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(14)俺がいる

「茜? どっか具合でも悪いのか!?」

 いきなり泣き始めた茜に太一郎はあたふたする。

 幾つになろうと人前で女性に泣かれて、慌てふためかない男はいない。

「気分が悪いならさっきの先生を呼んでくるから……ちょっと待ってろ」

「違うの。ごめんなさい……そうじゃないから。ごめんね」

 茜はうつむいたまま、ポツリポツリと話し始めた。

「……退院のとき、今よりもっといっぱいの荷物を抱えて……小太郎を連れて、ひとりでバスに乗って帰ったから……」


 切迫早産で一ヶ月、出産後も一ヶ月近く入院していたという。

 だが見舞いは、茜が動けないときに母親が洗濯に来てくれただけだった。同室の妊婦には全員夫がいて、毎日顔を見せていた。

 大原は二度と来ないかもしれない。でも、子供が生まれたら、ひょっとしたら……。

 そんな藁にも縋るようなメールが最悪の結果を招いた。


「自業自得だってわかってるの。でも、今まで一度も、荷物なんて……持ってもらったことがなかったから……」

 入院中の奈那子のもとには、もちろん毎日顔を出した。それは特別なことでもなければ、負担でもない。少しでも傍にいたかったから、当たり前のことだった。

 一緒にいて、奈那子に荷物を持たせた覚えはないし、なるべく抱き上げて移動していたくらいで……。

 今、大原が目の前に現れたら、間違いなくぶん殴っていただろう。

「変なこと言ってごめんね。あの……」

 太一郎は手を伸ばし、茜の頭に手を置いた。

 後ろでひとつにくくった髪を、優しく撫でるようにする。

「もう、泣くな。俺がいるだろ。荷物は全部持ってやるから」

 顔を覗き込み、笑って言うことが太一郎にできる精一杯だった。



~*~*~*~*~



「小太郎があがるぞ」

 およそ九年ぶりに乳児を風呂に入れた。

 やってみれば思い出すもので、とくに太一郎の場合は男性の中でも手が大きいため、圧倒的に楽なのだ。

「あ、ありがと」

「お前、なんで赤くなってるわけ?」

 太一郎に任せるのが心配で、もっと張り付いているのかと思えば……。茜は風呂場にも入ってこない。ようやくバスタオルを手に入ってきたかと思えば、妙におどおどしている。

「だって……太一郎が裸だから」

 恥ずかしそうに顔を赤らめて言われると、太一郎のほうも妙な気分になるというもの。第一、ふたりきりになると「太一郎」と呼び捨てになっている。それも茜にすれば無意識らしい。  

 

 マンションの風呂場は意外と広い。これまではコーポ一棟借り上げの社宅か、社員寮ばかりだった。どこの風呂場も狭い作りで、美月が一緒に入りたがる時期はかなり苦労したことを思い出す。

