(8)条件
「……は? 今、なんて」
「だから、俺と結婚しようと言ったんだ」
わけのわからない怒りに熱くなっていた茜の心は、一気に冷えていく。
自分は何を馬鹿なことを言っているのだろう。赤ん坊を抱えて死ぬと喚いている女を、太一郎が突き放せるわけがない。いい加減にしないと、茜だけじゃない、太一郎も後に引けなくなってしまう。
茜は深呼吸すると大げさな動きで、パンと手を合わせて謝った。
「ごめん。ホント、ごめんなさい。あなたに当たっても仕方ないのにね。できたら……住み込みで働ける職場を世話してください。赤ん坊がいても構わないところだったら、なんでもするから。それと……お給料をもらえるまでの生活費を貸して欲しいの。借用証は書きます。保証人はいないけど……あ、あの、何?」
真面目に話し始めた茜の手を取り、太一郎は引っ張った。
どこまで引っ張られるのだろう、と思っていたら……なんと、空いたベッドに茜を押し倒したのだ。
「ちょっと……待って、何するの?」
返事の代わりに太一郎はシュッとネクタイを解く。
上着を脱いだあとも、きっちりと締めたままだったネクタイをどうして外したのか。それを尋ねたいのに上手く言葉が出てこない。
太一郎はワイシャツのボタンを上から順に外していく。彼の鎖骨が見えた瞬間、茜は頭の中にボッと火がついたような気持ちになった。心臓が頭に移動してガンガン鼓動を刻み、口から飛び出していきそうな、あり得ない錯覚に陥る。
「た、たい、太一、太一郎……さん」
「俺が襲ってるみたいな声出すなよ。プロポーズしたのはお前だぞ」
そう言った太一郎の声にはほんのわずかだが、欲情の気配が絡んでいた。
「あ、あれは……だから、あれは」
「結婚を申し込まれたからOKした。十年前より楽しめるようになったんだろ? もちろん……試したい」
太一郎は真顔で答える。
嘘か本気か、茜にはわからない。だが、ヤケクソには思えないし、怒っているようにも見えなかった。
「ま、待って。今はまだダメ……産後の検診に行ってないから、だから」
出産から三ヶ月も経っているのだ、いくらなんでも、と自分でも思ったが、他に言い訳が思いつかない。
太一郎もそれを察したのか、茜の上からすっと退いた。
「しょうがねぇヤツ。じゃあ、お試しは今度にしといてやるよ」
茜はドキドキする胸の鼓動が鎮まらない。
確かに「結婚」なんて口走った茜が悪いのはわかっている。でも、簡単に「イエス」なんて今の太一郎に言えるはずがないのだ。
「こっ今度って……そんな、簡単に私と結婚できるはずがないじゃない。あなたのご両親だって、それに卓巳様だって許さないわ。第一、娘さんはどうするのよっ! 反対するに決まってるじゃない」
太一郎の父親はともかく、母親である藤原尚子はとんでもなく激しい女性だった。正直に言って、彼女を義母と呼ぶ自信は茜にはない。その点は、奈那子のことを尊敬する。
「いい年して、なんで親や従兄の顔色伺わなきゃならないんだ? 美月は……驚くかもしれないな。でも、ちゃんと話せばわかってくれるさ」
太一郎らしからぬ、いや、以前の彼のような甘い見通しに、茜のほうが驚いた。
昔のような若気の至りが通用する年齢じゃない。いい年をしている分だけ、周囲の目は厳しくなる。なんと言っても太一郎は、国内最大級のコンツェルン藤原グループ本家の人間なのだ。こんな、メイドあがりのコブ付き女など、連れて帰ったら顰蹙ものだろう。
このとき、茜はひとつだけ誤解していた。
太一郎は藤原グループに戻り、相応の役職に就いているに違いない、と。
無論、その件だけじゃなく。
美月の気持ちも太一郎はわかっていないように思う。
小学三年から四年に上がる時期といえば、少しずつ大人の事情もわかり始める頃だ。とくに女の子は心の成長が早い。早くに母親を亡くし、父とふたりきりでやってきたなら尚のこと。見知らぬ女に父を盗られると聞き、喜ぶ娘はいないだろう。
だが、そんな茜の心配に、太一郎はとんでもない言葉を返してきた。
「だから、ひとつだけ頼みがある。――小太郎を、俺の子どもってことにしてくれないか?」
結婚の承諾どころじゃない。信じられない提案に茜は息を飲む。
「小太郎を俺の実子として届ける。周りにも、そう言って欲しいんだ」
「そ、そんなこと……誰が信じるの? 私だったら、父親に裏切られたって思うわ。もう、口も聞きたくないって思う」
母が男と交際しているのを見るのも嫌だった。思春期だったせいかもしれないが……。
すると、太一郎は今夜はじめて言い難そうに口ごもり、しばらくしてやっと話し始めた。
「……俺のお袋のこと、覚えてるか?」
茜は首を縦に振る。忘れようにも忘れられない強烈な人だ。
「まあ、その……今月、俺は仕事で東京に戻ってきたばかりなんだけど、早速、再婚を迫ってきてうるさいんだ。孫……男の子が欲しいって」
太一郎親子が東京にいない時は、ほとんど交流はなかったという。
ところが、彼が戻ってくるとほぼ同時に、父親が離婚届けを残して藤原家を出てしまった。若い頃はともかくここ数年は浮気もせず、仕事にも積極的に取り組んでいたのだが――『これ以上、母さんについていけなくなった』と父親は太一郎にこぼしたらしい。
社長である卓巳とも話し合い、金融資産等はすべて妻に残し、仕事の役職だけそのままで、身一つで出て行った。
「夫婦は別れたら他人に戻れるけど……あんなお袋でも、俺の母親なんだ。親は切れない。まあ、何一つ期待には応えられなかった俺だけどな」
「そ、そんな嘘つかなくても、本当に結婚するんなら……子どもを作ればいいじゃない」
普通はそうだろう。
だが、太一郎の答えは違った。
「俺は……奈那子に言ったんだ。子どもは美月だけでいい、と。だから……お前と結婚しても子供は作らない」
その言葉は茜の胸に、杭のように突き刺さる。
「でも、小太郎のことは可愛がるつもりだ。美月と同じだけ、大事にする自信がある。お前のことも……大事にする」
「無理よ! 奈那子さんのこと愛してるくせにっ。私が……太一郎の子どもが欲しいって言ったらどうするの!? 十年前と同じでしょう? 奈那子さんとの約束を選ぶんでしょう? そんな……片手間で大事にされたくなんか……」
「片手間なんかじゃない!」
茜の反論を太一郎は声を荒げて否定した。
「十年前、俺たちの人生はすれ違っただけだった。この十年間をチャラにはできない。俺はたくさんのものを背負ってるけど、それでも全力で、お前と小太郎を守ってやる。今日、お前に会ったのは運命だと思う。ここから、やり直さないか?」
太一郎の手を取るのは間違っている。
茜が望むのは本物の愛情だ。貧しくても、ボロボロになるまで働いて、それでも向けてくれる笑顔が欲しい。他の女に半裸で誘惑されても、突き飛ばして帰ってきてくれるような。たとえ自分が死んだ後でも、他の女とは子どもを作らないと言ってくれるような……。
同情と愛情は似ていても違う。
また、同じ失敗を繰り返そうとしている。
茜はそう思いながら――差し伸べられた手を握り、うなずいていた。