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(18)それぞれの不安

「……ごめんなさい……」

 暗がりに、今にも泣きそうな茜の声が響く。

「なんで、おまえが謝るんだ?」

 ふたりは寝室のベッドに転がったまま、太一郎は茜に腕枕をしていた。何も考えずに女性の温もりに浸れたのは実に久しぶりで、口下手な彼にはその思いを上手く言葉にすることができない。

 だが、そんな沈黙が茜に余計な不安を与えたらしい。

「楽しめるなんて嘘をついて。私……男の人が苦手って気持ちが消えなくて……積極的にいろいろできないから。本当は全然楽しくなかったでしょう?」

「それって、もとを正せば俺のせい、だよな?」

 すると、茜はベッドの上に身体を起こした。

「違うって、太一郎のせいじゃない! 私がいい加減成長するべきなのよ。セックスくらい楽しめる大人の女になりたいって。わかってるのに……」

 太一郎は茜の腕を掴むと、自分の胸に引き寄せた。

「なればいいだろ。俺と一緒に……イヤか?」

「イヤじゃない。でも、太一郎は今でも奥さんが好きなんでしょう?」

 茜の質問に彼は絶句する。


(こいつ……マジで慣れてないんだな……)


 朴念仁を自覚している太一郎ですら、この状況で茜に大原とのことを聞くのはNGだとわかる。聞いたところで、苛立ちが増すだけだ、ということも。


 少し迷って、

「好きだよ。奈那子がいなきゃ、今の俺はなかったと思うし」

「……だよね。ごめん、変なこと聞いて」

「でも、あのとき、おまえに許されて俺は救われた。それに……こうやって“愛し合う”のは初めてだから……いいか悪いか、俺にもわかんねぇよ」

 頭を掻き毟りながら太一郎は正直に答える。

 茜は信じられない、といった顔つきで彼を見ていた。

「私、まだ覚えてるんだけど……あずささんとか、美和子さんとか、悠里さんとかも」

「ああ、わかった。それ以上は言うな。頼むから勘弁してくれ」

 懐かしいといえば聞こえはいいが、慙愧ざんきの念しか頭に浮かばない。そんなメイドの名前を次々に挙げられ、太一郎は早々に降参する。

「いや、だから“セックス”なら、たくさん経験してるけど。そうじゃなくて、こういう触れ合いは初めてなんだ」

 太一郎の言葉に茜は涙ぐむ。

「そんなこと言わないで……嬉しいって思っちゃうから」


 彼は黙って茜の背中に手を回し、万感の思いを込めて力いっぱい抱き締めた。

 


~*~*~*~*~



 美月を傷つけないようにしつつ、なるべく早いうちに入籍しよう。――そんなことを考えていたのはたしかだ。

 しかし、まさか茜を初めて抱いた翌日、彼女の実家を訪れる羽目になるとは。さすがの太一郎も、夢にも思わなかった。


(いや……挨拶に来るのは当然だよ。それくらいは覚悟してたっていうか……いや、でも)


「パパ、何やってるの?」

 ぶつぶつ独り言を口にしていると、美月が大きな声で太一郎を呼んだ。

 美月に視線を向けると和菓子屋『さえき』の看板が目に飛び込んできた。そこには十年前と同じ、六階建てのビルが建っている。一階に店が、六階に佐伯家の住まいがあった。ビルの壁は十年の月日を感じさせる程度に薄汚れ、それでいて、太一郎の胸に懐かしい思い出を甦らせる。

「ここまで来て逃げようなんて考えていないわよね? 聞いてる、パパ?」

「あ……ああ、聞いてるよ。逃げる気なんかないさ。ただ、あまりに急で……」

「でも、先に戻った茜さんから、お母さんに話したから来て下さい、って言われたんでしょう?」


 美月は少し口を尖らせて言った。

 四月から転入する小学校の制服を着て、腰に手を当て、胸を張ってみせる。大人ぶったポーズに苦笑しつつ、中学生並みの色気があるので太一郎とすれば気が気ではない。


「それはそうだけどな……。でも、おまえが急に早く入籍しろって言い出すから……」

「入籍したくないの?」

「そういうわけじゃ……」

「私の賛成は迷惑?」

「だから、そうじゃなくて……」

「じゃあ早く来なさい。私が付いて行ってあげるから。いいわね、パパ」

 太一郎はたじたじになりながら「……はい」と答えた。



 今朝早く、太一郎が迎えに行く前に藤原家のリムジンで美月は帰宅した。

 そして帰ってくるなり、

『パパ、結婚するなら早いほうがいいわ!』

 と言い始めたのである。

 美月曰く、今のままでは近所の人に四人の関係を説明することもできない。“親戚の人”などと適当なことを言ってしまえば、その場は取り繕えるが後々困ることになる。ならば最初から、四人家族です、と言い切ってしまったほうが楽だ。

