(7)初めてのひと
茜は自分の心の奥が見たくなかった。
父が亡くなったときも、母が倒れたときも、自分がどれだけ頑張ったか。誰のおかげであの店を守れたのか……感謝するどころか、自分を追い出した家族が憎くて堪らない。
それでも、弟を変えたのは、五歳も年上のくせに妊娠して妻に納まった里美という女。そう思うことでしか、茜は悔しさを振り切ることができなかった。
そして、英介の妻も年上。しかも、妊娠という罠にかけ、大学生の英介を婿にしたのだ。酷い女に決まっている。
「だから……お前も妊娠したわけか?」
「違うわっ! 私はそんなことはしない。こんなはずじゃなかったの……だって、ピルも飲んでたし」
ピルのひと言に、太一郎は眉を顰めた。
それは……そこまでして妻帯者の男とセックスしたかったのか。そんなふうに茜を責めているようだ。
でも、理由は他にあった。妊娠中期の流産は母体にも負担が大きく、経過も良くなかった。安定して生理が来ず、コントロールするために病院で服用を勧められたのだ。
それを説明しようとして茜はやめる。
(そんなこと……太一郎に説明したって)
どうせ他の人たちと同じだ。
最初のときも、本当は知っていたに決まっている。二十五や六にもなって、そんな男の嘘に騙されるなんてありえない。
きっと太一郎も言うのだろう――正直に言え、と。
「なぁ、茜。そんなに大原氏が好きだったのか?」
太一郎の質問は茜の予想外の言葉だった。
「太一郎は思わないの? 私が……嘘を言ってるって。本当は最初からわかってて、不倫したんだろうって……言わないの?」
「言わないよ。お前は一生懸命すぎて無茶するヤツだけど、嘘は下手だし、すぐにばれるタイプだろ?」
少し笑って太一郎はペットボトルのドリンクを飲み干した。
彼はそのまま立ち上がると冷蔵庫を開け、発泡酒の缶を取り出す。
「お前も飲むか?」
声をかけられたが、茜は首を横に振った。
「お酒は飲めないから……授乳中っていうのもあるけど、苦手なの。太一郎は飲んでもいいの? だって車の運転……」
太一郎には小学生の娘がいるはずだ。昔馴染みの女のために、娘を放り出して外泊などできないだろう。
茜の話だけ聞いて、いくらかの金を持たせて、彼は娘のもとに帰るつもりでいる。だからアルコールを飲んでいないのだ、そう思っていた。
「いいんだ。俺も泊まるから」
「でも……娘さんは? ひとりなんじゃ」
「大丈夫だ。藤原の本邸で預かってもらった。電話もかけたし、車の故障って嘘ついちまったけどな」
一番小さな缶を開けつつ、太一郎はソファに戻り、ひと口飲んだ。
「お酒……たくさん飲むの?」
「いや。仕事が営業だからな、付き合いで少しだけ……。普段は全く飲まない」
普段は飲まないという彼が、どうして今は飲んでいるのだろう。
茜はそんなことを考えつつ、さっきの太一郎の質問を思い出していた。
「好き……だと思ってたよ……英介さんのこと。結婚してるって知るまでは、普通の恋人同士ってこんなふうなんだって楽しかった」
「茜、それって」
「覚えてる? えーっと……新田ってヤツ、本名は忘れちゃったけど」
茜の母を騙して金を引き出した結婚詐欺師の名前だ。
酔っ払った新田に襲われ、フェラを強要された。結果的には、そのせいで大事な場所を茜に噛み付かれ、逮捕のきっかけとなったのだが……。茜にすれば最悪の思い出だ。
「しばらく、アノことを思い出して、男の人が汚らしく感じて近づけなかった。でも、それじゃダメだと思って。家を出たとき、最初に声をかけてくれた人とデートするって心に決めたの。それが……英介さんだったから」
「じゃあ……お前、ひょっとしてアイツが最初の?」
太一郎の言葉は正解で、茜の胸に突き刺さりズキズキ痛む。
「……笑えるよね? ファーストキスは殴られて無理やりされちゃうし、経験もないのに男のアレを口に押し込まれたりさ……。この人こそって思ってバージンを捧げたら、妻子持ちなんて。オトコ運なさすぎだって。お祓いしてもらったほうがいいかな?」
痛みをごまかそうと、茜は笑いながら言った。
