(19)挨拶
「はじめまして、藤原美月です。とっても素敵なお店ですね。私、お茶のお教室に通っていたので、和菓子も大好きなんです。おばあ様は老舗の味を受け継がれた職人さんと聞きました。あ、とってもお若いのに、おばあ様なんて失礼かしら」
太一郎が『はじめまして』と『ご無沙汰しております』のどちらにするか迷っている間に、美月のほうがさっさと自己紹介を済ませていた。
しかも、茜の母を微妙に持ち上げた挨拶ぶりに、太一郎や茜も呆気に取られる。
茜の母にしても同じらしく、困ったような笑顔を見せつつ、
「うちは……藤原様とは比べものになりませんから。とても、お嬢様に“おばあ様”なんて呼ばれるようなことは、何も」
「じゃあ、茜さんのお母さんでいいですか? ああ、私には藤原の祖母も、母方の祖母もいますから、気になさらないでくださいね」
「……はあ……」
美月は出されたお茶を行儀よく飲み、さらにはお茶菓子を絶賛したあと、
「小太郎は私がみてますから、パパ、ちゃんと結婚のご挨拶をしてちょうだいね。茜さん、パパのこと、よろしくお願いします」
にこにこしながら部屋から出て行く美月を、黙って見送る太一郎だった。
さすがの太一郎にも、藤原邸で何があったのではないか、と気になり始める。だが、今はそれより目の前の試練を片づけるほうが先だ。
奈那子のときは通常の“結婚の挨拶”はせずに済ませた。それどころではなかった、というほうが正しい。だがその分、奈那子の祖父で政界に巣食う妖怪ともいうべき桐生老と対峙する羽目になったが。
文字どおり門前払いを喰らいそうなところを、卓巳に助けられ乗り切ったことを思い出す。
(今回は娘に助けられました……じゃ、洒落にならんぜ)
太一郎は襟を正し、あらためて茜の母に頭を下げる。
「ませた娘ですみません。早くに母親を亡くしたので、妙に大人びてしまって」
「いえ……立派なお宅にふさわしい、しっかりしたお嬢様だと思います」
「十年前はいろいろご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。あのときは……」
「あのときのことはもう勘弁してください!」
自分の問題に高校生の茜を巻き込み、このビルの警備員に雇ってもらったり、店の評判に傷をつけたりした。そのことを謝罪したかったのだが、茜の母は別の意味に取ったようだ。
「新田の件では大変お世話になりました。あのことを持ち出されたら、私には子供たちに意見する資格はありませんから」
「お母さん! 太一郎さんはそのことをおっしゃってるんじゃないわ。そんなこと、いつまでも気にしてるのはお母さんだけよ」
茜は太一郎には申し訳なさそうに、そして母親のことは少し責める口調だった。それは結婚詐欺に遭った母親を責めるというのではなく、負い目のように何度も口にする母親を諭す感じだ。
しかし茜はともかく、あとから事情を知った弟妹は、自分たちの都合が悪くなるとそのことで母親を責めるという。そのせいだろうか、まだ五十歳にもなっていないはずだが、この十年で茜の母はずいぶん年を取って見えた。
「いいえ! 人っていうのはね、他人のミスには厳しいものなの。大原さんとのこともそう……あちこちで噂になってるんだから、一生言われ続けるのよ。小太郎を実子同様にしてもらえるのはありがたいことだけど、後々、藤原様にご迷惑をおかけするんじゃないの?」
母親の言葉に茜は口を噤む。
それは太一郎にとってもショックな言葉だ。
過去はいつか白日の下に晒され、そのときは美月からの信頼も失うだろう。あるいは、茜と小太郎を家族にすることで、自分の罪が全員に及ぶかもしれない。
だが、太一郎は頭を上げ、茜の母を真正面からみつめた。
「おっしゃるとおりです。だからこそ、一生守っていきたいと思っています」
「今は、茜のことも気に入って小太郎も可愛がってくださるつもりかもしれませんが、十年後二十年後はどうなるか……。小太郎が手の付けられないくらい、他人様に迷惑をかける子にならないとは言えないでしょう? 大事なお嬢様の将来に響くようなことにでもなれば……。そうなってから後悔しても遅いのよ、茜」
それは母親としての言葉だろう。
茜に幸せになるなと言っているわけではなく、遠い未来のことまで心配しているだけなのだ。茜は裏切られたと思っているが、おそらく母親として娘の幸せを考えてのこと。
それが正しいか誤りかはともかく……。
太一郎の母の尚子ですら、身勝手にしか見えないが、あれで一応息子のためを思って動いている。
(こっちにすれば、迷惑極まりないんだけどな……)
小さくため息をついたあと、太一郎は何も言えずにいる茜に代わって口を開いた。
「小太郎くんは私が責任を持って一人前に育てます。といっても、私自身がまだまだ未熟者なので、完璧にとはいかないかもしれません。でも、大原氏は一度ならず二度も茜さんを裏切り、自ら父親になることを放棄した。もう二度とふたりの前に現れて欲しくない。私に守らせてください。お願いします」
