(5)幸せの意味
ビジネスホテルの廊下に立ち、窓越しに夜空を見上げた。
雨は嘘のように止んでいる。雨上がりの透き通った星空を見上げ、太一郎は奈那子のことを思い出していた。
八年前の今日、初めての結婚記念日を迎えたときのことを。
小康状態を保ち、正月から丸三ヵ月、奈那子は自宅で過ごしていた。ところが、再検査で四月から入院することが決まり……太一郎は奈那子をドライブに連れ出したのだ。
今のプリウスとは違い、平社員の太一郎にようやく買えた中古車。しかも軽四。文句も言わずに付き合ってくれたのは、今日訪れた寺に向かう途中の峠だった。
峠を上りきった場所に小さな展望台つきの広場がある。太一郎は奈那子と一歳半の美月を連れてその場所に行き、三人で降るような満点の星空を仰いだ。
『来年も来ような。再来年も、その次も……じいさんとばあさんになっても、結婚記念日にはふたりで来るんだ』
太一郎の言葉に奈那子は幸せそうにうなずいていた。
そのときのことを一度だけ美月に尋ねた。だが、何も覚えていないと言う。一歳半なら当然かもしれない。それに、車に乗っている間中、美月はベビーシートの上でスヤスヤ眠っていた気もする。
ただ、あの数え切れないほどの流れ星を美月が覚えていてくれたなら……。
太一郎は思い出すたびに考えるのだ。ひょっとしたら、あの出来事は幻で現実のことではなかったのかもしれない、と。奈那子に少しでも家族の思い出を作ってやりたいと願った太一郎の夢。
思いは枷となり、太一郎は他の誰にも話すことができない。そして、あの展望台にも行けずにいる。
おそらく、一生行くことができないだろう。
(ごめんな……美月。……奈那子)
携帯を握り締め、胸の中でつぶやいた。そして、太一郎は九年半はめつづけた結婚指輪をはずし、携帯と一緒に内ポケットにしまった。
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『鍵はかけるな。返事がなかったら、ドアをぶち破って問答無用で入るぞ』
茜にバスルームを使うよう勧めながら、太一郎はそんなことを口にした。
途中のコンビニでスティックタイプの粉ミルクを買い、ホテルに入るなり、彼は小太郎に飲ませてくれた。
ミルクの温度を腕の内側に垂らして確認したり、生後三ヶ月の赤ん坊を横抱きにして哺乳瓶から飲ませる仕草も、実に手慣れたものだ。逆に、これまであまり粉ミルクを飲ませたことのない茜のほうがぎこちない。
生まれてからずっと母乳だった。このまま母乳だけで育てるつもりが、ストレスと栄養状態が悪いせいか母乳の出が悪くなったのだ。小太郎の飲む量も増え、やむなく併用することに。それも、茜にすれば様々な意味で負担だった。
(奥さん……きっと幸せだったよね。娘さんも……。私はいったい何をやってるんだろう……)
茜はバスタブの中で身体を丸め、力いっぱい自分を抱きしめた。
パシャン、と顔をお湯に浸け、溢れそうな涙を閉じ込める。泣いても泣いても涙が尽きない。どれだけ泣いたら心が空っぽになるのだろう。空っぽになったらもう一度、その場所に夢や勇気を詰め込むことができるだろうか?
