(9)報告
おおよそ十年ぶりの藤原邸は、昔と様変わりしていた。
正門は新しくなり、警備員の数も増えたようだ。沿道には計算された緑だけでなく、色とりどりの花が植えられている。とくに、そこかしこに見えるチューリップは間もなく鮮やかに花開くことだろう。ちょうど、茜が働いていた時期に植えられた車道沿いの桜にも、たくさんの蕾が見え……。
「桜……こんなに大きくなったんだ」
「ああ、子供たちも大きくなってるぜ」
そのとき初めて、卓巳と万里子夫婦の間に五人の男の子が産まれたと聞き、茜はビックリした。太一郎に娘が産まれた同じ時期に、ひとり目の男の子が誕生したことしか知らない。
「あれから五人……続けて男の子なんて」
「それは卓巳の前では言いっこなしだぞ。娘がいるってだけで、恨めしそうな目で見るんだからな。ホント、まいったよ」
その口調から憎々しげな様子はない。
どうやらあれからずっと、ふたりは従兄弟としていい関係を築いてきているようだ。だがそれも、今回のことでどうなるだろう。茜の姿を見たら、卓巳は怒り出すかもしれない。
車を降りた後、茜を迎えてくれたのは見ず知らずの使用人ばかりだった。執事は浮島と名乗り、丁寧だが無表情な、おそらく三十代の男性。その名前に聞き覚えはあったが、茜の知っている浮島は六十歳を超えていたように思う。目の前の浮島に個人的な質問をする勇気は、茜にはなかった。
エントランスホールを抜け、茜は小さめのリビングに案内される。そこは親族など、家人にとって親しい客を通すスペースだった。
「万里子さんは子供たちを連れて遊びに出てるらしい。もうすぐ戻るってさ。卓巳もちょうど昼食に戻ってるらしい。書斎にいるそうだから、ちょっと話してくる。ここで待っててくれ」
そうしてしばらくの間、茜は小太郎とふたりで取り残された。
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「結婚!? お前、そんな相手がいたのか?」
思ったとおり、卓巳は驚いてはいるが頭から反対ではないようだ。
太一郎は前置きもせず、いきなり「結婚することにした」と伝えた。もともと根回しや器用な言い訳などできない人間だ。ならば率直に伝えるのが一番というのが、ここ数年で太一郎が学んだことだった。
「そりゃ……俺も男だからな」
「いや、向こうで女を作って、連れて返ってきたというならわかる。だが、数日前に戻ったばかりで……いつからの付き合いなんだ?」
「まあ……その、東京に戻ってくるたびに……それなりに」
我ながら、わかったようなわからないような説明だ。
案の定、卓巳の目に不審の色が浮かび始める。
「ああ、わかった。正直に言うよ。相手は……佐伯茜だ。覚えてるか? 卓巳さんが結婚した頃……」
「忘れるわけがないだろう。お前が家を出た年に、その娘絡みで警察沙汰にまでなったじゃないか。だが」
さらに何か言おうとした卓巳だったが、その機先を制するように、太一郎は早口で話した。
「久しぶりに再会して……その、茜が生後三ヶ月の男の子を連れてたんだ。で、プロポーズした」
「……」
嘘は言っていない。
だが、さすがに簡潔過ぎる説明だったかと思い、太一郎が付け足そうとしたとき、
「それで? 子供はお前の子か?」
低い声で卓巳が尋ねた。
「そうだ」
太一郎は間髪入れずに答える。ここでひと呼吸入れたらおしまいだ。嘘があっという間にばれる。
「太一郎、それを私に話したのはなぜだ?」
「報告だよ。――俺は茜と結婚する」
太一郎は視線を逸らさず、卓巳の目を見つめ続けた。
やがて、卓巳のほうが根負けしたように目を閉じる。そのまま立ち上がり、スッと右手を差し出した。
「――おめでとう。正式な祝いは入籍が済んだ後でいいな」