『四月になって学校が始まれば家庭訪問もあるし、友だちができれば家にだって連れて来たいわ。そのとき、私は茜さんのことをなんて紹介したらいいの?』

 太一郎だけに任せておけない、とばかり、凄い剣幕でまくし立てる。

 さすがに茜も、

『でも……まだ、母にも話してないのよ。お父さんが悪いんじゃないの。私が……その、ひとりで育てて行こうと思っていたから……』

 太一郎の顔色を伺いながら、庇うように説明してくれた。

 しかし、嘘をついている自覚のあるふたりに、美月の繰り出す正論に敵うはずがない。

『だったら早く話すべきね。遅くなればなるほど、パパの評判を落とすことになるのよ。ほら、今日中に挨拶に行けば、明日には入籍できるじゃない!』

 結果、太一郎と茜は美月に尻を叩かれるように、急遽、佐伯家を訪ねることになる。


 まさか美月が祖母の尚子と藤原邸で一戦交えたなど、このときの太一郎にわかるはずもなく……。

 ただ、小太郎の父親の件を美月に知られないようにするため、まず、茜を実家に帰したのだった。



~*~*~*~*~



「結婚ですって? いったい誰と結婚するって言うの? 小太郎はどうするの?」

 約一ヶ月ぶりに実家に戻り、母に『結婚することになった』と伝えるなり、返ってきた返事だ。



 太一郎の家に厄介になる以上、早く入籍して世間に家族であることを明らかにする。という美月の言葉は正しいと思う。

 親戚だの、住み込みの家政婦だの、中途半端に答えて、あとから『実は結婚します』というのはたしかに外聞が悪い。太一郎の評価を落とすことにもなりかねないし、美月にも恥を掻かしてしまうだろう。

 だが、深い関係になってしまったとはいえ、茜の覚悟は充分とはいえなかった。


 本当に結婚していいのだろうか? 太一郎の好意に甘えてしまっていいのか? しかも、他の男性の子供を太一郎の実子と届け出て、周囲にもそう思わせるのは間違いではないのか?


 ただ、太一郎はすでに心を決めているようだ。

 亡くなった奈那子以外の女性との間に子供を作るつもりがないから、だから、小太郎を実子として面倒みてくれるというが……。


(もし、将来、気が変わったらどうなるの? 突然、本当の子供じゃないと言われて放り出されたら……小太郎は)


 自分はかまわないが、そのときの小太郎の気持ちを考えると辛い。

 そのときになって美月が真実を知れば、余計に傷つけるかもしれないのだ。そのことを太一郎はどう考えているのだろう。今の彼からは、昔のような頼りなさや歯切れの悪さは感じられない。

 その分、『どうして自分のような女に?』――茜はその思いを払拭できずにいた。



「茜! あなたまた、妙な男に引っかかったんじゃないでしょうね? もう、勘弁してちょうだい。あなたのせいで、老舗と呼ばれていた“さえき”の信用はガタ落ちなのよ。古くからのお得意様にも色々吹き込まれて……」


 大原の人間が触れ回ったおかげで、茜は既婚男性に言い寄り、何度も妊娠して相手を離婚させようとした悪女のように言われていた。

 そのことを弟の嫁が鬼の首を取ったように騒ぎ立て、母はそれに同調した。下手に庇うと母自身が結婚詐欺に遭いそうになったことを引っ張り出されるからだ。

 だからこそ、行き場がなく実家に身を寄せていた茜だが、小太郎を連れて家を出たのである。妹のアパートや友人の家を点々とし、やがて資金も底をついて、最後には生きる力も失った。


「大丈夫よ……覚えてる? あの……新田の事件のとき、私を助けてくれた藤原太一郎さん。奥様が亡くなられて娘さんとふたり暮しで……」

 茜が説明を始めると母は“藤原”の名前にたちまち口をつぐんだ。

「だから……娘さんには、小太郎は藤原さんの実子だと言ってあるの。ご挨拶に来られたとき、娘さんも一緒だから何も言わないで欲しいのよ」

「でも、おまえ、そんな嘘……それに、二度と子供が産めないことは話してあるの?」

「少しの間よ。お母さんだって、私たちがこの家に世話になるよりマシでしょう? 形だけだから……挨拶が済めば二度とここには来ないわ。だから、啓一と里美さんにも話しておいて」

 

 押し付けるように言い捨て、茜は泣き始めた小太郎を抱いて外に出た。もう何も、母から質問されたくはなかった。



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