(13)君のくれた勇気
「まいったよ。マジで警察を呼ばれるかと思った」
待合室のベンチに座り、太一郎は嬉しそうに小太郎を抱きながら言う。
「いきなり来るから……それに、受付に手帳だけ預けてくれたらよかったのに」
「最初はそのつもりだったんだ。でも、さっきの看護師がコイツを抱いてるのが見えて……つい、俺が父親だから代わるって言ったら、凄い目で見られて……びびったな」
それは当然だろう。ちょっとした油断から大きな事件に発展している昨今、患者から預かった乳児を、父親と名乗っただけの男に渡すはずがない。
身分証で親子と証明されるならともかく、小太郎の父親の欄は空白のままなのだから……。
「でも……仕事はいいの?」
今日は平日だ。子供は春休みだろうが、どうして会社員の太一郎までもが休んでいるのだろう?
「ああ、言ってなかったっけ? 出勤は四月一日からなんだ。美月は新しい制服が届いたって藤原本邸に行った。同い年の結人もいるし、勉強も家庭教師がいて一緒に見てもらえるし。晩飯も食べてくるってさ」
本当にそれだけだろうか……。
茜は美月の気遣いを感じ、無理をさせているのではないか、と心配になる。随分大人びた少女ではあるが、それでもまだ九歳だ。
「美月なりに気を遣ってんだろうなぁ。俺、アイツが大声出して怒って……ビックリしたけど、なんか嬉しかったんだよなぁ。本当の意味で父親になれた気がして……あ、ほら、母親と違って父親って頑張らないとなれないっていうか、さ」
太一郎の言葉はなんとなくわかった。
妊娠と出産によって繋がれる母親とは違い、父親は遺伝子を提供しただけで自動的に繋がるものではないのだ。
おそらく、大原が小太郎と繋がることは一生ないだろう。彼はきっと、誰より自分が大事なのに違いない。妻子ともきちんと繋がっていないのかもしれない。そうでなければ、簡単に茜との将来を約束したりはしないはずだ。
それを思えば、亡くなった妻との約束だから茜とは子供を作らない、と宣言する太一郎のほうが誠実ではないか。
「だから……今すぐは無理でも、頑張ったらなれると思うんだよ。小太郎の父親にも」
「で、でも、何もそんなふうに頑張らなくても……まだ三十四歳でしょう? 普通に結婚して、子供を作っても奥さんは怒らないと思うわよ。だって……美月ちゃんは本当に弟妹が欲しそうだった。美月ちゃんのためにもそうするべきだと思う」
「だから、結婚しようって言ってるんじゃねーか。美月も認めてくれたんだから、もう変更はきかないぜ」
「でも小太郎は……」
そのとき、受付のほうから「佐伯茜さーん」と名前を呼ばれた。
「行ってこいよ。俺が小太郎はみとくから。でも、次に来るときは『藤原茜』だな。でなきゃ、安心して抱っこもできない」
そう言って太一郎は屈託のない笑顔を見せた。
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「失礼ですけど……佐伯小太郎くんのお父さんがいらしてると聞いて……担当医の中川と言います」
ふいに背後から声をかけられ、太一郎は待合室のベンチに座ったまま振り返った。
立っていたのは、おそらくは彼より年上の女性医師。彼女は太一郎を値踏みするよう目つきだ。
太一郎も立ち上がり、
「それはどうも……藤原太一郎と言います。その節はふたりが大変お世話になりました」
丁寧に頭を下げる。とっさに名刺を渡そうか、とも思ったが……普段着で駆けつけたため、手近なところに用意していなかった。
茜から入院中の顛末を聞かされ、太一郎は別の病院を勧めた。大原の人間が大騒ぎしたのであれば、茜も顔を出し辛いだろう、と思ったからだが……。
中川はむしろ、太一郎の人となりを探る様子で質問してきた。
「茜さんから、ご結婚の話を伺いました……藤原さんにもお子さんがいらっしゃるとか」
「はい。九歳の娘がいます」
「差し障りがなければ……奥様とは?」
「妻は娘を産んだ三年後に亡くなりました。……出産時の合併症が原因でした」
