(1)再会
(……寒い……)
彼女は突風から腕に抱いた赤ん坊を隠すように抱きしめた。
都心からかなり離れた場所にある寺。彼女は石段を一段一段踏みしめるように上がる。上がりきったところには、彼女の父親が眠っていた。去年が十三回忌。でも、親不孝をして法要はおろか、墓参りすらできなかった。
(バチがあたったのかも……違うか、お父さんはそんなことしないよね)
今の自分が窮地にあるのは父親のせいじゃない。彼女自身のせいだ。そう思いなおし、キュッと唇を噛みしめた。
十年前、彼女は母親の過ちでひどい目に遭いかけた。でも、責任の多くは母親を騙した男にあるだろう。母親が立ち直るのにしばらくの時間がかかったが、そのおかげで彼女はひとつの悲しみを乗り越えることができたのだ。
それは、彼女にとって初恋だった。
思春期に父親を亡くした彼女が、助けてあげたいと思った七歳も年上の男性。どん底まで落ちても、人生はやり直せると、身をもって教えてくれた人。でも彼には、すでに命がけで守りたい女性と子供がいた。
彼女の恋は始まると同時に終わりを告げたのだった。
ひゅううぅ……と音を立て、風が足もとを駆け抜ける。春先だというのに、高台にあるせいだろうか、風は強くて冷たかった。コートは子供を包むために使っている。春用のブラウスにスカートスーツ、足もとが薄いストッキング一枚ではいささか寒い。
ゾクゾクする感覚が足から上半身まで伝わり、
(やだ、風邪でもひきそう。……もう、関係ないか……)
そのとき、風に乗って子供の笑い声が聞こえた気がした。もう、春休みに入っている。時刻は夕方、帰宅の早い父親を囲み、一家団欒を楽しむ時間なのかもしれない。
それは彼女にとって懐かしい光景だ。十四年も昔に失った理想の家族の姿――ただ、そこがとても近くに民家のあるような場所ではないのだが、このときの彼女に気づく余裕はなかった。
今の彼女は、帰る家も行くあてもなく、ポケットに小銭しかない状態で、お腹を空かせて墓地に佇んでいる。
(この子を連れて行くのは間違ってる気がする。でも、置いていくのは……)
年末に生まれて、生後三ヵ月。誰にも祝福されず……いや、彼女だけが望んでこの世に生まれ落ちた命。
せめて子供を預けて働きに出られるまで、と彼女は母親に頭を下げ実家に戻るが……。そこに彼女の居場所はなかった。
「お父さん、ずっと来れなくてごめんね。私、なんか疲れちゃった。そっち……行ってもいいかな?」
“佐伯家之墓”――彼女がみつめる墓石にはそう刻まれている。
十年の月日が女子高生を二十七歳の女性へと変えた。そして、人は簡単に取り返しのつかない過ちを犯せるのだ、と。間違いを正すことの困難さを、佐伯茜は知ったのである。
~*~*~*~*~
『今日はパパとママの結婚記念日でしょ。私は留守番しているから……。ママとゆっくり話してきて』
出がけにひとり娘、美月に言われた言葉を思い出し、藤原太一郎はハンドルを握りながら苦笑した。
彼が妻の奈那子と入籍したのは八月。でも、結婚式を挙げた三月のほうが、思い出深い。それで数えるなら、今日はちょうど九回目の結婚記念日だった。
だが、その日を夫婦で祝えたのはわずか二回。三回目を心待ちにしながら、クリスマスを三日ほど過ぎた夜、奈那子は静かに眠りについた。
彼女が命がけで産んだ最愛の娘は、そのとき三歳の誕生日を迎えたばかりで……。母の死に、『ママはとおくのびょういんにいっちゃうの?』と太一郎に尋ねた。
戸籍上は実子だが、血の繋がっていない太一郎に娘を預けて逝くのは、どれほど心残りだっただろう。そんな奈那子を安心させたくて太一郎は懸命に働き、美月を育ててきた。
ただ一度、一年間だけ離れて暮らしたことはあったが……。
美月が小学校に上がる年、太一郎は地方への転勤が決まる。栄転で初めて営業主任という肩書きをもらった。慣れるまでは帰宅も遅くなる。いくら社宅とはいえ、六歳の娘を見知らぬ土地でひとりにはできないと思い、卓巳・万里子夫婦に預けて単身赴任することに決めたのだ。
