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(10)愛する娘


「美月! 待つんだ!」


 リビングで待つ茜の耳に飛び込んできたのは太一郎の声だった。

 そのときの茜は子供とふたりきりではなく。彼女とそう歳も変わらないメイドに、お茶を出してもらっていた。

「まあ、どうしたんでしょう?」

 メイドの女性は不安そうにドアのほうを見る。

 茜はとっさに立ち上がり、

「ごめんなさい。少しだけ、子供のこと見ててください。お願いします」

 返事は聞かず、茜は廊下に飛び出した。



 広いエントランスホールに大勢の人が集まっていた。周囲を使用人たちが取り巻き、中央にいるのは太一郎とおそらく娘の美月だろう。

「美月、話をしよう。パパのことを怒ってるならそれでもいい。どこにも行かず、とにかく、美月の気持ちを聞かせてくれ。それから……」

「聞いたらどうだと言うの? 結婚をやめるつもりはないんでしょう? だったら聞いても聞かなくても同じよ。邪魔はしないわ。私は桐生のおばあ様の家に行くから」

「ダメだ! ダメだ、美月。同じじゃないんだ。どうせ伝わらないと諦めるのと、努力することは別なんだ」

 

 少女の前に膝を折り、懸命に話しかける太一郎は茜の初めて見る顔だった。

 男性の顔ではなく、父親の顔。あらためて、自分の知っている彼ではないのだ、と痛感する。


「ママより好きな人ができたっていうことでしょう? だったら、私のことはいらないはずよ。もう、私がママの代わりをしなくてもいいんだわ。心配しないで、おばあ様はいつだって私のことを迎えてくださるはずだから」

 その少女は一見すると中学生のようだ。

 面長で利発そうな顔だちと、強い意思を見せる目元。おそらく、母親は相当な美人だったに違いない。太一郎が自慢するだけのことはあった。



 階段を下りた辺りにこの家の主人、卓巳と万里子夫妻の姿が見える。あれから十年の月日が流れたが、ふたりはほとんど変わった様子はない。

 ただ、ふたりの足もとに寄り添う子供たちに、茜は目を見張った。


(まあ、本当に男の子たちばかり……)

 

 長男の結人だけは茜も知っている。生後数ヶ月のころ、迷惑をかけたお詫びに母と訪れたからだ。

 誰に対してもわけ隔てなく優しく、前向きで笑みを絶やさない万里子に憧れた。理想の女性を目の当たりにして、茜は苦しくて逃げ出してしまいたくなる。



「ママのことは忘れてないし、今でも大好きだ。でも、家族として迎えたい人がいる。パパは美月も一緒に、みんなで家族になりたい」

「私は……パパとふたりでいいわ。そうじゃないなら、おばあ様のところに行きます」


 茜は美月を見て驚いた。

 もし自分なら、父を責めて泣きじゃくっているだろう。だが、彼女は興奮して頬が紅潮しているものの、涙を流す様子もなく、理路整然と言い返している。


「チャンスもくれないのか? 会ってみることも、話も聞いてくれないのか? 皆で話し合って、美月が納得するまで入籍はしない。ただ、彼女には行くところがないんだ。住む家も……今は、充分に働くこともできない。だから、うちに来てもらおうと思ってる。一緒に暮らして……それで」

「パパは甘いわ。そんなこと、相手の女が納得するはずないじゃないの。それに、私がいないほうが相手も喜ぶわよ。私には行くところがあるんだから、心配しないで」

 

 それはとても九歳の少女の言葉とは思えなかった。

 かつての粗暴さは消えうせたものの、どれほど経験を積んでも太一郎が口達者になるはずはない。逆に口の回る美月に弱り果てた様子で、ただ、娘の腕を掴んでいた。

 

「それに……藤原のおばあ様は私が嫌いなんだもの。いなくなったらお喜びになるわ」

「……そんな訳がないだろう……」

 太一郎が口にできるのはそれが精一杯のようだ。

 畳み掛けるように美月が言う。 

「いいのよ、パパ。ママは死んじゃったんだもの。私のことは気にしないで好きな人と再婚したら――」

「――結婚はしません!」


 美月の言葉を奪うように茜は叫んでいた。

 

「た……藤原さんは、私が可哀相だと思って結婚してもいいと言ってくださったの。だから、すぐに出て行きます。お騒がせして申し訳」

「茜! お前まで何を言い出すんだ!?」

 一度は承諾した結婚だが、茜は取り消すべきだと思った。だが、太一郎はそんな彼女を叱るように叫ぶ。

 太一郎が茜の名前を呼んだ瞬間、美月は刺すような視線を向けた。茜は何もかも見抜かれたようで、息を飲んでうつむく。

「いえ、本当に……ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 茜が頭を下げたとき、美月の声が聞こえた。

「そうね。パパは優しいから、そんなふうに言ったら、きっとあなたのことを見捨てないわ」

「美月!」

 太一郎が叫んだ瞬間、美月は腕を振り払い玄関に向かう。同時に、茜も身を翻した。


 やはり、太一郎にはお金だけ借りよう。子供を連れて、どうにか生活していけるように。今となっては、とても死のうとは思えない。小太郎と離れるのも嫌だった。十年前のことを引っ張り出して、助けてもらおうなんて無理な話だったのだ。そもそも、十年前も太一郎は奈那子を選んだ。今回も茜ではなく、娘を選ぶだろう。それが正しい答えなのだから。

 

「茜! どこに行く気だ!」

 背後で太一郎の声が聞こえる。茜は足が止まるが、振り返ることはできない。

「美月も待ちなさい! 茜も、勝手に出て行くんじゃない!」


 次の瞬間、藤原邸に赤ん坊の泣き声が響き渡った。



 茜は慌ててリビングに駆け戻る。

 メイドの女性は困ったような顔で、ソファに寝かせた小太郎の横に座り込んでいた。

「申し訳ありません。目を覚ましてしまって……」

 どうやら茜が思ったより若く、子育ての経験はないようだ。抱き上げてあやそうとしたが、しっかりと首のすわっていない赤ん坊を抱くのが怖かったらしい。

 茜は礼を言って小太郎を抱き上げた。

 

 そのとき、

「うわぁ! 赤ちゃんだ!」

 藤原家の五人兄弟のうち四人までリビングに入り込んできていた。荷物を肩にかけるため、ソファに座る茜の横に近づいてくる。四人は小太郎を覗き込み、興味津々といった顔だった。

「男の子だ。そうだよね? おばさん、男の子だよね?」

 泣き声を上げる赤ん坊を嫌がることなく、嬉しそうに見つめ、それぞれが笑わそうと必死になっている。

「ええ、そうよ。男の子なの」

「名前はなんて言うの?」「何歳なの?」

 左右から次々と質問され、茜のほうが面食らってしまう。

「え、ええ……あの、小太郎というの」

 茜が小さな声で答えたとき、長男の結人が大きな声を上げた。

「ええっ!? じゃあ、太一郎おじさんの子供なんだ! すごいや。僕らにとったら兄弟みたいなもんだね。だって、美月ちゃんも兄弟と一緒なんだよ。そうだよね、お母さん」


 いつの間にか、ドアのところに万里子が立っていた。

 彼女は静かに微笑み、「ええ、そうね」と答える。聞きたいことはたくさんあるだろう。事情など、さっぱりわからないに違いない。それでも、万里子であれば許してくれるような気持ちになるのはなぜだろう。

 茜は小太郎を抱きしめ、泣き出してしまいそうになる。


 だがそのとき、

「本当に……パパの子供なの?」

 凍りつくような声で美月が尋ねた。




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