卓巳の祝いの言葉と笑顔に、太一郎もホッと息を吐く。
「ありがとう。今度も順番が違うから、多少のトラブルはあると思う。でも、前ほど卓巳さんに迷惑はかけないから、安心してくれ」
「……だったらいいがな」
少しヒヤッとする言葉を口にしながら、それでも卓巳は笑顔のままだった。
「どうだ? 結婚を機に藤原に戻らないか?」
その言葉に太一郎は驚いた。
この十年、周囲から進められることはあっても、卓巳自身が口にすることは一度もなかった。卓巳が気弱になる原因が会社にあるのだろうか? と案じたが、どうやら違ったらしい。
「その……言いたくはないが、叔母上も戻られたことだし」
太一郎の母、尚子が理由のようだ。
本来ならひとり息子の太一郎が、離婚した母の面倒をみるべきなのだろう。一応、一緒に住んでもいい、と伝えたが……。
『あたくしに、社宅に住めというの!?』
そう喚いて癇癪を起こしただけだった。
結局、万里子の口添えで、尚子は今年からこの家に戻ったのだ。裏の別棟をそのまま残しておいてくれたので、少し改修して尚子は住み始めた。
「ひょっとして、迷惑かけてるのか?」
「まあ、期待はしてなかったが……相変わらずだな」
「悪い。その、なんと言えばいいのか。本当に申し訳ない」
卓巳の苦虫を噛み潰したような顔を見れば、一目瞭然だ。卓巳たちに迷惑をかけないでくれ、と話したいが、今回、メイドあがりの茜と結婚すると言えば、さらに怒り狂う可能性がある。
「いや、まあ、万里子がそれなりにやってはくれてるんだが……。使用人もがらっと変わったんでね。万里子や私のいないときに、メイドや子供たちに色々言われるのが少し困ってる。それに……いや」
卓巳は自分で言葉を切って、話を切り替えた。
「千早物産の中でお前を正式な後継者に、という話が出てると聞いた。本当か?」
とくに隠すような話ではない。太一郎は正直に答える。
「千早社長から打診はあった。条件付きで応じたよ――」
万里子の父、千早隆太郎は六十代半ば。まだまだ、第一線を退く年齢じゃない。事実、とくに健康に問題があるわけでなく、経営も順調だ。とはいえ、明確な後継者である息子のいない彼にとって、次の社長を決め、教育を始めるのに早過ぎるという年齢でもなかった。
太一郎は自分が引き受ける条件として、あくまで“繋ぎ”にして欲しいと頼んだ。
千早社長のひとり娘である万里子には、五人もの息子がいる。長男の結人が、仮に卓巳の後継者となっても、下の四人全員が藤原に入る必要はないだろう。そのうちのひとりに千早物産を継いでもらいたい。
だが、次男の大樹が八歳、末っ子の和哉はまだ一歳。
彼らが、大学を出て一人前になるまで千早社長が現役を続けるというのも……。
「千早社長には、俺が死ぬまで働いても返せないくらいの恩がある。人並みの仕事ができるようになったのは、あの人のおかげなんだ。だから、千早物産のために尽くしたい。誰かに繋ぐまで、俺は千早から離れるつもりはない」
「そうか……。息子たちに話はするが、最終的に決めるの本人だ」
太一郎は卓巳の言葉にうなずいた。
押し付けられることほど辛いものはない。たとえ、それがやりたいことだとしても、人には向き不向きがあるのだ。
太一郎は自分が人の上に立つ器でないことはわかっていた。だからこそ、千早社長のサポートならできる。そして、その方針を次に伝えることなら……。押し付けられるのではなく、全力でやりたいと思う。
「会社の件はわかった。叔母上のことも……まあ、どうにかなるだろう。問題は、美月だな。父親べったりのあの子が、お前の再婚を受け入れるかどうか……」
そのとき、書斎のドアの外で大きな音が聞こえた。
同時に万里子の声が聞こえる。
「美月ちゃん、待って!」