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(4)光と影

(ごめん……ごめんね、小太郎……。太一郎も、いきなり巻き込んでごめんなさいっ)


 やっぱり連れて逝くことはできない。

 首を吊るなら、先に小太郎の首を自分の手で絞めなくてはならない。それができなければ……。茜の脳裏に、自分の死体の横で少しずつ弱りながら餓死する息子の姿が浮かんだ。

 今となれば、茜の人生で最も信頼できるのは太一郎しかいない。

 失恋した相手に、こんな惨めな姿を見せたくなかった。だがこれは、せめてもの神の情けだろう。いや、孫を死なせたくないと思った亡き父の計らいかもしれない。

 

『太一郎さま。勝手なお願いをして申し訳ありません。小太郎をお願いします。必ず迎えに行きますので、佐伯と大原の家には連絡しないでください。一生のお願いです。もし、警察に届けられる場合は私の名前を言わず、捨て子を拾ったとだけお伝えください。どうか、お願いいたします。茜』


 茜はまた嘘をついた。

 十年前も嘘をついて太一郎を呼び出したことを思い出す。でも、これが最後になる。

 車のダッシュボードにあった定期点検の紙の裏に、走り書きのようにメッセージを残してきた。

 太一郎なら茜が戻るのを待ち、小太郎の面倒をみてくれるかもしれない。藤原のお屋敷は大きかった。どこか片隅にでも置いてもらえたら……。小太郎は死なずに済む。

 怒って警察や佐伯の家に乗り込むかもしれない。それでも、森の中で朽ち果てるより、あの子には百倍ましな人生があるはずだ、と信じたい。

 自分はやり直すことはできなかったが、あの子は違う。

 小太郎はなんの罪も犯してはいないのだから、あの子には幸せになる権利があるはずだ。


 車を飛び出したときはほんの小雨だった。

 太一郎に見つからないようにと、コソコソとドライブインを抜け、道路に出る。その頃には、息苦しくなるほど冷たく重い雨に変わっていた。

 


 次の瞬間、シルバーグレーのプリウスが茜の行く手を阻むように横付けされた。


 運転席のドアがはじけるように開き、太一郎が降りてくる。

「……大事なものをお忘れですよ、お母さん……」

 予想はしていたが、嘘がバレたときと同じように、その声は怒りに満ちていた。

 茜は何も言えず立ち尽くすことしかできない。

「話を聞くから、とにかく乗れ」

「……わたし、は、もう」

「いいから、乗れ」

 ブンブンブンと首を横にふった。

 すると太一郎が車の前を回り、茜に近づいてくる。茜は怖くなり、咄嗟に逃げ出そうとした。

「おいっ、茜!」

「お願い、私はいいから、小太郎のことをお願い! 警察に届けてもいいから、私のことだけは言わないで! 佐伯の家じゃ、きっと可哀想なことになる。大原の家でも……。お願い……頼る人がいないの。最後のお願いよ、私にこの子は殺せない。だから」


 ――雨音に混じり、茜の耳元でパシンと水をはじく音がした。


 腕をつかまれ、振り向かされたと同時に、茜は太一郎に頬を叩かれていた。

「それは何の意地だ? 女のプライドか? だったらそんなもん捨てちまえ!」

「違うわ、私は……」

「違わない。もし、そうじゃないなら俺に頼ったはずだ」

「だから……今、頼って……」

「茜! 俺に頭を下げるのは死ぬより悔しいか? 自分の子供を捨てるほうを選ぶのかっ!?」

 

 太一郎の言うとおりだった。

 悔しかった……何もない自分が。十年前に比べて、何もかも失ってしまった自分が哀れでならない。太一郎の前から消し去ってしまいたいくらいに。


「そう……よ。最低でしょう? 私は子供を殺そうと思ってたの。最低の母親なのよ。結婚なんて全部ウソ……不倫して……望まれもしないのに子供を産んで……育てられなくなったから死のうと思ったの!」