「好き……か。太一郎は? 奥さんのこと好きだった? 愛してた?」
「ああ」
少し照れたように横を向き、短く答える。
茜はすぐに後悔した。聞かなければよかった、と。どうしようもない嫉妬心が沸き上がり、それは太一郎へと向かう。
「へぇー、随分勝手だよね。散々女を食いモノにして、傷つけて……。お邸で働いていたときに聞いたわ。どっかの代議士のお嬢様に手を出して、妊娠させて捨てたって。なのに、そんな過去なんてなかったかのように、今は立派な重役様? 子煩悩なパパとか言われてるんでしょうね。傷つけられたほうは……死ぬまで癒えない傷を抱えて、生きていかなきゃならないのに」
太一郎の罪を責め立てても、自分の罪が消えるわけじゃない。
わかっていても、茜は言わずにいられなかった。
そんな茜をじっと見つめ、太一郎は目を伏せて答える。
「それが……奈那子なんだ」
「え?」
「代議士のお嬢様で、一服盛って身体を奪った。妊娠がわかって……俺と結婚して子供を産みたいっていう彼女を捨てたんだ。だから……」
「だから、二回目に妊娠させたときは責任を取ったんだ」
「……」
「あなたの子供なんでしょ?」
「……ああ」
太一郎は従兄の妻、万里子のことが好きなのだと思っていた。
万里子に言われて改心したのだと思っていたのに、本当は、奈那子のためだった。奈那子に子供ができたから、藤原を出て真面目に働く気になったのだ。
それがきっと愛なのだろう。
酷い目に遭わされても奈那子は太一郎を愛し続け、二度目の妊娠が彼を変えた。本物の愛なら報われる。
そして、茜の愛は報われることはなかった。
「好きかどうかなんて……わからない。英介さんのこと、好きだって思ってたけど……ホントは初めてのヒトだから、どうしても結婚したかっただけ」
「そこまでして、こだわる必要があったのか? その……“ハジメテ”ってやつに」
男にとってはそんなものなのだろう。とくに、太一郎のような男にとっては。無神経な太一郎の言葉に、茜はカッとなる。
「そうよ! 夢だったの。初めて付き合った人とキスしてゴールインできたらって。高校生の頃は、キスしたい、エッチしたいって思えるほど好きな人はいなかったんだからっ。そんな私に無理やりキスして、嫌な記憶を刷り込んだのは太一郎じゃないっ!」
嫉妬は新たな憎しみを生み、茜をさらなる闇に突き落とす。
「どうせ、たかがキスくらいって思ってるんでしょ? でも、私の男性観を狂わせたのはあなたよ! 全部、あなたのせい! あなたにさえ会わなかったら……」
「……悪い」
(もう、これ以上は無理。太一郎といたら、どんどん自分がイヤになる。死んだほうがマシだって思えるくらい、惨めになる)
茜は立ち上がり、濡れたスーツに手をかけた。
「おい! どうする気だ?」
「雨も上がったし……どうにかするわ」
「どうもならないから、子供を置いていこうとしたんだろうがっ」
「じゃあ、どうにかしてくれるの? 仕事でも世話してくれる? それとも……愛人とかはどう? 十年前より楽しめるようになったと思うわよ。試してみる?」
「……よせって。俺は真面目に話してるんだ」
「私も真面目よ。奥さんのこと今も愛してるんでしょう? 大事な娘さんが待ってるんでしょう? 私は……誰にも愛されたことがないの。結局、誰にも選ばれなかった。だから……太一郎を見てたらムカつくのよ。酷いことを言って、傷つけてやりたくなる」
「言って気が済むなら、なんでも言えよ」
「そう? じゃあ、私と結婚して! してくれないなら、会社でぶちまけてやるわ。十七歳の私を殴ってレイプしようとした男だって。それがいやなら、結婚してよっ!」
言っても言っても気が済まない。人を傷つける言葉は自分に跳ね返り、どれだけ傷つけても、自分の心が痛むだけだった。
英介にも、こんなふうに喚いたことなどない。
なのになぜ、太一郎の前では大人になれないのだろう……。十八歳の女子高生のままだ。
謝ろう、そう思って茜が口を開こうとした。
そのとき――。
「わかった、結婚しよう」
太一郎は答えたのだった。




