(2)流転
パッと見たとき、茜にはそれが誰かわからなかった。
それほど、太一郎はこの十年で変わっていたのだ。
粗野に思えた顔つきが、荒々しいながら角が取れ、若いころに比べるとスッキリした感じだ。体型も自堕落に緩んだ印象はなく、逆にやせ細ってもおらず、年齢相応の風格を備えている。何より違うのは、ステンカラーのコートを上品に着こなし、その下のスーツが様になっているところだろう。
茜の知っている太一郎は、まともな職にも就けず、パートの主婦に混じって清掃員として働く姿だった。
(きっと、藤原に戻ったんだ……奥さんと幸せにやってるんだ……)
胸にチクチクと針が刺さるようだ。
(こんなところで会いたくなかった。こんな姿を見られたくなかった。こんな……こんな……)
十年前と立場が逆転したようで、茜はたまらなく惨めな気持ちになる。
「あの、自分は藤原太一郎といいますが……佐伯茜さんではありませんか?」
太一郎は人違いと思ったのか、言葉を変えて聞きなおした。
茜は知らん顔をしようかとも思ったが、深呼吸して口を開く。
「ええ、そうです。ご無沙汰しております。その節は大変お世話になりました」
できる限り丁寧に答える。
「ああ、やっぱり! 九年……十年ぶりか? 女子高生の頃しか知らないから、人違いかと思ったぞ」
「それは私も同じです。随分、変わられましたね。一瞬、わかりませんでした」
「なんだよ、それ。俺がおっさんになったって言いたいわけか?」
相好をくずした太一郎は昔と同じだった。
その笑顔が眩しくて、茜は目を伏せる。
「この墓は……そうか、中学のときにお父さんが亡くなったんだよな」
「そうです。色々あって……この間のお彼岸に来られなかったから……太一郎……いえ、藤原さんはどちらへ?」
言ったあとで茜は気がついた。
太一郎が手にした花束が、あまりにも墓石に供えるにはふさわしくないものだということに。
「ああ、女房の墓参り。でも今日は結婚記念日だから……この日は、式のブーケと同じ花束を持ってくることにしてるんだ」
「あ……ごめんなさい、私」
「気にすんな。三ヵ月前に七回忌をやったくらいだから、もうそんなに堪えてないよ」
風が音を立て、ふたりの距離を教えるように吹き抜ける。
そのとき、茜の腕に抱かれた赤ん坊が、墓地の静寂を打ち破るような泣き声をあげた。
「佐伯の子供か? 男? 女?」
「え? ええ、私の子よ。男の子なの……今、三ヵ月」
その瞬間、太一郎はなんともいえない顔をして見せた。だが、すぐに笑顔に変わる。
「そう、だよなぁ。二十七……八だっけ? 結婚くらいしてても不思議じゃないよなぁ。あ、そうか……だから、佐伯って呼んでもピンと来なかったんだ」
茜は悪気のない太一郎の言葉に息を飲む。
(結婚……したかった。太一郎より幸せになって、どこかで再会したとき『もっと素敵な人と出会ったのよ』って自慢したかった。でも……)
現実の厳しさに茜は萎えそうになる心を必死で励まし、太一郎に笑顔を向ける。
「結婚したの……今は、大原って言うのよ。小さいけど和菓子屋のチェーン店をしてて……」
「……」
太一郎は何も言わず聞いていた。
言い始めると茜は止まらず、
「年は少し離れてるんだけど……でも、大切にしてくれて、とっても幸せよ。実家は弟が結婚してお嫁さんと一緒にやってるわ。母とはいろいろあるみたいだけど……。ああ、私は姑がいないから、そんな揉め事もなくて、気楽なものよ」
「そうか……ご主人はなんて言うんだ?」
「大原……英介よ。今年、三十六になるの……あなたより少し上かしら」
「この、小さい王子様の名前は?」
「それは……」
茜は言いよどんだ。
でも、ひとつくらい、嘘は言いたくない。
「小太郎……小太郎というの。私がつけたの。ちょっとレトロだけど……」
「確かに。まるで、俺の息子みたいだな」
その言葉は茜の心を激しく揺さぶった。
太一郎はニコニコ笑いながら、小太郎の頬に指先で触れる。
「よぉ坊主、太一郎ってんだ、よろしくな」
その声に小太郎はピタリと泣き止み、目の前で動く指をつかもうと手を伸ばす。
「ところで……。ここまでタクシーで来たのか?」
「え? え、ええ、まあ」
本当は近くまでバスで来て、そこから一時間近く歩いた。でも、そんなこと太一郎に言えるはずがない。
「だったら待っててもらえばいいのに……。こんな不便なところ、事務所で呼んでもらっても、かなり待つ羽目になるぞ」
「いいのよ、別に。急いでないし」
「なに言ってんだ。お前が急いでなくても、子供が可哀想だろうに」
父親らしいセリフに茜は涙がこぼれそうになる。
それをグッと堪えて、
「へぇ……パパらしくなったじゃない。子供さんはおひとり?」
「ああ、あのときに生まれた娘がひとり、もう九歳だ。俺に似て超美人なんだぜ。今度会わせてやるよ」
「それは……奥さんが超美人だったってことね。良かったわね、太一郎に似なくて……あ、ごめん」
思わず昔を思い出し、茜は彼を呼び捨てにしてしまって慌てて謝った。
太一郎はあの藤原家の人間なのだ。茜とは住む世界が違ってしまっている。
「ちょっと待ってろ。奈那子に挨拶してくるから。この、一番奥なんだ」
「……え?」
太一郎は茜の返事を待たず、コートを脱ぐと茜の肩にかけた。
「子供を優先にするのはわかるけど、それじゃお前が風邪ひくぞ。十分くらいで戻ってくるから、車で都内まで送ってやるよ」
「いいわよ、そんなっ! せっかく奥さんに会いに来たのに」
「とりあえずここに墓があるってだけで、アイツはたぶん俺や美月の傍にいるだろうから……。とにかく、待ってろよ」
「でも、私」
太一郎は踵を返すと、通路を走るように行ってしまった。
こんなつもりはなかったのだ。
都内まで送られても、茜に帰る場所などない。バス停からこの寺までの道中、少し道を逸れたら深い森はいくらでもあった。そこでなら、首をくくっても誰にも迷惑はかからないだろう。そんなふうに思っていたのに。
ただ、小太郎をどうするか……。
父の墓の前に置き去りにすることも考えた。でも、茜の息子だとわかると、実家に預けられるだろう。母も弟夫婦も迷惑極まりない顔をしていた。面倒をみてもらえたとしても、邪険にされるのは目に見えている。
もし置いていくなら、身元がわからないようにして施設に引き取ってもらうしかない。叶うなら、子供のいない家庭にもらわれて、実子同然に育ててもらえたら……。
そのとき、茜はとんでもないことを思いつく。
この場に小太郎を置いていけばどうなるだろう。太一郎なら、少なくとも連れて帰り、茜を探そうとするのではないか。調べられたら、茜の嘘はすべてバレるだろうが、小太郎の身の振り方を考えてくれるかもしれない。
せめて、小太郎だけでも。
太一郎のコートを掴み、茜は彼の走り去った方向をジッとみつめた。