「まあ、それは……お気の毒に」
医者にはそれだけで、奈那子の闘病生活の過酷さがわかったのだろう。一気に警戒心がほぐれ、太一郎に向けるまなざしが柔らかくなった。
「お嬢さんは問題なく?」
「はい。平均以上に健康で大きく育ってくれました」
「それはよかったわ。きっとお母さんが見守っていらっしゃるんでしょうね」
中川は視線を太一郎の腕に抱かれた小太郎に向け、
「小太郎くんのお母さんもね……本当に頑張って出産したのよ。でも、中々それをわかってくれる人がいなくて……あなたなら、わかってくださるかしら?」
それが何を意味するのか、このときの太一郎にすべてがわかるはずもなく……。
「茜と最初に会ったのは、彼女が高校生のころです。彼女は母親のため、家族を守るために必死に頑張っていました。必死過ぎて、たまに間違えたりはするけど……でも、一度の過ちも犯さずに生きてる人間なんて、ひとりもいないはずだ」
問題は、過ちに気づいたとき、その先の人生をどう生きるか――。
「だから……小太郎の父親は俺です」
再び、我が子と呼べる子供を、この腕に抱く日がくるとは夢にも思わなかった。
十年前、茜のもとに行くよう、背中を押してくれたのは奈那子だった。だが、太一郎は奈那子を選んだ。あのときの決断を後悔したことは一度もない。
だが――もし、あのとき
茜を選んでいたなら、あの笑顔を自分が守ってやれたのではないか。
奈那子を自分の手で守ろうとせず、桐生の家に帰していれば……。ひょっとしたら奈那子は今も生きていたのではないか。
最愛の娘を自分の手で育てられたかもしれない。
そのときは、美月からも母親を奪わずに済んだのかも……。
後悔は一度心に浮かんだからキリがなくなる。幸福だった思い出すら、悲しみに入れ替えてしまう。だが――。
『わたしは一生信じます! 太一郎さま、どうか自信を持って下さい。あなたはわたしに愛をくれて、救って下さいました。それは……わたしの中で生涯変わらぬ真実です! ですから、どうか……あなたも心のままに』
茜は太一郎が変わったと言った。だが、本当のところは少しも変わってはいない。すぐに後悔と反省を一緒にして、身動きが取れなくなる。
そんな太一郎の背中を押してくれるのは、今も記憶の中に生き続ける奈那子だ。
「……茜さん、しばらく診察に来られなかったから何かあったのかと思ってたの。でも、そうじゃなかったのね。本当によかった。どうか、幸せにしてあげてね」
太一郎が口を開こうとしたとき、
「中川先生!」
清算を終え、戻ってきた茜は驚いたような声を上げる。
「小太郎くんのお父さんに“初めて”お会いして、ご挨拶させていただいたの。とってもいい人ね。おめでとう」
茜は一瞬だけ困ったような笑みを浮かべ、それでも「はい。ありがとうございます」と頭を下げた。
「なんか……あの女の先生に査定されたみたいだな、俺」
「いい先生なの。親身になって相談に乗ってくれて……。この病院でなかったら、私は小太郎を産む前に死んでたかもしれない……」
沈みきった茜の声を耳にしたとき、太一郎の背筋に冷たいものが流れた。
「なあ……お前、ひょっとしてかなりヤバかったのか? 早産って言ってたよな。合併症とか、後遺症とか、本当にどこも悪くないのか?」
茜が闘病中の奈那子と重なり、遠くに行ってしまう錯覚に膝が震える。
「平気よ。日常生活も……何も問題なしだって。だから……心配しないで」
なぜか恥ずかしそうに答えたあと、小太郎を抱き上げ、大きなバッグを肩に担ごうとした。
太一郎は慌ててそれを取り上げる。
「俺が持つから。それから、玄関の中で待ってろよ。駐車場から玄関前まで車を移動させてくる。今日は結構風が冷たいから……ど、どうした?」
一方的に話しながらスリッパを靴に履き替え、太一郎が振り向いたとき――。
茜の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。