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(5)他山の石


「なんかヤベェことしたらしいぜ」

「客の金盗んだんだとさ」

「え? 俺は、社長の奥さんに手ェ出そうとしたって聞いたけど」


 太一郎が従業員用のロッカールームを開けた瞬間、そんな声が聞こえた。

 だが、これくらいのこと一々気にしていたら荷物も纏められない。太一郎はいつも通り、愛想のない声で朝の挨拶をし、足を踏み入れたのだった。


 噂話に興じる連中に、特に親切にしてもらった記憶はない。可愛げのあるタイプならともかく、二十年以上好き放題に生きてきたのだ。尊大な態度は体に染み込んでいて、いきなり媚など売れる筈もなく……。口を開けば「うるせぇ」と言ってしまいそうになる。それをしないために、太一郎は無口で通すしかなかった。


「お前クビだって?」

 その中の一人が太一郎に話し掛ける。二十歳になったばかりの男は、高校中退と聞いたが読み書きは小学生程度だ。それでもこの会社に入って三年目、太一郎にとっては先輩だった。

「あんなババァに手ェ出したのか? 言ってくれりゃ女くらい紹介してやったのに」

 一言も答えない太一郎を取り囲もうとするが……。彼らより太一郎のほうが、はるかに背も高く横幅もある。振り返るだけで彼らは後ずさりを余儀なくされた。


「短い間でしたがお世話になりました。――失礼します」


 太一郎はロッカーから手早く着替えやタオルを取り出し、せっせとスポーツバッグに詰める。そしてすぐに立ち上がり、頭を下げ……ロッカールームを出たのだった。

 ドアが閉まった途端、背後で太一郎を罵る声が聞こえた。


(“藤原”じゃなけりゃ、こんなもんだろうな)


 そんなことを考えながら、太一郎は事務室の奥にある社長室に向かう。


 社長の名村は還暦を過ぎているが、毎朝八時には出勤していた。学歴こそ中卒だが、人の嫌がる仕事を率先して引き受け、朝早くから夜遅くまで働き、一代で会社を大きくしたという。そんな名村からどうして等のような息子が出来たのか……不思議だ。

 だが、無人の事務室を通り抜け、社長室のドアをノックした時、中から聞こえて来たのは予想外の声であった。



「あーオマエさ、ホントはクビにしたいんだけど……。郁美ちゃんが、見張ってたほうが安心だって言うんだよねぇ。しょうがないから、ウチで雇ってやるよ。俺らって愛し合っててさ。郁美ちゃんてば優しいから、オヤジのこと見放せないの。いい子だろ? あ、郁美ちゃんに変な真似したら、オレ、マジで怒るからね」


 トップにたっぷりのレイヤーを入れ、襟足は軽く外にカールさせている。ふんわりと見せてはいるが、実のところ、かなり薄いようだ。

(二十六でこれは気の毒だな……)

 社長の息子・名村等の言葉を聞きながら、太一郎はそんな感想を持っていた。

 この会社で等は、とりあえず専務の役職に就いていた。とくに働いてはいないが、役職手当という名目の小遣いを社長から貰っているらしい。


「オヤジはもうオマエと関わりたくないんだってさ。だから、オレが来たんだよねぇ。朝早く起こされてさ……ホント迷惑」

「どうもすみません。よろしく……お願いします」

「ああ、判った、判った」


 携帯を触りながら、太一郎を追い払うように手を振った。等が腕に嵌めたロレックスは、見るからに偽物である。だが、おそらく本人も気付いてはいないだろう。


(俺も……こんなもん、か)


 そう思うと、太一郎には等に対する怒りなど沸いて来ない。寧ろ、憐れみに近い感情を覚え、太一郎は切なかった。そのまま小さな声で「失礼します」と伝え、社長室を後にしたのである。



「伊勢崎!」

 会社の敷地から出たとき、不意に背後から声を掛けられた。

「伊丹さん。あの……お世話になりました。本当はもっと長く勤めたかったんですけど」

「ああ、いい。判ってるよ。運が悪かったな……」


 伊丹清いたみきよし、四十を少し超えたばかりだと聞いている。太一郎にこの仕事を教えてくれた先輩であり、相棒だ。若い頃には悪さもした、と言い、背中の入れ墨を見せてくれた。傷害の前科があり、刑務所に入ったことで目が覚めたのだという。

 伊丹は一目で太一郎の背負った業の深さを察してくれた。当初、ささくれ立つ太一郎を相手に、文句も言わず付き合ってくれた唯一の人間だ。


「名村社長は、昔は立派な人だったんだ。でも、一緒に苦労した嫁さんを五年前に亡くして……水商売の女が悪いとは言わないが、性質の悪い女に引っ掛かったもんだよ」

 伊丹も社長夫人・郁美と義理の息子・等の関係は気付いていたという。それどころか、郁美は大学生のアルバイトにも手を出しているそうだ。無論、名村は知らない。

 名村自身は家が非常に貧しく、子供の頃からかなりの苦労をして来た。その為、子供たちには不自由ない生活をさせてやろうとしたらしい。

「それが裏目に出たんだろうなぁ。息子も娘もまともに働きゃしない」


 それでも、伊丹は太一郎の働きぶりを名村に話してくれたという。

 だが「郁美は嘘を吐くような女じゃない。お前も騙されているんだ」と受け入れてはくれなかった。


「等さんの会社か……。あそこは女が多いからな」

 太一郎が、郁美から等の会社に入れるように口添えして貰ったことを伊丹に話すと、こんな答えが返ってきた。清掃員はパートが多く、男は勤め難いと言われ、更には……。

「お前、あの女に気に入られたんじゃないか? 気をつけろよ。あの女の目当ては金かセックスだ」

 

 伊丹の言葉は的を射ている。

 だが、郁美が気に入ったのは“藤原”の金であろう。

   

「あの……今度のこと、岩井のばあちゃんに上手く伝えておいて貰えませんか? 俺が悪いことをしてクビになったんじゃない、ってことだけでも」

「ああ、わかったよ。また家に行ってやれよ。婆さん、お前のことをホントの孫みたいに可愛がってたからな」


 その言葉が妙に嬉しくて、少し悲しい太一郎であった。



 荷物は駅のコインロッカーに預け、等の会社に向かおうとした太一郎だったが……。

 突如、彼の横にトゥルーレッドのロードスターが停まった。


「はぁい、太一郎くぅん。ご機嫌いかが?」


 運転席からサングラスを外しつつ、声を上げたのは――。  

  

  


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