(15)消せない過去
*序盤、少しだけ性的な表現があります。ちょっぴりR15でお願いします。
小太郎が眠っているのを確認して、太一郎は茜を抱き、寝室に戻った。泣き声が聞こえるように、ドアは開いたままにする。
重ねた唇の甘さに酔いしれ、込み上げる感情に身を委ねた。
「待って……シャワーだけでも」
「俺が待てない」
「そんな……」
「欲しいんだ。悪い、優しくできるかどうか……自信がない」
太一郎はパジャマの下だけを穿き、上はなんの変哲もないランニングシャツを着ている。その上だけを脱ぎ、半裸で茜に圧し掛かった。
茜は前開きのシャツを着ていた。おそらく授乳のためだろう。胸をあまり刺激することは躊躇われ、首筋から鎖骨まで、丁寧に唇を這わせた。スカートの裾をたくし上げたくて堪らないが、性急に進めては十代の少年みたいで……太一郎なりに必死でブレーキをかける。
そして茜の顔を見たとき、歯を食いしばっていることに気づき――彼の心臓は凍りついた。
「なあ……これってレイプか? 俺は立場を利用して、お前にセックスを強要してるのか?」
茜も自分に好意を寄せている、そう信じていたが……。
それは十年前の幻で、茜は捨てられても大原を愛しているのではないか。そんな最悪の想像が太一郎の脳裏に浮かんだ。
「あ、ごめんなさい。違うの……あまり、慣れてないから」
「慣れてって……大原と」
茜は恥ずかしそうに手の平で顔を隠しながら、
「うん、子供まで作っておいて、って思うよね。でも、すぐにできちゃったから。回数でいったらふた桁もしてない。それに……あんまりよくなかったから……」
決して大原を責める口ぶりではない。
茜が言うには『最後は外に出すから安全』だと大原は説明したらしい。ということは、避妊らしい避妊はしなかったということだ。
それは大原が浮気にもセックスにも不慣れな男ということか……。あるいは“できたら堕ろせばいい”といった女の身体のことなど一切考えていない無責任男なのか。
言葉にして罵りたかったが、太一郎にその資格はなかった。
“できたら堕ろせばいい”――そう言って何人の女に金を払ってきただろう。若気の至り、は気休めにはなるが、免罪符にはならない。美月のことを愛しいと思えば思うほど、過去は太一郎の首を絞め続ける。
「私って妊娠しやすい体質だったみたいで……それも、怖くて……」
震えるような茜の声に、太一郎はあることに気づいた。小さく舌打ちして彼女から離れる。
そのまま、タンスから取り出したTシャツを着て、ズボンまで穿き替えた。
「ど、どうしたの?」
「ちょっと……行って来る」
「もうすぐ十一時よ。ひょっとして美月ちゃんを迎えに行くの?」
「まさか……」
口にするかどうか少し迷い、太一郎はごまかすよりハッキリと言うほうを選んだ。
「だから、十年以上もご無沙汰なんだ。コンドームの買い置きなんかないんだよ」
あってもさすがに十年前となれば微妙だろう。
「近くのコンビニまで行ってくる。シャワー浴びたいんだろ? 入ってろよ。五分で戻る」
太一郎がジャケットを羽織って出て行こうとすると、茜は「そ、そこまで、しなくても……」と、それ以上は言い辛そうに口ごもる。
「――そこまでしてもお前を抱きたいんだ」
「ち、ちがうの。そこまでしなくても……大丈夫な日だから……別に」
「馬鹿か、お前はっ!?」
太一郎は思わず怒鳴っていた。
「多分大丈夫で二回もできたんだろうが!? 少しは学習しろよ。とにかく買ってくるから、逃げるんじゃねーぞ!」
マンションから徒歩一分。道を挟んだ正面にコンビニがあった。十一時とはいえ、結構な賑わいだ。客は若い子が中心か、と思ったが、仕事帰りらしいスーツ姿の中年男性の姿もあった。