ところがその年の終わり、美月はたったひとりで九州の父親の家までやって来た。
『ご飯も作れるし、ひとりで学校にも行ける。勉強もちゃんとするからパパと一緒にいたいの!』
翌春、美月が二年に進級すると同時に転校し、父娘は再びふたり暮しをはじめたのだった。
それから二年が経ち、太一郎は本社の営業課長に昇進して戻ってきた。
千早物産に入社十年目、三十四歳にしては早い出世だろう。もしあのまま藤原グループに入社していたら、おそらく子会社の取締役といった肩書きはとうの昔についていたかもしれない。だが、その価値に石ころとダイヤモンドくらいの差があることを、今の太一郎は知っていた。
奈那子の眠る場所は東京都とは名ばかりの隅っこのほうだ。
藤原家代々の墓ではなく、彼女の実家、桐生家の墓でもない。太一郎が決めた見晴らしのいい高台。そこから、どこにでも飛んで行けそうな自由な場所を彼は奈那子のために選んだ。
やれ後継者だの血筋だの、家に縛られ続けた奈那子の一生だった。尽くし続けた父親にも、血が繋がっていないという理由で二十二年間の献身を否定されたのだ。今の彼女は何にも縛られていない。彼女の行きたい場所に行き、やりたいことをしているだろう。
(ま、奈那子のことだから、俺や美月が心配でいつも傍にいるんだろうけどな……)
車を駐車場に停め、事務所に挨拶をして墓所に向かう。
石段を上りながら、彼は亡き妻のことを考えつつ、
『心配なのはパパだけよ! 私はなんでもできるんだもの』
美月ならそう言うだろう、と思い、頬が緩んでくる。
早産、しかも仮死状態で生まれ、たびたび危篤といわれた美月。脳に酸素がいかなかった時間もあり、障害が残るとも言われたが……。
神様は奈那子から色んなものを奪った代わりに、美月にはあらゆるものを与えてくれた。
一四〇を超えるIQ、優れた運動能力、小三で小六の平均を超える体格と健康。しかも奈那子を上回る美少女ぶりだ。
最後のは、たまに親馬鹿と言われることもあるが……事実なのだから仕方がない。
石段を上りきったとき、風に煽られそうになる。
太一郎は、手にしたチューリップとスイートピー、かすみ草の淡い色でまとめられた花束を一旦下ろし、濃紺のスプリングコートを羽織った。
人がぶつからずにすれ違える程度の通路を進むと、ひとりの女性が墓石に向かって手を合わせていた。
彼岸を少し過ぎたばかりのこの時期、墓石はどれも綺麗に磨かれ、供えてある花も真新しいものが多い。だが、平日の昼間ということもあり、人影は彼女だけのようだ。
チラッと目をやった墓石に彫られた家名。
それは彼の琴線に触れるものだったが……軽く、過去に追い払おうとする。
その女性はエアコンの効いた事務所で働いている女性社員と同じような服装だ。春とはいえ、とくにこんな場所では寒くないのだろうか、とお節介なことを考えてみる。
通り過ぎたあと、太一郎はどうにも気に掛かり、振り返った。
「佐伯? ひょっとして佐伯茜か?」
十年前、わずかに掠めただけで離れてしまったふたりの道。
――運命の輪はふたたび回り始める。
御堂です。
迷っておりましたが、タイムリーなメッセージをいただきましたので連載開始することにしました(^^)/
第一章の結婚式から丸九年経ちました。
太一郎と茜が最後に会ったのがその前年の夏なので、ふたりは十年ぶりの再会です。
自力で這い上がってきた太一郎…
一方、茜は…どん底です(><)
『愛のかたちはひとつじゃない』
『人生は繰り返すように見えても、決して同じ場所にとどまっているわけじゃない』
それがこの輪廻のテーマです。
個人的には…34歳になった太一郎、かっこよすぎ(〃∇〃)
パパの前ではいい子ぶりっ子の美月ちゃんも登場します。
ちなみに、現在進行中の「仲良きことは美しきかな」では、太一郎は単身赴任中なので、美月ちゃんのみ登場する予定です。
よかったらお付き合いくださいませ。