 それに比べれば、部屋数は多くないが、収納ペースも含めてここは広い作りだ。結婚の予定はなかったが、このマンションにしていてよかった。

 そんな、浮かれた気持ちも少しはあったと思う。小太郎を受け取る茜に向かって、つい……。


「ここの風呂場は広いんだからさ、お前も裸になって入ってくればいいのに」

 予想外にも茜は一気にゆでだこのように真っ赤になり、

「な、なに、なに言って、言って……」

「そっちこそ何照れてんだよ。そういや十年前、裸同然で迫られたっけな。たしか……同情でもいいから抱いてって言われたような」

「バカッ! 十年も経って変なこと思い出さないでよ!」

「おい、ゆっくり行けよ。イライラしてると転ぶぞ」

「誰がさせてるのよ……きゃ」

 案の定、茜は風呂場と洗面所の間にある段差に引っかかる。両腕にしっかりと小太郎を抱いているので、本格的に転んだら大きな怪我をしかねない状況だ。

 太一郎はとっさに湯船から出て、ふたりを支えた。

 茜の服が濡れたが、そんなことを言っている場合じゃないだろう。

「お前、過剰反応しすぎだって。少しは落ちつけ」

「そ、それは……そ、そんなことないわよ」

 太一郎の下半身に気づいたのか、茜は逃げるように風呂場から出て行く。

 ため息をつきつつ、

「……俺もガキじゃないんだから、落ちつけって話だな……」

 とりあえず、冷たいシャワーを浴びることにした太一郎だった。



 一時間前、藤原本邸に行っている美月から電話がかかる。

『離れに泊まることにしたから。藤音ちゃんと和音ちゃんも一緒なの。勉強をみてあげることになったのよ。いいでしょう? パパ』

 藤音と和音は卓巳の秘書、宗の双子の娘だ。美月の一学年下になる。太一郎が最後に会ったのは、三年前の夏休みだった。

 当時は小学校一年の美月を藤原本邸に預け、太一郎は単身赴任をしていた。夏休みに東京に戻り、藤原本邸で美月と過ごしていると、毎日のように遊びにきていたと思う。よくしゃべる少女たちで、比較的静かで友だち作りの苦手な美月にすれば、数少ない女の子の友だちだったのではないだろうか?

「パパは美月を迎えに行く用意をしてたんだぞ。勉強なら明日にすればいいだろう? 夜は家に戻ってきなさい」

『私も一緒だからって、ふたりも泊まれることになったのよ。私が帰るって言ったらきっと困らせるわ。茜さんがいるから寂しくないでしょう? 小太郎もいるし……』

「茜は茜で、小太郎は小太郎だ。美月とは違うよ。それとも、小太郎の夜泣きがうるさかったか?」

『違うに決まってるじゃない。とにかく、藤原に泊まるから』

 美月はそれだけ言って電話を万里子に代わった。

 万里子から『心配しないで』と言われては、それ以上の反対はできず……。

  


 風呂から出て、リビングのサイドボードの上に置かれた小型の洋風仏壇に手を合わせ、そっと扉を閉める。扉は白い七宝柄で、一見仏壇とは思えないデザインだ。外した結婚指輪は、今はその中に戻してあった。

(やっぱ怒るかな? いや……奈那子が怒る訳ないか。いや、でも……うーん、なんか浮気する気分だ)

 仏壇の前でしばらく逡巡していると、背後に人の気配がした。

 

「あの……今夜も、私は小太郎とリビングに寝るから……寝る前に、お風呂入らせてもらうね」

 茜がこの家に来て三晩が過ぎた。彼女は小太郎のベビーベッドを置いたリビングで寝ている。ちょうど、ソファがベッドにもできるタイプだったこともあるが……。

「えっと……あのさ」

「無理、しないほうがいいと思うのよ。あ、私の身体じゃなくて。奥さんに“すまない”って気持ちがあるうちは、そういうことはしないほうが……いいと、思って」


 茜が全部言い終える前に、太一郎は彼女を抱き寄せていた。彼女の髪をひとつに束ねる黒いシュシュを外しながら、そっと唇を重ねる。


「余計なこと考えるなよ。とりあえず……一発やろうぜ」

 そう言った途端、突き飛ばされた。冗談半分で茜を笑わせようとしたのだが、逆効果だったらしい。

「なっなんて言い方するのよっ! もうちょっと、誘いようってもんがあるんじゃないのっ!?」

「そんなこと言われてもよくわかんねーよ」

「奥さんにもそんなこと言ってたわけ?」

 茜は本気で怒ってるようだ。

 太一郎は仕方なく天井を仰ぎ、大きく息を吐いて白状した。

「そんなこと、言えるかよ」

「じゃあなんて言ってたのよ!」

「だから……美月を産んで、亡くなるまで……合併症で苦しんでた。たぶん、一年も一緒に暮らせなかったと思う。妊娠中の経過もそんなによくなくて、入院したくらいだし……」


 奈那子は口癖のように言っていた――『本当の夫婦になれなくてごめんなさい』。太一郎にすれば、元気になったら、と答える以外になく……。『外で女性と遊んできてもいいから』奈那子はそんなふうに言ったが、あのときの太一郎はもう昔の彼とは違い、“誰でも”とは思えなかった。


「ごめん……無神経なこと言って。じゃあ、三年以上もずっと我慢してたんだ」

「いや、別に我慢というほどのことじゃないし。それに……“三年”じゃねーよ」

 

 差し迫った欲求、それは、太一郎にとって十年以上ぶりの感覚だった。



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