(3)嘘の中の真実
三十分後――。
茜は小太郎を抱き、太一郎の車に乗っていた。
藤原家の人たちは、ほとんどが運転手つきのリムジンを利用していた気がする。卓巳だけ自分で運転するBMWを所有していたが……。屋敷にいたときの太一郎はまったく運転していなかった。そんな彼がハイブリッドカーの代表ともいえるプリウスに乗っていることに茜は驚きだ。
約束の十分を二分ほど過ぎて、彼は茜のもとに戻ってきた。
何度か子供を置いて逃げようと考え、結局、できずに立ち尽くしたままだった。
『昔のことがあるから警戒するのはわかるけど、子供の前で人妻に襲い掛かったりしないから……心配すんな』
コートを脱いで返そうとした茜の手を押し止め、太一郎はそう言った。
そんな警戒などしていない。今の洗練された太一郎の目に、自分はくたびれた女にしか映らないだろう。
「――おい、聞いてるか?」
「え? あの……なに?」
「時間あるって言ってたろ? どこかでメシでも食っていこうぜ」
「あ、私は別に……」
茜が慌てて断ろうとしたとき、彼女のお腹はそれを遮る音を出した。茜は恥ずかしさに顔を伏せる。
(……今から死のうっていうのに……)
食べるだけ無駄だと考えつつ、丸二日もまともに食べていないことを思い出す。
「お前はともかく、小太郎はどうなんだ? 腹が空いてる頃だろう。――ミルクか?」
母乳だが、茜自身の栄養状態が悪いせいで、あまり出ないようだ。
「あ……母乳、飲ませたいんだけど……」
「わかった」
太一郎は短く言うと国道沿いにあるドライブインをみつけ、そのまま車を駐車場に停める。
「トイレに行ってくるから、その間に飲ませてやれよ。あとで俺らもメシにしよう」
茜が困惑しているうちに、太一郎はどんどん決めていく。
以前なら、どうしようか……と考え込んだまま三十分は立ち止まっていただろう。逆に茜のほうがテキパキと決めて太一郎を振り回していた。
「なんか……知らない人みたいだね」
茜は小太郎を見てポツリとつぶやいた。
~*~*~*~*~
茜は嘘をついている。
太一郎にそれがわかったのには理由があった。彼はトイレの裏手に回り車の死角に入る。携帯を取り出すと、お目当ての人間を電話帳から選び出し、通話ボタンを押した。
『あ、ご無沙汰しております。商品管理課にいました藤原です。はい、その藤原です。所長には大変お世話になりまして……』
太一郎が勤める千早物産は主に業務用食品を取り扱っている。その中には和菓子用の食材も含まれていた。天然の素材や、厳選された材料を求める店もあるが、チェーン店はコストダウンのため業務用の食品を使う店も多い。
そして、千早物産の取引先の中に“株式会社大原”という和菓子の製造・卸・小売りのチェーン店があった。
大原の本社は金沢市にある。太一郎が初めて営業に入ったころ、担当の中に大原の東京支店があった。社長は六十代の女性だったが、東京支店長の名前が太一郎の記憶に違いがなければ……大原英介。
英介は太一郎と年齢もそう変わらず、人当たりのいい男性だったように思う。
ただし――英介には三歳年上の妻がいた。というより、英介自身が大原家の入り婿だと聞いた気がする。結婚も早く、六~七年前に小学生の子供がいたはずだ。今なら中学生になっているだろう。
太一郎はそのことを確認したくて、個人的に大原の社長と懇意にしていたの営業所の所長に連絡を取ったのである。
所長は、
『大原? ああ、和菓子の。いや、とくに代替わりしたって話は聞いてないが……。東京の責任者は変わったがな』
『それって大原英介氏ですよね? 何かあったんですか?』
『あー。お前、今度から営業課長だっけかな?』
所長は途端に声をひそめる。
『はい。二課なので大原には入れてませんが……その、大原氏に関してあまりよくない噂を聞いたもので』
二課は主に冷凍食品を扱う。取引先はレストランやスーパーがメインだった。
太一郎のハッタリを信用したのか所長は話し始めた。
『一昨年の夏だったかな……あの婿殿がバイトの女の子に手を出したらしくて、それも妊娠させたとかどうとか……。大原社長から離婚させたいんだけどって相談されたんだよ。でも、雅美ちゃんがどうしても亭主と別れたくないようでな……』
雅美は英介の妻の名前だ。ふたりは大学で知り合い交際をはじめた。英介の大学在学中に妊娠がわかり、すぐに結婚したという。大原社長は三十代で夫を亡くし、女手ひとつで娘を三人育てた人物。雅美は長女で英介は後継者になるらしいが、今ひとつ頼りないと思っていたそうだ。
太一郎が出入りしていたときは、東京に英介と雅美夫婦は一家で住んでいた。その後、妻の雅美が息子を連れて金沢に戻ったという。ひとり東京に残った英介は、小売り店舗で雇ったバイトの女性と深い関係になり……。
結果、一昨年の年末には英介も金沢に呼び戻されることになった。
『その……バイトの女性というのは?』
『いや、そこまではわからんが。雅美ちゃんが怒って店先で揉めたらしくてな……相手が倒れて救急車を呼んだとかで、大騒ぎだったらしいぞ』
それ以上は聞いてもわからないだろうと思い、太一郎は礼を言って電話を切った。
太一郎は携帯を内ポケットにしまった後、考え込む。
妻が乗り込み騒ぎになったのが一昨年の夏。
騒ぎが去年の夏ならピッタリ一致するのだが、小太郎は生後三ヵ月といっていた。
(ってことは……大原氏の子供じゃないってことか? いや、それじゃ)
もし無関係なら、『英介と結婚した』などと言うはずがない。何か関係があるのだ。
茜に子供がいると知ったとき、太一郎は自分でも信じられないくらい動揺を覚えていた。
理由はわからない。茜のことは時間とともに懐かしい思い出となり、奈那子が亡くなった直後は思い出すことすらなかった。子育てと仕事に夢中で、まっとうな人間になることだけが贖罪になると信じてきたからだ。
それでも、事情を知らない会社関係者からは、何度となく再婚を勧められたが……。
奈那子を亡くして六年あまり、女性と付き合ったことなど一度もない。
(いや、だからって別に、茜に会いたいとか、会ったら何か言おうとか……考えてたわけじゃないし)
茜が幸せならそれでいい。
だが、幸せだと口にする彼女はどこか痛々しくて……。そして、左手の薬指に指輪がないのを見たとき、嫌な予感が頭をよぎった。
(妊娠中は指がむくんで、結婚指輪は外す女性も多いって聞くし……)
そう思いつつ目をやるが、指輪の跡すら見当たらないのだ。
悪い想像をはじめたらきりがない。駐車場に車がなかったことも、見知らぬ他人の指を掴み、しゃぶろうとする赤ん坊の仕草にも疑問を持った。ひょっとして、お腹を空かせているのではないか、と。
(ひとりで考えててもラチが開かないな)
太一郎は茜に直接尋ねようと決めた。
ふと気づくと、小雨がパラパラと振り出している。どうりで寒いはずだ、太一郎はそんなことを思いつつ、車に向かって歩き出した。