 茜は太一郎から離れて彼を見上げた。

 頬を伝い顎から滴り落ちる雫は、雨か涙か、茜にもわからなくなる。

「ミルクもオムツも買えない。戻る家もないのよ、私たちには。……笑えば? 馬鹿な女だって。自業自得だって。それとも……お金でも恵んでくれる?」

 茜は自分がイヤになった。

 小太郎のために土下座してでも助けて欲しいというべきなのに……。そんな勇気すら、今の茜には残っていない。

 はるか昔、太一郎に言われた言葉が茜の胸に浮かぶ。


 ――信じてくれたこと、感謝してる。きっと将来は万里子様のようになれるさ。


(なれると思ってた。なりたいって……思ってたのに。どこで私は、こんなふうになっちゃったんだろう?)


 彼女の未来は真っ暗だった。

 そのまま目を閉じかけた茜に、太一郎はポツリと口にする。


「俺には笑えない」

「……」

「今のお前は十年前の俺だ。お前や万里子さんを襲って、卓巳にぶちのめされたときの……」

 茜の目の前に太一郎の手が差し伸べられる。

「“人は変われる”――なあ、茜。俺はお前を信じる」

 

 それは遠い昔、茜が太一郎に言った言葉。

 言葉は光となり、時を経て、自らの心に灯る明かりとなった。



~*~*~*~*~



『大丈夫よ、パパ。今、結人くんの家に着いたとこ。今夜は泊めてもらうから、心配しないで』

 携帯電話の向こうで父、太一郎が申し訳なさそうな声を出す。

『ホントにごめんな。車の調子が悪くなって……明日、なるべく早く帰るから』

『慌てて事故でも起こしたらどうするの? お仕事は来月の一日からなんでしょう? だったら、気にしないで』

 父はしつこいくらい謝り続ける。

 点検が終わったばかりの車が故障するとは思えない。そして……父は嘘が下手だった。

『ねえ……パパが戻ってくるのは私のところよね? ママみたいに、私を置いて急にいなくなったりしないでしょう?』

『当たり前じゃないか! 美月はパパの命だ』

『だったらいいの。私もそうよ。パパが好き……私にはパパしかいないの。だから、ゼッタイに迎えに来てね』

『もちろんだ』

 その後も、父は三回も『ごめん』と口にして電話を切ったのだった。


 

 藤原美月――来月から小学校四年生になる。

 身長は一五〇センチちょっと。同じ歳の又従兄にあたる結人より十五センチは高い。初潮はまだだが、すでにふっくらと女性的な体型に変わりつつあった。

 制服を着ると中学生に見られることも多く、美月自身はそのことを喜んでいた。

 母が亡くなる前、三歳前後の記憶なので多少曖昧なところはあるが、それ以前から父子家庭同然だった気がする。美月の覚えている母の姿は、病院の入院着ばかりだった。ベッドに座ったままか、車椅子に乗っていた。移動するときは母が美月を抱き、その母を父が抱き上げた。

『カメさんみたい~』

 絵本で見たカメが段々に重なる姿を思い浮かべ、美月は無邪気に笑っていた。

 母が亡くなり数年が経ち、美月が幼稚園の頃のこと。近所のお節介な人に『遅くまで幼児をひとりにして、虐待じゃないか』などと児童相談所に連絡されたことがあった。結局、父の帰宅まで家政婦に来てもらうことになり……。

 早く大きくなりたい。それだけが美月の願いだ。

 お正月は神社の神様に、七夕は織姫と彦星に、クリスマスはサンタクロースに、そのことをだけを頼み続けた。

(ママの代わりに私がパパの世話をするのよ。誰にも邪魔させない!)

 美月は携帯を握り締め、父に嘘をつかせた“誰か”を睨みつける。



「みっつきちゃーん! 僕らと一緒におフロ入ろーよ」

 同じ歳とは思えない結人が歩き始めたばかりの一番下の弟、和哉かずやを背負い廊下を走ってくる。

「入るわけないでしょ! 子供じゃないんだから」

 結人の脳天気な声に、“パパ専用ボイス”のスイッチをオフにして答える美月であった。


 


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