そのとき、茜は腕をぐいっと引っ張られた。
「バカやろう! なんで返事をしないっ!?」
「た、た、太一郎……」
お湯に浸けていたのは顔だけで、耳は聞こえていたはずなのに。どうやら、茜はノックの音も太一郎の問いかけも聞き逃していたらしい。
「風呂場で溺死なんて、カンベンしてくれ!」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。……ぼんやりしてて、聞こえなくて」
必死で言い訳していたとき、太一郎がスッと視線をそらしたことに気がついた。
茜はハッとして胸元を押さえる。
「小太郎はグッスリ寝てる。お前もいい加減上がれ」
太一郎は茜から手を離すと、背中を向けて言った。
「……はい……」
震える声で返事をする茜だった。
国道沿いのビジネスホテル、太一郎が取ったのはシングルベッドが二つ並んだツインルーム。壁際の灯りを落としたほうに小太郎が眠っていた。太一郎は窓際のソファセットに腰かけている。
テーブルの上にはスポーツ飲料のペットボトルが一本。同じものを太一郎は手にしている。てっきり、ビールでも飲んでいるのだろうと思っていたので驚きだった。
「やっと出てきたな。三十分くらい入ってたぞ。喉が渇いただろう……ほら」
そう言うと、テーブルに置かれたペットボトルをつかみ、茜に差し出す。
彼女はそれを受け取りながら、頬が火照るのを感じていた。
不可抗力とはいえ、明るい中で裸を見られたのだ。何か言われるのでは、と羞恥心を覚えていたが、太一郎にとっては大したことではなかったらしい。
(オンナじゃないんだもんね。当たり前か……)
ホッとする反面、少し切なかった。
「ありがとう。あの……ここの宿泊代も、さっきのルームサービスやコンビニで使った分も必ず返しますから……仕事さえ決まったら、本当に」
「わかった、わかった。好きにすればいい」
太一郎は茜の言葉を遮り、ため息まじりに言う。
気まずい数秒間が流れたあと、太一郎が口にしたのは、
「それで、さっき言ってた“不倫”の相手が大原英介氏か?」
それは雨の中、茜の叫んだ言葉だった。
だが、太一郎の口ぶりに違和感を覚えた茜は尋ねる。
「……ひょっとして、英介さんのことを知ってるの?」
「金沢に本社のある大原と、以前取引があった。彼は入り婿で、中学生くらいの息子がいるはずだ。――人違いか?」
太一郎の言葉に茜は首を左右に振った。
「小太郎はそいつの息子か?」
もう隠し立ては無意味だ。観念して、今度は縦に振る。すると、太一郎はこれまでとは違い、苛立たしげに茜に問いかけた。
「なぜだ? なんでそんな男と!? どうしてだ……答えろ、茜!」
十年前、茜の母は結婚詐欺の男に騙された。
男は酔った挙げ句、茜にまで手を出そうとして反撃に遭い、犯罪が明るみに出たのである。そのときに茜は太一郎と彼の知人である宗行臣の世話になった。
宗は警察や法律関係の面倒をすべて解決してくれ、茜と母は宗に礼を言い、太一郎にも直接お礼を言いたいと頼んだ。しかし、
『太一郎様ご自身が、佐伯様ご一家には二度と関わらない、と言われておいでです。これは、ご迷惑をかけた“お詫び”とのこと』
大学生だった太一郎が十七歳だった茜を殴り、犯そうとしたことがある。無理やり唇を奪われ、怖くて憎くて訴えてやりたいとも思っていた。ところが、再会した太一郎は信じられないほど真面目になっていて……。
虚勢を張って周囲を威嚇していた太一郎の本質に触れ、茜は惹かれた。
思春期に父を亡くした茜にとって、家族を守ることは自分自身の存在価値だった。誰かを守らねばならない、という強い思い。あのときの太一郎は、それを満たしてくれる人だったのだ。
だが、彼に近づいたことで茜も面倒に巻き込まれ……。
そういったすべての“お詫び”なのだ、と茜は思った。
『卓巳様もお認めになり、正式に入籍されました。お子様もお生まれになって、お幸せに暮らしておいでですよ』
宗自身が仕事で東京を離れるので、後処理は知人の弁護士に委ねたい、と言って来たとき、茜は太一郎が正式に結婚したことを聞かされた。
『太一郎様から……茜さんも幸せになってください、と』
幸せになろう。幸せになりたい。その思いはやがて、幸せにならなければいけない、に変わっていき……。
そして七年後、茜はやっと自分を幸福にしてくれる男性に出会えたのである。