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(12)癒えない傷

「佐伯さーん。佐伯茜さーん」

 名前を呼ばれて茜はベンチから立ち上がった。彼女がいる場所は、病院の待合室。太一郎の勧めで、茜は小太郎を出産した病院まで検診に訪れていた。


「小太郎くんは、首がすわるのはゆっくりめかな? まあ、そんなに焦ることはないから。ただ、体重の増え具合が今ひとつだから……お母さんの母乳の出が悪いようなら、粉ミルクの量を増やしたほうがよさそうね」

 茜を担当してくれたのは三十代後半の女医で中川という。自身もふたりの子供を持つ母親だと聞く。一年以上前から色々相談に乗ってもらい、世話になっていた。

「お母さんのほうも……月経は始まったみたいだし、大丈夫みたいね。出血が多かったり、酷い月経痛があるようなら、またお薬で調整していきましょう」

 中川の言葉に、茜は思い切って尋ねた。

「……実は、結婚という話が出てまして」

「まあ、おめでとう! それは小太郎くんのお父さん?」

「それは……違う方なんですが」

 入院中に大原の妻とその母親が乗り込んできたので、病院関係者はほとんど茜の事情を知っている。

 太一郎はそのことを心配して、別の病院にかかることを勧めたが、茜は断った。


 なぜなら、中川はもちろん、産科病棟の看護師たちは茜の味方だ。それは茜がもっと前からこの病院に通う理由を知っていたからで……。

 そんな中川は茜の結婚を聞き、相手が大原ではないと知ると顔を曇らせた。

「そう……。あれほどお話させていただいたのに……。じゃ、小太郎くんの認知や養育費も全然?」

 茜はうつむきながらうなずいた。



 一昨年の夏、茜が流産で運ばれたのはこの病院ではなかった。

 数ヶ月後、不正出血の続く茜が受診したのがこの病院で、そのときに中川の診察を受けた。診断結果は、流産の処置が悪く、子宮の回復が遅れている、と。さらに、その手術が原因かどうかは不明だが、片方の卵管が癒着していて、妊娠し難い状態であること。子宮の回復しだいでは、妊娠しても継続が難しいだろう、ということも言われた。

 月経の周期が戻り、子宮が回復するまで次の妊娠は避けたほうがいいと言われ、茜はピルを服用するようになる。

 しかし翌年、茜は再び妊娠した。

 たまたま飲んでいた風邪薬の抗生剤がピルの作用を弱めてしまったこと。大原しか知らず、流されるままに関係してしまい、『ゴムをつけて欲しい』と口に出せなかった未熟さ。加えて、自分は妊娠し難いはずだから、と。

 ……そんな思い込みと幾つかの不運の結果だった。


 とはいえ、さらなる堕胎は茜の子宮にとっては致命傷に近い。茜の人生に子供を望むなら、安静にして今回の妊娠を自然分娩で乗り切るのが最善の方法、と診断が下され……。

 茜はそのことを大原にも告げ、担当医の中川からも話してもらった。

 大原はそれを受け入れて、『茜が流産したのは妻の暴力が原因。それを妻に話して離婚し、必ず茜と子供の面倒をみる』そう中川の前で約束した。



「裁判にしてもよかったんじゃないかしら? 大原さんが、ちゃんと責任を取りたい、と言われたのを私も聞いてるんだから。それを生まれた途端、認知も拒否なんて……」

 大原の妻の暴力による後遺症。その問題も明らかにして、慰謝料を請求すべきだと言われたが、茜にはもうそれだけの気力がなかった。

「でも……それで結婚って」

 確かに、中川にすればよくわからない事態だろう。

「以前から知ってる方なんですけど……私たちの身の上に同情してくださって、面倒をみてくださる、と。あ、変な意味じゃなく……その方も奥さんを亡くされて、娘さんとふたり暮しなので」

