだよ。お前の家って金に困ってんだって? 金目当てに俺に言い寄ったってみんな納得するだろうな」 


 大きな声を出した瞬間、頬を殴られた。怖くて声も出なくなり、カタカタ震える唇に、生温いものを押し当てられたのだ。太一郎の唇からは煙草とアルコールの匂いがした。茜にとって最低のファーストキスだった。

 あの時、社長夫人の万里子が飛び込んで来てくれなかったら……。それを考えると、今でも恐ろしくて夜中に目が覚める時がある。事件の直後は本当に訴えようと思ったが、万里子に諭されたようで、太一郎は茜に謝罪してくれた。

 その後すぐ、太一郎は藤原邸からいなくなってしまい……。茜も母親が退院して和菓子屋を再開したので、結局その辺りの事情は判らないままであった。



 ここはW大学の構内である。茶道サークルからの注文で、茜は和菓子を配達してきたのだ。

 そして、W大は太一郎が通っていた大学であった。卒業したはずだが……あの男のこと、留年しているかも知れない。実際二度も留年しており、三度目がないとは言いきれなかった。

 

「女子トイレのゴミも纏めてお願いね」

 

 しかし、周りにいるのは清掃員だけで学生の姿は無い。

 キョロキョロしていると、ゴンッと何かに突き当たった。茜は、清掃員の女性がトイレから持ち出したゴミ箱を倒してしまい、周囲に手を拭いたペーパーが散らばってしまう。

 どうしよう、とウロウロしていると、男子トイレのゴミを運んでいた他の清掃員が駆け寄って来た。


「すみません……私」

「いえ、邪魔なところに置いたままですみませんでした。すぐに片付けますから」

 ブルーの作業着を着た大柄な男性は、顔が隠れるほど目深にキャップを被っている。

「あの、手伝います」

「本当に大丈夫ですか……ら……」

 一瞬、顔を上げた男性が息を飲む音が聞こえた。

 だがそれは……

「た、た、たいちろうっ! なっ何やってんのっ!?」

 茜の叫び声にかき消されたのであった。



~*~*~*~*~



 大学構内の一番目立たない場所にある自動販売機の前に、太一郎は立っていた。ポケットから小銭を掴み出し、その中から三百円を入れてスポーツ飲料を二本買う。

 後方のベンチに座る茜にチラリと視線をやり、太一郎はこっそりと溜息を吐いた。



 ロードスターの中で郁美を脅しつけてから、早一週間――。

 そこそこの修羅場は潜り抜けている女だが、太一郎が牙を剥くとは思ってもいなかったのだろう。車を降りた彼の後を追って来ることはなかった。

 だが、四日目には情夫の等を使い、嫌がらせをして来たのだ。

 官公庁の担当に決まった太一郎が、いきなり勤務場所を変更され、このW大の清掃に回された。半年前まで通っていた大学である。それほど真面目な生徒でなかったとはいえ、他人が四年のところを六年近く通ったのだ。顔見知りは一人や二人では済まない。

 郁美はそれを承知で太一郎をW大ここに回した。

 

 そして、今日で三日目である。幸いここまでは誰にも会ってはいない。つるんでいた連中のほとんどが、三月には卒業しているはずだから当然かも知れないが。



「ホラ。飲めよ」

 差し出されたペットボトルを、茜は恐る恐る手に取った。

「あの……何されてるんですか?」

「仕事だよ」

「藤原グループに役付きで入るって聞きましたけど……。研修とか?」


 一般社員ならともかく、役付き社員の研修でトイレ掃除をやらせる会社はまずないだろう。太一郎がベンチに腰掛けようとした時、茜はビクッと体を震わせた。

 ――茜には、手を上げたことがあった。太一郎はそのことを思い出し、ベンチから離れ地面に腰を下ろす。


「あの……伊勢崎って?」

「親父の旧姓だ」

「藤原はどうなったんですか?」

「どうもなってない。卓巳がちゃんと守ってるよ。俺が家を出ただけだ」

「でも、なんで清掃員を?」

 太一郎は仏頂面のまま天を仰いで答えた。

「悪いことをやったら、便所掃除と決まってるそうだ」


 その返答に、茜は声を上げて笑った。笑われて愉快ではないが、泣かれるよりマシだろう。

 太一郎はしばらくして立ち上がると、

「俺、行くから。出来たら、誰にも俺のことは言わないで欲しい。頼む」

 キャップを手に持ったまま、頭を下げた。

 すると、茜は交換条件を突きつけてきたのだ。


「一発、殴らせて!」

「……」


 半年前、藤原邸で謝罪した時、茜は同じ要求がしたかったという。だが、その時は怖くて太一郎に近づくことも出来なかった。でも今なら……。

 太一郎は頷き、目を閉じた。

 すると飛んできたのは、なんとグーのパンチだ。


「ちょ、ちょっと待て、俺はパーだったぞ」

「男と女なんだから、ハンデがあって当然でしょ! それに……私のファーストキスだったんだからっ!」

「……すみませんでした」


 それを言われたら一言も反論は出来ない。殴られようが蹴られようが、一切文句を言う資格はないのだ。だが、茜は一発殴ってすっきりしたらしい。


 太一郎が本気で謝っているから、許してあげてもいい、それに、

「黙っておいてあげる。弱々しい太一郎を見るのってスッゴク楽しいし、なんて言うか、秘密を握った感じ?」

「呼び捨てかよ」

「じゃあ、トイレ掃除のおじさん、とどっちがいい?」

「――何でも好きに言ってくれ」

 

 茜の“赦し”は太一郎の心に射し込んだ光だった。

 だがそれは、より一層、彼を苦難の道に導く光となったのである。 

  

 


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