(16)真実の在り処
滅多に怒らない万里子だが、こればかりは聞き流すことができなかった。
「訂正してください。そして、二度と口にしないと誓ってください。できないとおっしゃるなら、今すぐ、この邸から出て行ってください。どんな手段を使っても、この先、子供たちとあなたが一切会えないようにします。――わたしは本気です」
奈那子は命がけで美月を産んだ。そして、少しでも妻として、母親としての役目を果たそうと必死だった。愛する夫と子供を残して逝かなければならなかった悲しみは、想像するだけで胸が痛い。
残された父娘が、万里子自身と父の姿と重なり……。出過ぎないように、それでいて、美月が不自由な思いをしないように、万里子は懸命に心を砕いてきたつもりだ。
太一郎も、奈那子の存在があったからこそ、今の彼があるのだと思う。
献身的に支え合ったふたりの愛情を、そしてふたりの愛情によって生み出された“美月”という命を、否定するような言動だけは許せない。
万里子が立ち上がったことで、テーブルに置かれたコーヒーカップの中身はまだ揺れていた。
「な、な……何をおっしゃるのかしら。何様のつもり?」
「わたしですか? この藤原邸の女主人です。子供たちにとって害になる人物は、容赦なく追い出すことができるんですよ。ご存じありませんでした?」
「あたくしは、ここに住む権利が……」
「そんなことは聞いていません。お返事がいただけないようでしたら、警備員に命じて強制的に排除させていただきます」
尚子は卓巳のほうを見て、
「卓巳さん! あなた、妻にこんな勝手なことをさせて……」
理不尽にも助けを求めようとする。
しかし、卓巳はあっさり無視して立ち上がり、尚子に背を向けた。
「む、昔は、あんなにおとなしそうだったくせに……。子供を産んで、図太くなったものねっ」
「ええ、五人も産みましたから。尚子さんの五倍は図太いつもりです。さあ、どうなさいますか?」
全く怯むことのない万里子に渋々頭を下げ、尚子は二度と言わないと約束してリビングを出て行く。
そして同時に、廊下にいた小さなふたつの影も、その場から立ち去った。
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「卓巳さん……。わたしもよくわからないのですけど……まさか、太一郎さんと茜さんはずっと……」
ふたりきりになり、万里子は卓巳に尋ねる。
ここ数日、聞きたくて仕方なかったことだが、卓巳も忙しく、言葉を選んでいるうちについつい時間が経ってしまった。
「まあ、子供のことを考えたら……最低でも一年前からの関係だろうな」
「それは……そうならよろしいんですけれど」
ここ数年で再会し、愛を育んできた。しかし、妊娠に気づいた茜は美月のことを思い身を引く。数ヵ月後、東京に戻り、茜の妊娠出産を知った太一郎はすぐにプロポーズ。――万里子はとっさに、そんなロマンスを思い描く。
だが同時に、よくない想像もしてしまうのだ。
九年前、母の店を手伝うのでメイドとして働くことができなくなった。そう言って挨拶にきた茜のことは覚えている。太一郎の名前に過敏な反応を見せ、気になった万里子は宗から茜の事件を聞いた。そしてそれを助けたのが太一郎であることも。
もし、再会が奈那子の亡くなる前であったなら……。
奈那子から、妻の役目が果たせない、と万里子は何度となく相談を受けていた。丸三年、ふたりの間に夫婦生活はなかったはずだ。女性にはそれほど重要なことに思えなくても、二十代半ばの太一郎にとっては負担だったのかもしれない。
「それは、奈那子さんが生きているうちから、ふたりは付き合ってたんじゃないか、という心配かな?」
卓巳の言葉に万里子はうつむく。
まるで太一郎を疑っているかのようだ。卓巳を不快な気持ちにさせたかもしれない。謝罪と訂正を口にしようとしたとき、
「それはない。具体的な年数は言わなかったが、出張先から東京に戻ったときに会っていたと、そんなことを口にしていたな」
「そうですか。それならよかった……」
万里子はホッとした。
今となっては誰かを責めても仕方のないこと、とはいえ、あまりいい気持ちにはなれない。奈那子亡きあと、懸命に子育てをしていた太一郎が、女性に慰めを求めるのは間違ってはいないだろう。太一郎は若く健康で、この先五十年の人生がある。
万里子の父は再婚もしなかったが、自分が結婚したとき、今からでも伴侶を見つけてくれたら、そう思ったくらいだ。
勝手なものだが、子供には、親に自分だけを見て欲しい時期と、自分以外を見て欲しい時期がある。万里子の中で卓巳の存在が最優先になったとき、彼女は後者の思いを知った。
「今だから言うが……太一郎に尋ねたことがある。過去の贖罪や子供のための結婚ではなく、真剣に奈那子さんを愛してるんだな、と」
「太一郎さんは、なんて」
「即答はしなかった。でも、“俺は奈那子と結婚したい”そう答えたよ。あいつは否定するかもしれないが……本当は」
卓巳は窓から外を眺めたまま、そこで言葉を途切れさせた。
「いや、これは言っても仕方のないことだな。――太一郎と茜の付き合いがいつからにせよ。それ以外にどんな事情があるにせよ。あいつが腹を括っているなら、僕はそれを尊重してやりたい」
重みのある卓巳の言葉に万里子は「……はい」とうなずいた。
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「あの……美月ちゃん」
「何?」
「美月ちゃんのお父さんは太一郎おじさんだよね?」
「そうよ」
「じゃあ、あの、尚子おばさんが言ったのは……」
――他の男の子供を太一郎さんに押し付けて、さっさと死んでしまうなんて。
結人は美月に比べるとだいぶ幼く見えるが、尚子の口にした言葉の意味がわからないほど子供ではなかった。
母の万里子があれほどまでに怒った声も初めて聞いた。
夕食後、弟たちと何気なく話していた言葉を尚子に聞かれ、太一郎の結婚は事実か、と問い質されたのだ。まさかこんな騒ぎになるとは思わず、『そうだよ。尚子おばさんも嬉しいでしょう?』などと答えてしまい……。
父も母も結人たちを叱ることはなかったが、困ったような顔をしていた。
美月もそうだ。
『少しは気を遣ってあげないと、パパが欲求不満になって、これ以上悪い女に引っかかったら大変だもの』
藤原邸に泊まると決めたあと、結人にはそう話した。
『よっきゅーって何?』
『大人の男の人には女の人が必要なのよ。本当は、万里子おばさまにママになって欲しかったんだけど……』
『だ、だめだよ! 僕たちのお母さんだし……それに、僕のお父さんが“よっきゅーなんとか”になるよ』
『わかってるわよ。だから諦めたんじゃないの』
美月にしては珍しく、少し照れたような笑みを浮かべていた。
夕方には双子の宗姉妹も合流して、結人たちも離れで一緒に眠ることを許してもらった。新しく覚えたトランプゲームをみんなでしよう。今夜の美月なら機嫌がいいから、枕投げにも付き合ってくれるかもしれない。そんな気持ちで浮かれていた。
それなのに、尚子に知られた途端、美月の顔は曇ってしまう。
そっと離れを抜け出した美月の後を追い、母屋の一階にあるリビングのドアに、結人も一緒になって張り付いたのだった。
離れに戻る途中、美月が立ち止まる。
「さっきの話は誰にも言ってはダメよ。何も聞かなかった。結人は何も知らないの。いいわね?」
「う……ん」
「私、お手洗いに行ってから戻るから、あなたは先に離れに戻っていいわ」
美月の言葉にうなずくことしかできない結人だった。