「茜さんが望むようにすればいいと思うわよ。ただ、結婚という形を取られるなら……今は同情でも、将来的に、ふたりの間にも子供を作りたい、と思うのが自然の流れじゃないかしら? 相手の年齢にもよるだろうけど、もう、妊娠出産が無理ということは話された?」


 中川の言葉に茜はドキンとする。

 妊娠五ヶ月のころに大原がいなくなった。離婚の話し合いに戻る、と言ったきり、連絡が取れなくなったのだ。茜には他に頼れる人もなく……。出産費用を稼ぐため、彼女は無理を承知で働かざるを得なかった。

 結果、妊娠の経過は思わしくなく、早産を引き起こし、次の妊娠が不可能なほどのダメージを受けてしまう。

 もし、今度何かのことで妊娠したら、確実に堕胎しなければならない。下手をすれば命にかかわる。茜には小太郎という息子がいて……。

 彼女は子供を育てるためにひとつの決断をする。

 卵管結紮けっさつ手術をしてもらい、仮に不可抗力でも二度と妊娠できないようにしたのだった。


「それは……大丈夫です。あちらも、子供さんは欲しくないって言われてましたから」

「でも……もし」

「大原のことは、もう諦めています。あの子のためにも、今は生活を安定させないと。だから、ご親切に甘えようと思って。もし、お子さんを望まれたときは……正直に話して離婚していただくつもりです」

 それは茜の本心だった。

 今は、太一郎の親切に縋るよりほかない。彼が唐突に結婚を言い出した理由で茜に想像できるのは……家事をして、この先思春期に入る娘の面倒をみてくれる人が欲しかった。あるいは、周囲に対して憚ることのないセックスの相手を得るため、か。 

 少なくとも、太一郎は亡くなった妻を愛している。間違っても、茜との間に子供が欲しいなどとは、言い出さないはずだ。


「あの……ですから……それ以外の、妻としての役目というか」

 

 茜は赤面しつつ尋ねた。

 本当のことを言えば、セックスが怖い。大原との関係も、トータルでふた桁に乗るか乗らないか、という程度の回数しか経験していないのだ。

 そしてそのことを中川に話したとき、茜はもともと妊娠しやすい体質だったのではないか、と言われた。おそらく最初の妊娠も、初めてか二回目のとき……。小太郎も、片方の卵管が癒着しながら、再会してすぐにできた計算だ。

 セックスがもたらしたのは……茜にとって妊娠の恐怖だけ。

 可能性がない、とわかっていながらも、やはり太一郎を受け入れることにどこか抵抗があった。


 中川はそんな茜を気遣いつつ、

「身体のほうは大丈夫よ。でも、そういったことは心の問題もあるから……。無理強いするような男性なら、あまり賛成できないわね。理由が金銭的なものだけなら、公的援助も含めて考え直してみてはどうかしら?」

 そう助言してくれた。



 茜の診察中、小太郎のことは看護師にお願いしてあった。診察室から出ると、慌てて看護師の姿を探す。そのとき、「でも、知らない方にお預けする訳にはいきませんから」と、困惑したような看護師の声が聞こえた。

「でしたら、彼女に確認してきてください。藤原太一郎に子供を預けてもいいか、と」

 小太郎を抱いた看護師と向かい合って押し問答をしているのは、なんと太一郎だ。

「太一郎さん!? いったい、なんで……こんな」

 茜はびっくりして声を上げる。

「検診に必要だろ? ちょうど裏の連絡先に病院の名前が書いてあったから……」

 太一郎は茜が忘れた母子手帳を取り出すと、「中は見てないから」と小さく付け足した。

 すると看護師は、

「あの、小太郎くんのお父さんとおっしゃるんですけど……」

「そうだろ? お前からもちゃんと言ってくれ。でなきゃ、誘拐犯か不審者にされちまう」

 茜は一瞬迷ったが、本当に通報されてはシャレにならない。

「えっと……はい、この方は大丈夫なんで」

 それを聞いてようやく、看護師は小太郎を太一郎の手に渡したのである。




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