畳の上に正座したまま、太一郎はふたたび頭を下げる。
茜の母は手放しで喜んでいる風情ではなかったが、「よろしくお願いします」と答えてくれたのだった。
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真っ赤なベビーカーは美月のお下がりだった。それに小太郎を乗せ、六階の通路を何往復もする。
(やっぱり赤は可哀想かな? ガサツなのはイヤだけど、乙女男子に育てるのもちょっと……)
美月のベビー用品は女の子らしい赤やピンクばかりだ。父の趣味か母の趣味かわからない。でも自由に動けない母に代わって用意してくれたのは万里子だと聞いたことがある。
(万里子おば様って、フリルとかレースとかお姫様系って大好きなのよね)
美月自身、ピンクは嫌いではないが、写真の中の母は黒か紺のワンピースが多い。そのため、最近はなるべくそういった服を選ぶようにしている。好みなどなんでもいい、似合う似合わないも二の次だった。
だが、小太郎にはどんなものを与えてやればいいのだろう。
真剣に考えながら、美月はフッと我に返った。
そんなことは美月が悩むことではない。母親の茜が、父と一緒に考え、なんでも与えてやるだろう。茜は健康で、小太郎には両親が揃っている。父は子供に不自由をさせるような人ではないのだから。
考えれば考えるほど、美月にはどこにも居場所がないような気がしてくる。
「何? この子。やだ、小太郎じゃないの」
そのとき、ふいに後ろから女性の声が聞こえた。
考え事をしている間に、エレベーターが上がってきていたようだ。女性は幼稚園くらいの子供の手を引き、もう少し幼い子供を腕に抱いていた。どちらも女の子らしい。さらに後方から男性もやって来る。
「ああ、ほら、姉貴が結婚するとかどうとか……。お袋が言ってたから、相手の男が来てるんだろう」
「茜さん本当に結婚するんだ。物好きもいたもんね」
「よせよ。聞こえるぞ」
男性のほうが美月を見て言う。
すると女性は途端に愛想笑いを浮かべ、子供を男性に渡すと美月に近づいてきた。
「こんにちは。茜さんの結婚相手のお嬢さんかしら? でも、こんなに大きなお嬢さんがいらっしゃるのねぇ。新しいママなんて大変ね。お父さんは大きな会社にお勤めって聞いたけど……お幾つなの?」
「余計なこと言うなよな。結婚しない、ここに住むって言われたら、困るのはおまえだろうが」
「馬鹿ね。ちゃんと聞いておかないと、またどんな面倒をしょい込むかわからないでしょ? 結婚とか言って、入籍せずに面倒みてもらうだけかもしれないし……。勤め先が妙な会社だったらどうするのよ。お義母さんだって、何かあるから言葉を濁したんじゃないの? ホント、いい迷惑」
ふたりの会話から察するに、この男性は茜の弟らしい。そう思って見れば、性格はともかく、頭はあまりよさそうではないところが茜とよく似ている。
女性のほうは……。
とても美人にも賢そうにも見えないが、きっと大人のオトコには評価に値するところがあるのだろう。でも、父が連れてきたのがこの女性なら、美月は藤原邸に居座ってでも反対したと思う。
(ある意味、お似合いね)
太一郎が知ればひっくり返りそうなことを考えながら、美月は口にはせずにニッコリと笑った。
「あたし、美月っていうの。九歳よ。パパはね……幾つかわかんない。おばさん、誰?」
美月の想像どおり、女性は頬を引き攣らせて答えた。
「まあ意外に子供なのね。中学生に見えたわ。お姉さんはね、あなたのママになる人の義妹になるのよ」
「ママになる人のいもうと? じゃあ、やっぱりおばさんね。学校の先生がそう言っていたもの」
彼女は美月の返事に歯をギリギリ言わせながら、
「なんでもいいわよ。あんたのパパの会社はなんていうの!? それくらいわかるでしょ?」
「パパの会社? えーっとね。……しらなーい」
美月の言葉に「もういいわ!」と吐き捨てるように言った。
大人は面白いと思う。美月が子供っぽく振る舞うと、さも自分が偉いような態度を取ってくる。それでいて、美月が思いどおりに動かないと、機嫌が悪くなるのだ。
どうして、大人というだけで子供を言いなりにできると思うのだろう?
「まあでも、子供を連れてきてるってことは、今度は不倫じゃないみたいね。本当に結婚して出て行ってくれるなら、いい厄介払いだわ」
「おい、聞こえるって」
「子供にわかるもんですか。私が茜さんを嫌うのは、人の亭主を寝取って私生児まで産んだからよ。主婦の敵だわ。そんな汚い真似しておいて、さっさと他のオトコを誑し込んで結婚するなんて……。絶対、亭主に浮気されて捨てられるわよ。そうなっても自業自得よね」
女性は遠慮なしに汚い言葉を使い、茜を貶める。
そして、美月のベビーカーを押す手が小さく震えていたことに、このふたりは気づかなかった。