雑誌コーナーに近い棚を歩き、お目当ての箱を見つける。
そのとき、ふと店内を見回した。今の太一郎は、軽装で雑誌を立ち読みする青年より、くたびれたスーツ姿の中年男性に近い年齢だ。それを思うと苦笑いしか浮かばない。
(何やってんだろうな、俺は。本当は、こんなもの……)
複雑な思いを胸の奥に押し込め、レジに向かった。
~*~*~*~*~
「どういうことですの? 太一郎さんが結婚するですって? あたくしにも内緒でなんて。卓巳さんはご存じだったんでしょう!?」
母屋の一階にあるリビング。そこから漏れ聞こえてくるのは尚子の声だ。
太一郎は卓巳たちに口止めした。尚子には自分から話すので、無事に入籍が済むまで知られないようにして欲しい、と。
だが、子供たちだけで遊んでいるとき、
『美月ちゃんの弟かぁ、僕もお姉さんが欲しいな』
『バカだな、光希。妹はできてもお姉さんはムリに決まってるじゃないか』
『いや、僕たちにはきっと弟しかできない気がする』
『新しいお母さんができて、新しい妹もできるかもしれないね』
藤原兄弟の無邪気な会話が、尚子の耳に入った。
「しかも、子供がいるというじゃありませんか? 父親に似て要領の悪いあの子のことだから、また妙な女に引っかかったのかもしれませんわ。今度こそ、あたくしがきちんとしたお嬢さんを連れてくると言っておいたのにっ」
六十歳を過ぎ、夫と過ごす老後を考え始めた矢先、離婚を言い渡された。ある意味気の毒とも言える。
しかし、卓巳の目から見れば、太一郎の父、敦はよく耐えたほうだ。
敦が入り婿であることを理由に、尚子は傍若無人な振る舞いを繰り返していた。昔の浮気を引っ張り出しては夫を責めたり、人前であるにもかかわらず恥を掻かせたり……。
たったひとりの孫が娘であることは不満そうだった。だが、政界に名前を轟かせ、莫大な資産を持つ桐生家のひとり娘を妻にしたことに満足していたようだ。いずれ、太一郎が引き立てられ、桐生の家を継ぐことになる、と。
しかし、奈那子が亡くなり……。太一郎は桐生のものは一切受け取らず、千早物産で働き続けることを選んだ。そのとき初めて、美月が血の繋がった孫でないことを知ったのである。
それを知って、尚子の美月に対する態度が変わった。
幸運だったのは、そのときすでに奈那子も、実のひ孫だと信じていた皐月も、逝ったあとだったことだろう。
敦は、孫は孫だと言い、尚子の美月への言動を改めさせようとした。
しかし、尚子が素直に、夫の言葉に従うはずはない。
『もう、疲れたんです。彼女のいないところで、孫娘におじいちゃんと呼ばれる余生を過ごしたい。このままじゃ……美月は私のことまで嫌いそうだ』
おとなしいだけの少女ではない美月は、祖母の尚子と顔を合わせるたび、一触即発の状態だったという。
「太一郎もいい歳だ。結婚ぐらい自分で決めるでしょう。私も報告を受けただけです。叔母上がお利口にしていたら、近いうちに彼から報告がありますよ」
卓巳の馬鹿にした口調に尚子は目を剥いた。
「なんて失礼な言い方なのかしらっ!?」
「これは失礼。ついつい子供たちをなだめる口調になるんですよ。いいですか叔母上、間違っても、子供たちに変な話を吹き込まないように。とくに、美月の耳に入れば……私もいい子ではいられなくなる」
トーンを落とした卓巳の声に尚子は視線を逸らせつつ、
「ああ、あのお嬢様とは名ばかりの、アバズレ女のことかしら。他の男の子供を太一郎さんに押し付けて、さっさと死んでしまうなんて。最初から知っていたはずがないわ。あたくしたちの手前、太一郎さんが嘘を言ったのに……」
――ガチャン!
そのとき、卓巳の隣の黙って座っていた万里子が立ち上がった。